音楽紹介は「言葉にできない部分」が重要です。

   

takara

text:高良俊礼(Sounds Pal)

音庫知新

その昔、地元の奄美テレビで「音庫知新」という番組のパーソナリティーをやっていた。

この番組は、いわゆる「音盤紹介番組」だったが、著作権の関係で、紹介するアーティストの番組を流すことができないという、音楽番組としては致命的な欠点があったので、「えぇい、だったら10分間ひたすらしゃべりまくってやれ!」と、半ば強引に収録を行っていた。

自分ではどうだったか、これは今でも正直なところよく分からないが、視聴した人からは

「何か、昔のタモリみたいで面白いね」

とか

「江戸前の落語を聞いてるみたいだよ」

とか

「アタシは音楽のことはよくわからんけど、アンタのしゃべりは面白いが」

とか、ありがたい反響を頂いていたものだった。

とりあえず「若い人に音楽を普及するための啓蒙活動じゃ!」と思って、そのためなら道化にでも何にでもなってやると、まぁ、その頃私も20代で血気盛んだったからいきり立っていたが、ケーブルテレビの主な視聴者は高齢の方が多く、想わぬ誤算だったがそれが結果として功を奏していたんじゃないかと、極めて甘い自己評価をして気持ちを落ち着かせてはいた。

音楽の魅力を言葉で伝えるには

しかし、毎回収録が終わればいつも「あぁ、今日はこのアーティストのこの作品の魅力を、どれだけ語ることができただろうか・・・」という疑問と不安が入り交じった想いがドッと押し寄せてくる。

それでもって毎日のように「音楽の魅力を言葉で伝えるには・・・」という禅問答を頭の中で延々と繰り返している。

実は、この問いの答えは最初から分かっている。

有り体に申し上げれば「音楽を言葉で表すことは不可能」だ。

言葉は言葉であって音楽ではない。

音楽もまた、音楽であって言葉たり得ない。

「語りかけるようなヴォーカル」や「音楽的文章」といった、限りなく”それ”に近いものは存在するが、それらはあくまで「的なもの」であって、そのものではない。

極論を言えば「理屈なんかどうでもいいぜ、音楽を楽しめば良いじゃない」ということになるんだろうし、それは絶対的に正論だ。だが、絶対的なものに対しては本能的な意地の悪さが働いて、どうしても相対化してやりたくなってムズムズしてしまう。

しかしこの、「答えなんかとっくに出ちゃってること」を、あれこれほじくって、また別の答えを引きずり出すのは楽しい。

いや、そこまでの過程に、何かいいものが転がってるかも知れないし、転がっていないかも知れない。と、ワクワクドキドキすることが一番楽しい。

「音楽を言葉で伝える」ことは、難しいというより不可能だ。

事実「はい、これです」と、曲をかけるに勝る説明はない。

しかし、言葉による解説は、アーティストや、その音楽、時代背景や異国の情緒などに対する果てなき思いを膨らませ、想像力を掻き立てる。

いわば実感と想像を繋げる役割を、喋りや文章が担っている。

「音庫知新」も、ダラダラと3年以上続いた。

はじめは「奇特な人がやっている奇特な番組」と見られていたが、視聴者からの「タモリみたい」「落語みたい」という意見を参考に、三遊亭円生やタモリの密室芸などを参考に、それなりに勉強しながら色々と考えつつ

「うん、私が視聴者に”コイツ面白い”と思われさえすれば、付加価値的に音楽のことに興味を持ってくれる人が100人に一人ぐらいは出てくれるだろう。」

と、完全な開き直りで収録をこなしていた。

結果「音庫知新」は徐々に「どんな人でも楽しめる和やかな番組」にレベルアップしていたようだ(これはつい最近になって気付いた)

「音楽のことはよく分からんが、何となくあのユルい感じが好きだ」と、視聴者の皆さんに言ってもらえたその時が一番嬉しかった。

記:2015/02/08

※奄美新聞.2009年11月28日『音庫知新かわら版』記事より、一部訂正

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●高良俊礼(奄美のCD屋サウンズパル

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