ライヴとリバイバル〜マヘリア・ジャクソン、ニューポートでのライヴ
text:高良俊礼(Sounds Pal)
ライヴ 非日常
振り返ってみれば2011年の9月は、充実した「イベント月間」だった。
4日のサウスブロウ凱旋ライヴを皮切りに、11日にはハシケン&サケロック。
そして12日には、奄美在住の3ピース・バンド「しにものぐるい」のCD発売記念イベントと、立て続けに3つの素晴らしいライヴを大いに楽しんで、満喫することができた。
いずれも音楽性はまるで違うが、出演したアーティスト達はそれぞれのパフォーマンスによって、会場を沸かせ、または完全に別世界に聴衆を誘い、素敵な非日常を演出していた。
アーティストだけではない、その素晴らしいパフォーマンスに引き寄せられた聴衆も、思い思いのリアクションで、音楽から受けた衝撃や感動を全力でステージに跳ね返していた。
特に前列で観ていた若い人達は、時にステージの真下でモッシュ(背中合わせにぶつかり合うこと)の渦を巻き起こしたり、捨て身のダイヴ(ステージに上って聴衆目がけて飛びかかること)を敢行したりと、そのアクションはステージ上のパフォーマンスと、まるで同質のパワーを燃焼させ、同質のクオリティを精製しているように思えた。
ライヴ 祭り
「ライヴ」というのは、演ずる側も鑑賞する側も、束の間の非日常空間を創り出し、その一瞬の中を生きて歓喜することだ。
つまり「祭り」だ。
人間は祭りが好きである。
こればっかりは人種も国籍も宗教も問わない。
つまりみんな“ライヴ”が好きなのだ。
ところで普段私達がなにげなく使ってるこの“ライヴ”という言葉の語源は、アメリカ黒人の“祭り”であるところのゴスペルにそのルーツがある。
ゴスペル リバイバル
ゴスペルの公演は、アチラで「リバイバル」と呼ばれている。
“リバイバル”はなんて意味かというと“生き直し”である。
ゴスペルというのは教会音楽だ。
キリスト教には”懺悔”という観念がある。
音楽によって聴衆にこの“懺悔”の機会を与えるのがゴスペルだそうで、牧師さんや聖歌隊やバンドがノリノリでファンキーな音楽を演奏をするのには、聴衆にも同じ高揚感を体験させる目的がある。
つまり「ゴスペルを聴いて一緒に唄ったり躍ったりして懺悔しよう、そして生き直そう!」というコール(呼びかけ)と「うん、こんな俺だけど生まれ変わる!」というレスポンス(応答)全体が“リバイバル”なのだ。
マヘリア・ジャクソン リバイバル
2011年9月の回想から、話は一気に1958年のアメリカ「ジャズ・フェスティバル」に話は飛ぶ。
映画『真夏の夜のジャズ』で観た、この日のマヘリア・ジャクソンのライヴ映像は、まさしく「リバイバル」だった。
錚々たるメンツのジャズマンや、チャック・ベリーといったR&B界の超大物達が熱演を繰り広げる中、マヘリアだけが一人「ゴスペル・シンガー」としてステージに立った。
バックは確か、ピアノとオルガン、そしてベースだけだったと思う。
簡素ともいえる編成であの賑やかなフェスティバルのステージに立った彼女は、その豊かな声と、文字通り“祈り”そのものが込められた深い唄で、会場の空気を荘厳なものにガラッと変えた。
フェスに集った人たちは、必ずしもキリスト教の信者でもなければ、ほとんどはゴスペルの愛好家ですらなかったはずだ。
にも関わらず彼女の唄を、その息継ぎの音までもに聴衆がじっと聴き入り、曲が終わると万雷の拍手と歓声が沸きあがった。
そう、これこそが正に「リバイバル」。
無宗教の私が言うのもアレだが、マヘリアの歌唱は、人間が作った「宗教」という枠組みを越えて、もっともっと深い、理屈や教義など関係のないところに深く響く人間賛歌、言葉を越えたたましいの大歓喜、つまりアンセムなのだ。
マヘリア・ジャクソン ニューポート1958
マヘリア・ジャクソンの名盤『ニューポート1958』を聴き返し、感動に浸りながら再び、「ライヴ」というものを考える。
私たちは非日常の空間で、言葉を越えた大歓喜をやりとりしながら、私達はライヴによって毎回“生き直して”をやっている。
マヘリアはそれを教えてくれた。
一生の中で、これからどんなミュージシャンのライヴを体験するのか、あと何回ライヴを体験できるのか分からないが、体験した感動を忘れずに、次の「ライヴ」を楽しみに生きていきたい。
記:2014/10/21
text by
●高良俊礼(奄美のCD屋サウンズパル)
『奄美新聞』2011年9月25日「音庫知新かわら版」記事を加筆修正