『SF巨大生物の島』を家族で観ました。
2018/01/09
今日は息子と女房とで、『SF巨大生物の島』(サイ・エンドフィールド監督/1961年)を観ました。
CG時代の現代から見るとチープな特撮映像で、なんともイイ味を出しているのですが、それがまたタマラン!
しかし、映像がどうしたこうした以前に、映画としては結構面白かったですよ。
漂流モノって面白いよね。
『15少年漂流記』とか『不思議な島のフローネ』とか(笑)。
いずれも、私が小学生のときに夢中になった本やアニメなんですが、子どもって冒険好きだからね。
やはり、というべきか、いちばん喜んでみていたのは息子だった(笑)。
「よーし、俺も冒険するぞーっ!」って、1人で熱く燃えていました。
いいことじゃないですか。
脳がいちばん嫌いなものは、「普通」「並」「陳腐」「平均」「いつもと同じ」なのだそうです。
冒険とは、まさに、脳が嫌いなことの真逆な要素が満載な世界。
毎日が、いや、もしかしたら、一分一秒が変化とスリルの連続かもしれない。
だからこそ、危険とは隣り合わせとはいえ、脳にとっては興奮と喜びの連続なのかも。
子どもが好奇心旺盛なのも、このような冒険譚に夢中になるのも、当然といえば当然。
若い脳は刺激と変化を求めている。
しかし、学校、習い事、家を往復する子どもの日常生活は、社会人である我々よりも、平凡で変わり映えのしないことの連続なのかもしれない (だから、子どもに日記を書かすことは酷だと主張する教育者もいるくらい)。
このような、子どもの「非日常」「脱平凡」な世界を提示してあげるのも、親の役割なんだよなーと思っています。
だって、あたりまえだけど、物理的に子どもって、大人より財力ないでしょ? 普通は。
大人だったら、気晴らしに「今日は飲んで帰るか!」とか、「映画でも観に行くか!」とか「風俗行くか!」(笑)とか「パチンコ(パチスロ)するか!」と思ったら、それを適えるだけのお金は財布に入っているけど、子どもは、「○○するか!」と思っても、それを実現できるだけの「力」がない。
アイデアはあるけれども、適えるためのツールがないのですね。
だから、工夫しろ、ってことになるんだと思うんだけど、もちろん、私も普段はそう言い聞かせてはいるんだけど、それが、1年365日続くんじゃあ、せっかくの好奇心旺盛で、「非日常」を求める柔らかい頭がまいってしまう。
せいぜい、DSやテレビゲームの世界に居所をみつけるしかない。
で、これらのゲームって、脳の刺激ってあまりないらしい。
だから、お父さんお母さんは、たまにでもいいから、遊園地とか映画とか本屋とか食事とか散歩とか美術館とか水族館とか動物園に連れてってあげましょうね。
それが、子どもの脳への栄養なんだから。
栄養与えてあげないと、花だったら枯れちゃうよ。
自分の子どもの「脳力」、枯らしちゃっていいの?ってことだよね。
え?そんな時間的金銭的余裕がない?
そうだねー、最近は給食費も払わずに開き直る親が多いそうだからねぇ。
少し昔の親は、子どもには恥をかかせたくないし、子どもの前で自分も恥をかきたくないから、他のことを我慢してでも、給食費だけはやりくりしたそうですが、今の「給食費未納」な親はそういう気概がないのかねぇ。
しかも、給食費を回収しにきた先生に「今月はエステでつかっちゃったから払えません」と言い訳する親もいるとか……。
処置なしだよね。
おそらく、そういう親は、自分のことには一生懸命みたいだから、「なんで子どもに金や時間を使う必要あるわけ?」と思うのでしょうが、子どもに時間や金を使う必要は、ありますよ。あるに決まってるじゃないか!
と、私は普通に思うのですが、皆さんはいかがでしょう。
もちろん、半日べったりと一緒に過ごすとか、大枚はたいて高い買い物をする必要はなく、自分の持っている資産(=金、時間)のうちの、少しでもいいから、子どもに捻出するだけの気概があるか、ないか、それだけの話です。
お金なければ、大枚はたく必要なし。
時間なければ、何時間もべったりする必要なし。
ただ、自分の中の「ここまでだったら出せる」と思うぶんを子どもに出してあげる気持ち、これが大事なのよ。
子どもは敏感だから、親の言動、親の損得勘定をじっと見てますぞよ。
記:2007/06/27(from「趣味?ジャズと子育てです」)