「愛」と「正義」は鬱陶しい

      2024/08/25

「愛」は鬱陶しい

べつに私は反キリスト勢力でもなく、むしろ通っていた幼稚園はミッション系だったり、妹もミッション系の中学、高校を卒業したりしていることもあり、キリスト教の教えはある程度理解しているつもりだ。

だからといってキリスト教信者でもないけれど。

あ、あと念のためですが、何か特定の宗教や新興宗教などの団体に所属しているわけでもないのだけど。

ただ、キリスト教が唱える「愛」という言葉。
嫌いではないのだが、これには少々鬱陶しさを感じる。

なぜかというと、「愛」という言葉は、個人の欲求、感情から発せられる言葉だと考えるからだ。
たとえば「あなたを愛している」というセリフは、その言葉を発した人物個人の気持ちだよね?

まあ一人の相手に対してならそれほど気にする必要はないのかもしれないが、それがコミュニティや国家単位になるとどういうことになるのかというと、それは歴史を紐解けばすぐに分かる。

「汝隣人を愛せよ」を唱えつつ、「隣国」を侵略、殺戮を繰り返してきた国々が信仰していた宗教は何だっけ?

それと、「愛」という言葉は、どうも文脈的に交換条件に用いられることが多いような気がするのだ。

「こんなに愛しているのに、どうして振り向いてくれないのだ」
「私のことを愛しているのなら、あれをして、これを買って」

愛という貨幣に対して等価交換を求めているかのようなセリフに感じてしまうのは私だけだろうか?

「正義」も鬱陶しい

それと同様、「正義」という言葉にも、一抹のうさん臭さを感じる。

いうまでもなく正義というものは時代や地域の産物であり、絶対的かつ普遍的なものではない。

また、同時代、同一地域であっても、個々の人物によっても正義に対しての尺度は異なることだろう。

だから私は「正義」を振りかざす人間は嫌いだし、この正義という錦の御旗を振りかざせば振りかざすほど争いと憎しみの種を蒔き散らしているようにも見えるので、それは愚かな行為だとすら思っている。

「先生の言うことは正しいのだ、お前は間違っている」
「お母さん、何か間違ったこと言ってる?」

このような言葉にイラっとこない子どもなどいないだろう。
一言、うるせーよ、だよね?

正義という大前提があるから反論すらできない。
そう、反論を封じ込め、異なる主張を受け入れない言葉(考え)なのだ。

個人の間で使われるのならまだいい。

戦争、紛争など、大規模な国家間の争いはどうだろう?

両陣営(両国)ともに、「正義」を唱えていないだろうか?

この言葉がバックボーンにあるからこそ、それに反した相手に対する憎しみが生まれる。ねじ伏せようとする、支配しようとする、コントロールしようとする、引きずり降ろそうとする。

愚かだ。
醜悪だ。

もちろん私は、特撮ヒーローが使う「正義」は好きだし、ラヴソングの歌詞で使用される愛という言葉には何の抵抗感もない人間だ。
いずれもフィクションの中での言葉だからね。

しかし、大の大人が正義という言葉を振りかざす姿勢、マインドには幼稚さと傲慢を感じざるを得ないのだ。

そう感じる理由は、抽象的で曖昧な言葉である「愛」や「正義」は、人によって解釈が大きく異なるため、安易に振りかざすことで、自分の意見や行動の正当性を過度に強調しようとしているように感じてしまうからなのかもしれない。社会には様々な価値観が存在し、状況によって何が「愛」であり「正義」であるかは変化する。大人になれば、このようなことは薄々でもわかってくるはずだ。しかし、そのようなことを理解せずに、一律の基準で物事を判断しようとする態度はコドモ、お子ちゃまとしかいいようがない。

お子ちゃまといえば、「愛」や「正義」という言葉は、理想的な状態を表すことが多いのだが、現実社会では必ずしもそうした理想が実現されるとは限らないことは当然のこと、つまり、この理想と現実のギャップを感じている人にとっては、これらの言葉が現実逃避や自己満足のための道具のように感じられることもあるのかもしれない。

そして、このような言葉を振りかざす人の具体的な行動や思想が隠されているのかが不明確なことが多く、その言葉が単なる口先だけのものだと感じ、不信感を抱いてしまう。

また、中には「愛」や「正義」を絶対的な価値観として捉え、他者の意見や価値観を否定するような態度をとる人間もたまにいて、その背後から匂ってくる独善的かつ排他的な雰囲気には、どうしても反発心を覚えてしまうのだ。

いずれにしても、「愛」も「正義」も鬱陶しい。

いや、正確にはこれらの言葉を振りかざす人間、団体、集団が鬱陶しい。

言葉そのものに罪はないが、これらの言葉から派生した様々な想い、行動、(多くの場合は)ネガティブな感情や惨状は見るに堪えない。

「愛」や「正義」という言葉が、必ずしも善であるとは限らないことを認識し、批判的な視点を持とうとする姿勢も、「いい年こいたオトナ」には必要なことではないだろうか。

記:1999/03/13

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