ニンテンドーDSなくともわが家は元気にやってます。

   

rabit

先日、このブログに書いた「まだ、ゲームは必要ない」という記事。(⇒こちら

これに対して、関西に住む私の友人からコメントが寄せられていました。

いわく、今日び、ニンテンドーのDSを持ってないだけで、話題が合わずに仲間はずれにされる。

テレビの話題が合わなくても仲間はずれ。

……お前らの父ちゃん、全員、ニンテンドーかテレビ局に務めてるのかよ!状態ですね(笑)。

さもなくばDS教徒?

DS購買というお布施をすることで、「皆と一緒な安心感」というご利益を得ているわけ? うん、どうもそうらしいですね。

あ、カンチガイしないでね。べつにニンテンドー嫌いじゃないし、DSは正直、私も欲しいです(笑)。

私が批判したいのは、「DS持ってないと仲間はずれ」にするメンタリティのことね。

しかし、今も昔も「話題が合わず…」で仲間はずれ、イジメというのは変わりありませんね。

私が子供のときもそうでしたから。

私が子供の頃は、テレビの話題が合わないと、仲間はずれになることが多かった。

私が子供の頃は、7時半以降テレビ禁止だったし、中学になっても、8時以降のテレビはほとんど見せてもらえなかった。

コーラもほとんど飲ませてもらえなかったし、当然外食も禁止でした。

だから、ヘンな想像力だけが発達して、こんな人間になっちゃったんだけどさ(笑)、こんな家庭環境の子が他の子と話を合わせられるわけないじゃん。悪いのは誰だ?

テレビを見せない親か?

友達と話をあわそうしない俺か?

仲間はずれにしようとする友達か?

小さい頃は、ずいぶん親を恨んだものですが、悪いのは、仲間はずれにしようとする友達たち、もっと言えば、いまだ根付いている「5人組」「隣組」「村八分」の時代の、排他的なムラ意識ですね。

だから、オレはムラが嫌いなんだよぉ、ああ、なんだか書きながらムラムラ(怒)。

もっとも、私の場合は、話が合わないことでイジメにあったことはありませんが、話題が合わない寂しさは常に感じていました。

絵でも、テレビどおりにロボットやヒーロー描かないと、いちいちアゲアシとるウルサイやつが必ずいてねぇ……。

たとえば、ハートマークを7個つけたロボコンの絵を描くと「え~、ロボコンはハートマーク1つだけだよぉ」って、言ってくるやつが必ずいて、いちいちウルサイんじゃお前、とよくケンカしてました(笑)。

別にマジンガーが赤くたってイイじゃないの。シャア専用マジンガーなんだから(笑)。←って時代が錯綜してますが。

子供は純真で無垢かもしれないが、大人が思っている以上に、大人のリアクションを気にし、大人に対してどう振舞ったらよいのかを知っています。

私が小学校のときから、周囲のクラスメートに“杓子ジョーギャー”が多かったのが、なによりの証拠。

私が学校が面白いと思いはじめたのは、予備校に通うようになってから(笑)。

あとは、学校行くのイヤではなかったけど、ツマんなかった。

協調性の無い奴だったとわれればそれまでですが、杓子ジョーギャーとは協調したくないからねぇ。

で、大人になった今でも、杓子ジョーギャーというかアタマの固い店からは出入り禁止を喰らったりしているので(出禁の理由が「異端だから」。要は、異端者をどう扱いあぐねた店が下した判断なのでしょう。多くの人が見ているネット上で私に宣告したため、店のキャパと懐が逆に多くの人が知るところとなった事件)、私の自由気ままを追求する人生の旅は、いまだ続いています(笑)。

ちなみに、息子も将来、くだらないことで話がすれ違う可能性も出てくると思うので、幼少の頃から、こう言い聞かせてます。

「お前がイイと思ったこと、信じていることは、だいたい正しい。正しくなければ俺がただす。だから、周囲は気にすんな。オレがバックについている。」と言いきかせてます(笑)。

そのためか、小学校では自信を持ってバカをやってるようですし、時には自爆して周囲から顰蹙を買っても、ヘコたれてません。

むしろ、自爆した話、ズッコけた話、友達から顰蹙買った話のほうを家では嬉々として話すぐらいですから。

子供にとっての、親、特に父親の精神的なバックアップは強いし、効果があるんだなぁと思っています。

母親から「○○ちゃんのこと、お母さんは信じてるからね」なんていわれても、あんまり嬉しくないと思う(笑)。

子供じゃなくても、ヒトは、誰かからの承認や、精神的な支えがあると無いとでは大きく違います。

今の子供たちの精神的支柱が、「DSを持っているか、否か」だとしたら、それはあまりにも淋しい。

記:2006/11/13(from「趣味?ジャズと子育てです」)

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