子どもは褒めて育てよう

      2016/03/26

tetsunagi

人間行動と自己開発のエキスパートとして、米国で人気の高い講演家でもある、シャド・ヘルムステッダーという心理学者によると、我々は、生まれてから成人するまでの間に、合計14万8000回もの否定的な言葉を聞かされているのだという。

これは普通の家庭に育った人の数字。もう少し幸福な人で10万回。さらによくても5万回ぐらいの否定的な言葉を聞かされているのだそうで。

我が家には2歳の子供がいる。

親の私は、「オマエはダメだ」といったような、人間性を否定するようなことは、今までに一度も言ったことはないが、なにしろ、年齢が年齢、生活や社会のルールはまだまだ身についていない状態なので、ついつい、「あれをしちゃダメ」、「これをしちゃダメ」といったような「叱り(怒りじゃない)文句」を言ってしまいがちだ。

個人的には「ダメ」という言葉があまり好きじゃないこともあり、出来るだけ「~はしないで、~をしようね」といったニュアンスで諭すようにはしているのだが、それにしても、意味的には、要するに「やっちゃダメ」ということには違いないわけだから、結果的には否定的な言葉と受け取られていることには違いはない。

日常的には、それほどたくさん「やっちゃダメ」といったような言葉を使っているつもりはないのだが、それでも20年間も累積させると10万回以上にも達してしまうのだろうか。だとしたら、ちょっと驚きだ。

どんなに明るく元気な子でも、10万回以上も否定的なことを言われてしまえば、何らかのカタチで心の中に積もりそうな気がする。

そして、それはあまり良いことではないことは確かだ。

しかし、子供に社会的なルールやモラル、そして礼儀や守らなければいけないことを身に付けさせるのも親の義務だから、言うことをきかなかったり、危険なことをしようとしたら、やはり叱る必要は絶対にある。

否定的な言葉は使わなければ良いということが分かっているとはいえ、親をやっていれば、言わなければいけない局面というのは、数えきれないぐらい出てくるはずだ。

マイナスな言葉を浴びせることが回避出来ない以上、だったら、なおさらプラスの言葉の回数を増やしてあげるしかない。

マイナスなニュアンスの言葉をプラスの言葉で相殺させてあげるしかない。

否定的な言葉が10万個以上も累積したとしても、それと同じくらい肯定的な言葉で満たしてあげる。

つまり、子供を積極的に褒めるようにする。

もっとも、無理して褒めても、嘘はすぐに見抜かれてしまうので注意は必要だが、それでも褒められて悪い気分のする子供はいないと思う。

いや、大人だって悪い気分はしない。

可愛い自分の子供のことだから、ちょっと探せばすぐに褒めるべき箇所は見つかることだろう。

最初はギコチナイかもしれないし、ワザとらしいかもしれないが、「口説き」と一緒で、慣れてくれば「褒め慣れ」してくるはずだ。積極的に良いところを見つけて褒めるように努めよう。

あとは技術論になってくるので、心理学や育児の本からや、親同士のコミュニケーションから情報を仕入れて、各々がシチュエーションや子供の気質に応じた褒め文句やタイミングを研究するしかないのだが、褒め方にも、ある程度テクニックのようなものはあると思う。

つまり、褒め方によっては逆効果になってしまうこともあるということ。

たとえば、これは誰かの話しの受け売りなのだが、絵を描いている子供に、「○○ちゃんは、絵が上手だねぇ」と褒めるのは、あまり良くないらしい。

「上手に」絵を描かないと、次からは褒めてもらえないという、強迫観念が芽生える子供もいるからなのだそうだ。

子供は親の顔色や機嫌を非常に敏感に察知するので、

「上手に絵を描いているから自分は褒められた」→「上手だと褒められる」という解釈になり、さらに勘ぐり深い子や、考えごとが好きな子供は、「ヘタだと褒められない→ヘタだと、もしかしたら怒られる?」と思い込んでしまうのだそうだ。

場合によっては、ヘタな絵を描いて怒られることを怖れて、絵を描かなくなってしまう子供も出てくるのだとか。

ウマイ・ヘタという技術論で評価するのではなく、こういう場合は、「○○ちゃんは、絵が“好き”なんだね」の方がベターなのだそうだ。

そうすれば、ウマイ・ヘタ関係なしに、「絵を描く行為そのもの」が親から容認されるわけだから、ノビノビと絵を描くことが出来るらしい。

ああ、面倒くさい。

もっとも、絵の褒め方にしたって、ケース・バイ・ケース。

今も昔も単細胞な私は「絵が上手なんだねぇ」と褒められたがために滅茶苦茶に発奮して、お絵描き教室で絵をたくさん描きまくって、幼稚園から小学校の低学年ぐらいまでは絵のコンクールでは必ず何らかの賞を取っていたので「ブタもおだてりゃ木に登る」な子供だった。

で、その遺伝子を受け継いだ(?)うちの子供も、せっかくドラムを褒めてやってるのに、「なにいってんだい、そんなの当たり前なことじゃないか」という顔をするので、いちいち褒める言葉の細かいところまでは気にする必要がなかったりはする。

褒める内容や切り口によっては「馬鹿にされた」と受け取る子もいるだろうし、「鬱陶しい」と感じる子もいるだろう。

また、「褒められ慣れ」しすぎて、無感動で生意気な子供もいるかもしれないが、そういう子は「褒め」られることよりも「オダテ」られ過ぎているのでは?「褒め」と「オダテ」は違う。

そこらへんの認識と境界線をキッチリ持つか持たないかも親次第。

マニュアル通りに褒めて、素直に子供が喜ぶわけはない。それだったら苦労しない。

しかし、子供を褒めること自体は悪いことではないはず。

あとは、各々の局面や、うつろいやすい子供の性格や気質によって、褒める切り口や内容を臨機応変に変えられるかどうかという、親の機転と、勉強の所産次第なのだ。

馬鹿の一つ覚えじゃないんだから、「いい子だね」「よくやった」「えらいね」だけじゃ芸が無さすぎるし、子供だって飽きるだろう。

別に言葉で褒めなくたって、こちらの気持が伝われば良いのだ。

じっと目を見て頷く。

これだけだって、立派な「褒め」だと思う。

「褒めれば育つ」というと、猫も杓子もただ褒めれば育つと勘違いする親もいて、かえって逆効果になってしまう可能性を考えれば、「ただし、上手に褒めなければならない」という限定条件も追加しておかねばならないかもしれない。

子供は「上手に」褒めて、良いところを積極的に伸ばしてあげることが、親の義務の一つだと思う。

記:2001/09/18(from「趣味?ジャズと子育てです」)

追記

褒めることは、子供の自尊心を育てるという面でも大切なことだと思う。

自尊心を持つことは大切なことだ。

ただし、自尊心の育て方、伸ばし方は、既に述べたように、ただヤミクモに褒めれば良いというわけでは無いと思う。

自尊心が大きすぎると、自己評価と他者評価の差違が生じる。この差があまりにも大きすぎると、「あの人は実力もないくせにプライドだけは高いよな」と周囲から顰蹙を買うのがオチだ。

いっぱしのミュージシャン気取りも、周囲から見たら単なる見苦しい「勘違い」といった唯我独尊の自尊心の持ち主というのは、よくあるケース。

自分の子供がそうなったら目も当てられない。

つまり、他者評価とのバランスが取れた自尊心を育んであげることが親の義務ともいえる。

では、どう褒めるのか。

まず、悪い例から考えてみよう。

「資質」を褒めること。

これは、長い目で見ると、ちょっと残酷なことなのかもしれない。

「頭がいいんだねぇ」「才能があるなぁ」といった類いの褒め言葉。

子供の一時的な自信獲得には役に立つかもしれない。

しかし、将来、社会の中での厳しい現実に直面したとき。自分の本当の実力を知ったときにはどうなるだろう?

自分なんかよりも頭の良い人間、より才能のある人間がゴマンといることに気が付いた時。

その時に感じた認識のギャップを克服するのも子供にとっては一つの試練なのかもしれないが、親から植え付けられてきた自己評価と、自分が感じた他者評価とのあまりの落差に気が付くと、かえって自信を喪失して無気力に陥ってしまうのではないかと思うのだ。

親が、まだ未開発な段階の資質や才能をむやみやたらと褒めることは、おだてるだけおだてて屋根の上に乗っけたらハシゴをはずすようなものだ。

だから、このような褒め方よりも、むしろ大切なことは、意欲や努力などといったプロセスを褒めてあげることではないかと思う。

つまり、「よく頑張ったね」とか、「前よりよくなったな」という子供の努力を褒めてあげるということ。

スポーツでも勉強でも音楽でもなんでもよいから、「課題達成の事実」と「頑張り」、時には「意欲」を褒めてあげることによって、子供の自信が育ってゆくのだと思う。

なぜなら、テーマや内容は何であれ、自尊心というものは「課題達成に対する社会的承認」によってもたらされるものだからだ。

私だって、自分自身の中にある自信の根元のパーセンテージは、「仕事」から得ているものが大きい。多くの社会人も、きっとそうだろう。

きちんと仕事をこなし、実績を上げ、評価を得ること。日々、積み重なる課題の一つ一つを丹念にクリアしてゆくこと。

多くの社会人は、このような積み重ねによって、少しずつ自分に対しての自信を強めているのだと思う。まさに「課題達成に対する社会的承認」だ。

これが無い職場の社員こそ、「うつ」になったり出社拒否になったり、聞いていると耳が腐りそうなしょうもない愚痴や不満を漏らしたり、見ていると目が腐ってしまいそうな愚痴の羅列を「ホームページの日記」にアップするんじゃないだろうか?

反対に、「課題達成に対する社会的承認」を得られる雰囲気、システムがあれば、たとえどんなに忙しい職種&職場でも、人は、ヘコタレずに、けっこうキッチリと働くものだと思う。

大人とてそうなのだ。子供だって尚更そうなのだと思う。

記:2002/02/28(from「趣味?ジャズと子育てです」)

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