嗚呼、『勝訴ストリップ』
2022/05/01
椎名林檎の新譜『勝訴ストリップ』をめぐっての、約1ヶ月間の日々……。
2000/03/30(木)
今日は、椎名林檎の新譜『勝訴ストリップ』の発売日だ。
早くも昼過ぎには、林檎ファンのある女性から「会社を早退して、今"タワレコ"で初回限定版を2枚購入しましたぁ!!」という声が携帯の留守電にはいっていた。
俺の場合は、どうせ帰社時間にはどこのCD屋も閉店しているだろうから、女房に買い物を頼んでおいた。
女房は昼過ぎに近所の大きなCDショップへ行ったらしいが、すでに店頭からは『勝訴ストリップ』がなくなっていたという。売り切れか?
予約しておいてよかった。
帰宅すると、書斎の机の上に置いてあった箱型パッケージにパッキングされた封を楊子とハサミを使ってビリビリに破いて開け、早速再生してみた。
そういえば、昨日は椎名林檎ファンの人たちと遅くまで飲んでいたが、考えてみると『勝訴ストリップ』発売前夜祭のようなものだったな、などとボンヤリ考えながら、早くも2曲目の『浴室』の腰の強いフレットレスベースのサウンドに惹かれ、ついで印象的なサビに頬が弛んだ。
バンドでやりたいと思った最初の曲。
このアルバムを通しで聴いてみた。
全体の感想。
うん、やっぱりベースがすげぇや、ウネっている!!もうウネリウネリまくり。目眩がするほど。林檎相手にゃ、これぐらいウネって丁度いい按配なのだろうな。
前作の『無罪モラトリアム』とは趣きと異にするトータル色の強いアルバムだ。しかも、このアルバムの持つ全体のトーンというか、「匂い」「雰囲気」のようなものが非常に明快で、個人的にはとても「掴み」の良いアルバムだと思った。
サウンドは半ば予想に反して、思ったよりも軽め、というかポップな感じ。
もっとも、彼女のライブ音源などを耳にしているうちに、ヘビーでサイケなアルバムになるんだろうな、と勝手に推測していただけなのだけれども。
どうせ、明日は徹夜覚悟の仕事があるので、聴くことは出来ないだろう。
もう一回通しで聴いてみよう。
2000/03/31
終日仕事に追われ、家に帰れず。よって『勝訴~』は聴けず。
だから、以前某ページのBBSでほんの少しだけ言及した、「歌詞削除の件」のことを書いてみよう。
歌詞の削除とは、『勝訴~』のラスト曲、《依存症》。
シャーべッツのロゴが溶けている
黄色い車の名は「 」の箇所。
言うまでもなく、このカギ括弧の中の言葉は、『罪と罰』のジャケットで真っ二つにされている林檎の愛車「ヒトラー」なのだが、マスコミに配られた『勝訴~』の試聴テープは2月下旬、このテープの回収騒ぎがあったことに端を発する。
私が知るキッカケとなったのは、3月14日に発売された音楽&ファッション誌『FAMOUS』。
「椎名林檎の言葉」という特集が組まれ、『勝訴~』収録の全曲の歌詞を掲載してあったのだが、ラストの歌詞に不自然な空白があった。
その少し前に発売した『週刊宝島』にも「東芝EMIが歌詞の一部を削除修正するため、テープを回収している。収録曲『依存症』で歌われる愛車の名前が、ある"歴史上の人物"と同じであることが理由らしい。」という旨が記載されていた。
いくら理由が、「史上最大の独裁者だから」とはいえ、アーティストの表現内容をレコード会社の保身のために削除するのはいかがなものか、といった旨を私は掲示板に記したのだが、意外や意外、「自由には制限がある。自由ったって、しょせん憲法で守られている上での自由だから」といったような、分かったような分からないような返答しかなかったので、掲示板上で、私と同じ考えを持っているであろう方に送ったメールを掲載してみよう。
その方が、その時の自分の考えの「勢い」のようなものを表せると思うので……。
こんにちわ、雲でございます。
あなたの掲示板への書き込みを読み、嬉しく思いました。
レスを書いたのですが、あの掲示板は、どうも長文は書き込めないみたいですね。
相当文字数を絞り込んで書き込んでも「字数オーバーです」の表示が出てしまう(笑)。
なので、メールを出すことにしました。私は、あなたのスタンス(反ナチス)、考え(マルコ・ポーロに関して)にほぼ同意見です。
様々な意見が出ること、そして仮にそれが誤っているとしたら、検証と論議する場があること、これこそフェアな環境だと思います。
で、今の世の中がフェアな環境かというと必ずしもそうではない。
「雰囲気否定」と「主体性のない雰囲気追随」の人も多い。
なんとなく「そのような雰囲気だから」ということで、自分の考えを留保、いや、考えることすらせずに周囲と同化してしまう人が多いように思います。
いや、個人だけではなく企業の姿勢にもそのようなことが多い。私は出版社勤めで、仕事としては広告を作る現場にいます。
広告には過激な言葉もときには扱うこともあります。
それをめぐって新聞社、テレビ局、電鉄などとモメることはしょっちゅうです。
互いの考えを出し合い、議論した上で引っ込めるものは引っ込めるし、通せるものは通す。一番良いのは、禁止用語が明文化されていることですよね。
「社の規定で××という言葉は使えない」と言われれば、それはそれで納得出来ます。
しかし、多くの場合は「なんとなくマズそうだから」という主張。
「ヤバいですよ」「いや、ヤバくないです!」の繰り返し。
これっていつまでたっても平行線ですよね。
両者ともに納得いかないまま、なぁなぁな状況で時間だけが過ぎてしまう。
これが一番後味が悪い。このような現状にはちょっとウンザリしていました…
今は「平成12年」ならぬ、特高が言論狩りしていた「昭和12年」かよ?
ってね。
間違っているかもしれないけど「おかしいんじゃないか?」と疑問を呈する勇気、
たとえ一人だけでも「王様はハダカだ!」と言える気概を常に持っていたいものですね。浅はかな考えであっても、自身の考えの至らなさを指摘してくれる人がいれば、
それはそれで一つ賢くなれるわけですからね。私が今回疑問に思ったのは、「ヒトラー」という言葉そのものではなく、アーティストの表現内容を押さえ込もうとしたレコード会社の姿勢なのです。
歌である以上、「言葉」ってすごく重要じゃないですか?
たった一言でも削除してしまうと、歌全体の意味やニュアンスが死んでしまうことだってあります。
表現の必然性があっての単語、それを一方的に削除してしまっても良いものなのでしょうか?だからといって何を言ってもいいというわけでもなく、それなりの節度というのももしかしたら必要なのでしょうが、
今回の歌詞は、
「シャーべッツのロゴが溶けている黄色い車の名はヒトラー」というものです。「車の名は…」と歌詞中にも断ってあるし、ヒトラーという名が出たからといってそれが即ナチズムに結びつくものではないと思います。
それでもマズいのなら、ライナーノーツに
「曲中の一部の歌詞に、ある歴史上の人物の言葉が登場していますが、アーティストの表現意図を尊重し、あえて削除しませんでした。その人物の歴史上の思想や背景とは一切関係ありません」
とでも断り書きをいれれば良いだけのハナシじゃないですか。私は表現者の言葉にこだわる気持ちは痛いほど分かりますし、それを商品として世に送りだす会社は、出来る限り表現内容を尊重しようとする姿勢を持つことは当たり前のことだと思います。
理不尽な因縁をつけてきた者に対しては堂々と戦う、この心意気は常に持っていないと「言論の自由」は守れません。
話せば長くなるので割愛しますが、昨今の新聞(特に読売)とJRは言葉の規制が戦前なみにヒドクなっているのです。組織が一人の表現者を世に出そうとすれば、その作家の表現内容や生活が世間的にバッシングを受けたとしても社を上げて全力でその表現者を擁護する姿勢がなければいけないと思います。
だって、そのアーティストのお陰で我々は商売させてもらっているわけですからね。ところが、今回のEMIにはその姿勢が感じられない。
ここからは、私の推測ですが、EMIは『勝訴ストリップ』の全面回収を恐れたからではないでしょうか。
詳しい経緯は分かりませんが、『マルコ・ポーロ』を廃刊にまで追いやり、『週刊ポスト』をして早々に謝罪をさせた、国際的にも非常にデリケートな「ユダヤ人問題」です。もし「ヒトラー」という言葉を削除しないままアルバムが世に出回り、何らかのカタチで問題にされれば、最悪の事態として、店頭に並んでいるアルバムの全面回収ということも十分に考えられます。
何せ、椎名林檎は何百万枚もの売り上げを見込めるビッグアーティスト、もし回収するような事態に陥れば、4月期の売り上げ見込みはガタ落ちになってしまうワケですからね。EMIはこのような事態に陥ることを想定して、あらかじめマスコミに配ったテープの回収に奔走しているのでは…?
以上が私の今回の一件に関する考察です。この状況を「まぁしょうがないんじゃない?」と受け止めている人が大半だとは思いますが、「表現者」として、自作の歌詞を会社の「世間的な都合」で削除された椎名林檎の気持ちを察するといたたまれないものがあります。
私もアマチュアながら曲を書くし、ライブもよくやります。
ところが、ライブハウスの都合で、「あの言葉は使わないでくれ」と言われたら、そりゃ納得いきませんし、イヤな気分になってしまいますよ。(後略)
といった、ことなのだが。
今読み返してみると、妙に大人びた諦観を気取った反応に対する苛立ちの感情も少し滲み出ている気もしないでもなく、ちょっとオトナゲ無かった気もするが、メールを送った方からの返事は私の考えを汲み取っていただいた上に、非常に冷静で的確な考察をされていた。
その中の一部を抜粋してみる。
「ヒトラー」事件で、昔、山口百恵の「プレイバック パート2」が、 NHKの紅白歌合戦で「真っ赤なポルシェ」を「真っ赤な車」と 歌われたことを思いだしました。
真っ赤な車と言い換えたことで、登場人物の女性が貧相になりました。
あれはやっぱりポルシェであるべきです。
「ヒトラー」がどう言い換えられるのか、もしくはその曲自体がなくなるのか。 本人やファンの知らないところで決められていくのでしょう。 本質的な議論もなく、「上がうるさいから仕方ない」と片付けられてしまうことは許せません。
うん、まったくその通りですよね。
さすがだわ、この人、と思ってしまったであります。
さてさて、ラストナンバーの問題の『依存症』。
ラストを飾るに相応しい抒情的なナンバー。
耳を澄ましてじっと「問題の箇所」に聞き耳を立てる。
この経緯を知らない人が聴いても違和感の無い流れにはなっているな。
なるほどね。
しかし、いったん知ってしまった以上は、『依存症』の例の空白が訪れるたびに、心の中で「ヒトラー」と呟いてしまうのだろうな。
2000/04/01(土)
何でだろう、この流れの中に身を任すと、既にシングルで発売されていた既知の3曲ですら別の曲のように響く。
『ギブス』にしろ、『罪と罰』にしろ、『本能』にしろ。
2000/04/02(日)
「あたしが完全に溶けたらすぐきちんと召し上がれ」
何て素敵な響きの言葉なのだろう。
「きちんと召し上がれ」。
ハイ、キチンと召し上がります(笑)。
私は綺麗な日本語を話す女性が好きだ。それだけでソソラレル。
昔、森田芳光監督の『それから』という映画で、
藤谷美和子のセリフで「寂しくていけないから…」というものがあった。
寂しくて「いけないから」。
今はあまり使わない表現だ。でも、言葉がとっても綺麗に響いた。
耳がくすぐったくて興奮してしまった。
もし自分が「寂しくていけないから」とキレイな女性に言われたら、
もうその言葉だけでメロメロになっていることだろう。
内面の静かに燃える欲望を、抑制された態度と言葉でオブラートをくるみ、それでも、微かに内面の温度が感じとれる言葉。
「すぐきちんとめしあがれ」。
果たして正しい日本語なのかどうかはよく分からない。
でも、そんなことは関係無い。響きが素敵で奥ゆかしきエロスに満ち満ちているではなひか。
『それから』の「寂しくていけないから」と同質の色気を感じるぞ。
んもう、言葉でイカさないでね。
あ、俺って変態?
2000/04/03(月)
以前このサイトの他のコーナーにも書いたが、彼女の詩を「読もう」としても、ダメなんだよな。
自分の読解力不足によるものは重々承知の上なんだが、「目」で歌詞カードを「読んで」も、あまり「入って」こない。
言葉が難解というわけではないのだが、たとえば『Rocki'n On Japan』などのインタビューを読んでも同じ、なんだか読んでいる端からスイスイと言葉が通り過ぎていって何も残らない。
ところが、サウンドに乗っかると、急に説得力が増す。サウンドと合体して「意味」っていうと語弊があるが、「表現」が自分の中に入り込んでいくことが自覚することが出来る。
もっとも、文字だけで完結しないから歌なんであって、これが歌の本来の正しい姿なんだろうね、と思う。
音楽をかけないで、一曲目の『虚言症』の歌詞を目で追いかけると、異様に「無い」「ない」という言葉が多いことに気が付く。
しかし、だからといって「無い」の多さから、ああだこうだ分析するのも何だか不毛な気もするし、もうその時点で音楽を楽しむというところから別の方向へ飛んでいってしまっている気がしてならない。
第一、歌だけを聴いていた時点では全く気が付かなかったことだし、サウンド上では「無い」の多さ少なさなんかよりも、アレンジの素晴しさ(特にサビ前・サビ中)や、「線路上に寝転んでみたりしないで大丈夫」というフレーズだったり、『無罪モラトリアム』とイメージの中で重なってしまう彼女の歌声だったりするのだから。
2000/04/04(火)
以前このサイトの他のコーナーにも書いたが、彼女の詩を「読もう」としても、ダメなんだよな。
自分の読解力不足によるものは重々承知の上なんだが、「目」で歌詞カードを「読んで」も、あまり「入って」こない。
言葉が難解というわけではないのだが、たとえば『Rocki'n On Japan』などのインタビューを読んでも同じ、なんだか読んでいる端からスイスイと言葉が通り過ぎていって何も残らない。
ところが、サウンドに乗っかると、急に説得力が増す。サウンドと合体して「意味」っていうと語弊があるが、「表現」が自分の中に入り込んでいくことが自覚することが出来る。
もっとも、文字だけで完結しないから歌なんであって、これが歌の本来の正しい姿なんだろうね、と思う。
音楽をかけないで、一曲目の『虚言症』の歌詞を目で追いかけると、異様に「無い」「ない」という言葉が多いことに気が付く。
しかし、だからといって「無い」の多さから、ああだこうだ分析するのも何だか不毛な気もするし、もうその時点で音楽を楽しむというところから別の方向へ飛んでいってしまっている気がしてならない。
第一、歌だけを聴いていた時点では全く気が付かなかったことだし、サウンド上では「無い」の多さ少なさなんかよりも、アレンジの素晴しさ(特にサビ前・サビ中)や、「線路上に寝転んでみたりしないで大丈夫」というフレーズだったり、『無罪モラトリアム』とイメージの中で重なってしまう彼女の歌声だったりするのだから。
2000/04/05(水)
本日の「日刊スポーツ」によると、椎名林檎の公式HPでの《浴室》のダウンロードサービスが非常に混みあい、ダウンロードに成功したのは、8万アクセス中の僅か2万5千件なのだそうだ。
いやはや、すごい人気。
私の場合は、このサービスの存在を知ったのが遅かったため、アクセスした時は既にサービスは終了していた。
《浴室》は、何度も書いているとおり、アルバム中では最も好きな曲の一つなのだが、一曲目の《虚言症》もかなり好きだったりする。
この曲を聴くに、前作の『無罪モラトリアム』の雰囲気を濃厚に漂わせているような気がする。
そして『無罪~』にはなかったサウンドの新局面、《浴室》の登場。心憎い配曲。
《虚言症》→《浴室》。この流れが非常に好きだ。
《虚言症》はメロディにしろ歌詞にしろ実に懐の深さを感じる曲。
印象的なサビは、《浴室》と同様に、ジワジワと脳内に進入し、ループし始める。
《虚言症》。この曲こそ『勝訴ストリップ』のオープニングに相応しく、『無罪モラトリアム』の《正しい街》に比肩しうる素晴らしいアルバムの出だしだと思う。
2000/04/06(木)
先日、生保界のミッシェル・ガン・エレファント(?)氏と呑んだ際、
「いいんですけど、何かガツンときませんでしたね。」
と言われた。
氏の唱える「ガツン」は、サウンドの肌触りのことなのだと思うのだけれども、だとしたら私も同感する部分は確かにある。
思うに、ギターもベースも、あるいは林檎本人のヴォーカルのエフェクト処理をとっても、かなりエグイことをやっていることは確かで、たとえばこのサウンドをそのままライブで表現したとしたら、相当「イッちゃった」サウンドになることは明白なのだが、恐らくミキシング処理の問題なのだろう、ザラついた触感が確かに少ない。「ザックリ!」とくるような音のヒゲがない。
全体的にツルンとしたサウンド処理が施されている、と個人的には思うことなしに思っていたので、ミッシェル氏の指摘はマトを得ているような気がした。
さすがに、ミリオンセラーを確約された商品なだけに、どのターゲットにもリーチ度の高い最大公約数的な、良くも悪くも「無難な」音の処理が施されている感じはする。
もっとも、これぐらいのサウンドでも、「耳に痛い」、「前作よりもノイジー」と感じている方もいらっしゃるので、あながち今回のサウンド処理ばかりを責めるわけにはいかないと思う。
要は、普段聴いている音楽と比較した上での好みの問題だからね。
2000/04/09(日)
ライブをやった。
「立憲ポムドゥテール」という林檎のコピーバンドから派生した、ヴォーカル・ギター・ベースの小ユニット。最低限の編成で、林檎の楽曲をこのフォーマットに相応しいアレンジを施して演奏するのだが、これがまた楽しい。
バンド名は「おにくやさん」。
演奏曲の中には残念ながら『勝訴~』のナンバーは無い。
選曲した時点ではまだ『勝訴~』は発売されておらず、2枚のマキシが出ている段階までの曲を演奏した。
もちろん、この編成でも『勝訴~』の曲を演奏してみたいが、個人的にはもう少し時間が欲しいところではある。
もっともっと聴き込んで、自分の中での何らかのカタチとして落ち着かせた上でじっくり取り組みたいと思っている。
既に書店や楽器屋には『勝訴~』のコード付の歌詞特集を組んだり、バンドスコアが掲載されている雑誌があるので(実際購入したが)、音ヅラだけを指先でなぞるのはさして難しいことではない。
しかし、自分の中で咀嚼して曲の「芯」のようなものを掴んだ上で取り組みたいという思いも強い。
この3人編成では、アルバム通りのアレンジで演奏することは不可能だ。
まずは曲の雰囲気や構造を咀嚼吟味した上でアレンジを施さないと、とても聴けたサウンドにならないだろう、という恐怖感すらあるし、そのような思いを抱かせるほど『勝訴~』収録の楽曲は手強い。
今回、3人編成でアレンジを変えて出演しても、まぁ何とか人様の前で聴かせられるクオリティを辛うじて保てたのも、ひとえに「立憲ポムドゥテール」のほうで純粋なコピーを何回も何回も繰り替えしたお陰で曲そのものがカラダに染み付いていたからだったのかもしれない。
個人的には『依存症』や『浴室』、『虚言症』『弁解ドビュッシー』などをやってみたいと思うが、果たしてギターとベースだけで、どこまでヴォーカルのサポートを出来ることやら。
さきほど、「手強い」と書いたが、「研究のしがいがある」ということでもあるので、まぁ、じっくりゆっくりと取り組んでいこうと思う。
2000/04/11(火)
「ブックレットの表紙の林檎、そしてバックの花が手塚治虫チックだね」
とは、ギター界のオロナミンCこと、うちのバンドのギタリストこんちゃんの指摘。
薔薇色青年こてこてクンも激しく頷いているようだ。
ふむふむ、優しい曲線といい、柔らかな色使いといい、言われてみれば確かにそのとおり。
しかし、このイラストというかビジュアルコンセプトとタイトルの『勝訴ストリップ』とはどういう関連性があるのだろうか?
アホな私にはわからない。
そもそも、そんな関連性、最初から求めようとすること自体野暮なのかな?
2000/04/12(水)
再びベース界の軽部真一(?)・まひまひ氏と『勝訴~』についての会話が盛り上がる。
「3曲目いいですよねぇ。」
「ドビュッシーですね。」
「そうそう、弁解。」
「弁ドビュ。」
「なんか汚いな、下痢みたいですね。」
「けひひひひひ。でもベース凄いよ。」
「ベース、歪んでいて。遊んでるし。」
「そうそう、遊んでるし。」
「歪んで、遊んで、カッコいい」
「そうそう、歪んで、遊んで、カッコいい」
「ズババババババババがいいですよね。」
「そうそう、ズバババがねぇ。」
「歪んでスバババ。」
「歪んでズバババ。」
「けけけけけけけ。」
「ひひひひひひひ。」
※注意:妖怪の会話ではありません。
2000/04/13(木)
演歌界のストレプトマイシン(?)・赤っぴからメールが来た。
彼女は、ちょうど現在「紅白」のページを担当しているからか、
3/31の「ヒトラー規制」に関しての記述を読み、
「紅白では"真紅のポルシェ"と歌っていた」という指摘をしてくれた。
ただし基本的にはNHKでは「ポルシェ」という言葉はNGだったそうで、
「紅白に限り」OKだったようだ。
理由は、
1、トリだったから。
2、同紅白で歌われた《飛んでイスタンブール》中にも商品名があって、この2曲に限ってはOKが出た。
からなのだそうだ。
わざわざ、当時の紅白のビデオを所有している人に確認まで取ったというから恐れいる。
ただし、メールを送って下さった方の言いたいことは、紅白で「ポルシェ」と歌ったか否かということではなく、
「たった一言でも歌詞が変わると、曲全体のイメージまで変わっちゃうね、怖いことだよね」
ということなので、言いたいことのニュアンスさえ伝われば特に修正することも無いだろうと判断した。よって、赤っぴからの指摘には感謝しつつも、記述自体は修正せずに、そのままにしておく。
それにしても、「言葉の規制」。
私もよく新聞社から代理店を通して「この表現、今回に限っては仕方がないからOKよ」と言われることはよくあるのだが、頭の固そうなNHKにもそういうことがあるんだな、と思った。
広告で使用する言葉で、「まぁ今回は仕方がないでしょう、でも次回からはダメですよ」とよく言われる言葉の代表が「テレカ」。
登録商標なのでNG。
「○○名様にテレカプレゼント」という表記は広告上では使っちゃいけないのだ。
正しくは「テレフォンカードプレゼント」としなくてはイケない。
なんだか文字数が多くてレイアウトしづらい上に、読者にとってもパッと意味が目に飛び込んでこないので、「テレフォンカード」は、あまり使いたくない言葉だ。
だから、「今回限りだから、お願い、お願い、使わせてよ」とお願いして、何度も載せてしまっているけど(笑)。
2000/04/14(金)
以前、《ギブス》《罪と罰》《本能》など、既にマキシとして発表されている曲も、アルバムの流れに身を任せると全然別の曲に聞こえて新鮮だという旨を記した記憶がある。
ところが、別冊宝島506『音楽誌が書かないJポップ批評6』に私と同様の感想をSMに準えて書いている記事を目にした(もっとも言及しているのは『ギブス』に関してだけだが)。
面白いので、ちょっと長いが引用してみよう。
頭から「ギブス」までの四曲は完全なSMのメタファーと化している。
(中略)
電流を流し込んで音を歪ませるやり口の連続は、受け手側のローターで散々責められながらもお預け喰らわせている状態を作る。それが三曲も続くんだから、我慢ならない体は穴という穴から体液を流しまくる。
でも、バラードの王道ともいえるピアノ主義のやさしいメロディが挿入されると、今度は“愛”を感じた時の涙がどっと溢れてくる。ホントこのSMの起承転結ともいえる世界には、マゾヒストが快楽を語る時に生ずる独特の切実さを感じてならない…
正直言って、シングルとしての『ギブス』は、カラオケで女の子を可愛くさせる以外、地味という感想しか残さなかった。しかし、こうもいい具合の持続感を伴った並びがなされていると、自然と“音楽”としての魅力が浮き彫りになり、その四曲はセットでエンドレス状態へと突入する。(後略)
(「アルバムを通して分かったギブス快楽」より)
いやはや、スゴイ喩えですな(笑)。でも面白い。
曲の流れについても、聞こえ方の違いについても同感。ただし、SMはよく知らないけど(笑)。カラダではなく、言葉では辛うじて理解できるレベルです(赤面)。
ただ、このアルバムの流れでは、最初のクライマックスはギブスなんですかねぇ。クライマックスとは言いがたくても、私の場合は既に『浴室』のサビの「めしあがれ」で昇天しちゃってるんですけどね(恥)。
2000/04/15(土)
「おにくやさん」のヴォーカル・朝美姫が『勝訴~』の中で歌いたい曲の一つは、『月に負け犬』だそうで、また、何人かの人からも、次のオフ会(4/30)では同曲をやって欲しいというリクエストがあったので、重い腰を上げて(ライブ以来まったくベースを触っていないのだ)、ベースと、『月に負け犬』のバンドスコアの載っている先月号の『Badge』を取り出した。
CDに合わせて弾くと…、あれ?譜面よりも半音下げのチューニングじゃん!?
なんだよ、いくらフラットやシャープが多いからって、サウンド通りの記譜をしろよ、と思って練習中止。移調して弾くの面倒くさい。やーめた。
でも、次のオフ会での演奏どうしよ?
2000/04/16(日)
護衛界の林檎ファン(なんじゃそりゃ?)・姫護衛クンからメールがあった。
「歌詞見なくても大丈夫、全部通して『勝訴・ストリップ』って感じ」ということが書かれていたが、まさにその通りだと思う。
私も一曲一曲をブチ切りで再生することはほとんどしていない。
『無罪モラトリアム』の時は、たとえば、3曲目の『丸の内サディスティック』までを通しで聴いて、4曲目の『幸福論~悦楽編』を飛ばして、5曲目の『茜さす』を聴く、ということもやっていたのだが、今回のアルバムでは殆どそういうことはしていない。
気分によって曲を飛ばそう、という気が全くおきない。
《虚言症》から《依存症》までを聴いて、始めて1曲を聴き終わった、という気分になる。
これで思い出したのは、プリンスの『Love Sexy』というアルバム。
全部で9曲が収録されているのだが、CDをデッキに入れると表示されるのは1曲だけ(確かレコードの方には溝が入っていたような気がしたが)。
最初から最後まで、曲の流れに従って聴いておくれよ、というアーティスト側の強い主張なのだろう、確かに盛り上がりアリの、泣かせありの、落としドコロありと起伏に富んでいる上に、まったく飽きさせない構成になっている。
私はこのアルバムが大好きで(ジャケットもね)、リリースから10年以上経っているにもかかわらず、全く飽きずに頻繁に聴いているアルバムの一つだ。
今回の『勝訴ストリップ』もプリンスの『Love Sexy』同様に13曲まとめて「1曲」にしちゃってもオレ的にはOKだったのに、とも思っている。
それほど、トータルアルバムとしての完成度は高いし、ただの1曲も飛ばして聴こうと思う曲が無いということはスゴイことだと思っている。
2000/04/18(火)
インテリア界の俳人(?)・まりりん氏との会話。
「ベースが亀ちゃんじゃなかったら、アルバムの魅力も半減よね。」
「ブリブリっぷりがスゴイですからね。あのブリブリが無かったら随分オトナシイ内容になっていたでしょうね。」
「あのベース、本当にカッコいいよねぇ」
「ウネリまくりでエロいっすよね。彼女のエロさの加速装置というか、ブースター的役割ですよね。亀田誠二のベースは。」
「私、音楽かけると最初にベースの音が耳に飛び込んでくるから。」
「ベース好きな女の人って、スケベな人多いですよね。」
「だって、低音って何か、こう、ヤラしくない?」
「そうですね、そういう私もベーシスト。えろえろ。」
「えろえろ。」
「えろえろ、うきゃきゃきゃきゃ。」
相変わらず、椎名林檎とベースがミックスされた話題になると、傍から見ると禁治産者なみの会話しか出来ない私だが、亀田誠治のベースは本当にエロだと思う。
そして、椎名林檎も表現者として、とてもエロだ。
別に、ルックスとかコスプレとか世間的に定着しているイメージから、エロと感じているわけではない。
奥深い表現力と、聴衆の内面の深いところまでを侵食してくるパワーが則ちエロなのだと思っている。
そして、この「エロ」とは私流の最大級の讃辞。
色気の感じない音楽などつまらない。
音楽は「艶っぽくて」なんぼ。
「濡れていて」なんぼ。
そして、「エロくて」なんぼだと思う。
椎名林檎に限らず、素晴らしい表現力を持つ音楽家はどこかかしら「セクシャルな色気」を持っていると思っている。
2000/04/19(水)
今月の『BASSマガジン』の表紙は亀田誠治氏。
怪しすぎる目つきゆえに(笑)、店頭でスグに発見することが出来た。
パラパラと捲ると、氏の所有しているベースの紹介や(本数多い!)、『勝訴~』収録全曲のオイシイフレーズが本人自身の解説付きで記載されている。
これは買うしかない。思わずレジへ。
後でゆっくり読もう。
2000/04/20(木)
《サカナ》のサウンドが好きだったりする。
ちょっとジャズっぽいランニングのベースラインと、バックを妖しく飾るミュート・トランペットに耳を奪われたから、というのが正直なところなのだが、歌詞は結構厳しいこと言ってるね。
椎名林檎の声(あるいは歌い方)って、こういうリズム、アレンジのサウンドには抜群にマッチするね。
サビのベースのウネリが凄い。グルーヴしまくっている。
2000/04/23(日)
バンドの練習日。
『勝訴~』の曲の練習は一曲もして行かなかったが、ギター界のオロナミンC・こん氏が雑誌の切り抜きを持ってきていたので、コードだけを見ながら、サワリで合わせてみた。
《虚言症》、覚えているようで構成覚えていず、途中で空中分解。
《浴室》、ドラマーとともに途中で息切れ、自爆。
《アイデンティティ》、構成覚えればそんなに難しくなさそう。しかもキャッチーな曲だから、ちょっと練習すれば楽しめそう。
《依存症》、これも練習すればすぐ出来そう。しかしヴォーカル抜けた後のインストのパートが長いからライブでやる時はカットした方が良いかも。
てな感じでしたが、《浴室》、慣れないまま、かなり強く弾いたので手首が痛くなってしまった。
練習を終えたら今度は腰にきて、ヘロヘロ状態になってしまった。
ああ、年かな……。
2000/04/24(月)
先日、バンドの練習でギタリストのこんちゃんが持ってきた、『勝訴ストリップ』の全曲の譜面収録の『月刊歌謡曲』を購入しようと書店へ行くも、既に新しい号が店頭に出ていた上に、その号には《罪と罰》ぐらいしか掲載されていなかったため購入を断念。残念。
2000/04/26(水)
オフ会で知り合ったこてこてクンのお陰で、椎名林檎のライブ『下克上エクスタシー』をNHKホールまで見に行くことが出来た。
生憎の雨だったが、会場は林檎ファンでごったがえしていた。
こてこてクンの当たった席は、2階の席。
したがって、その席から見える林檎やバックバンドのメンバーは中指ほどの大きさ。
何か白っぽい服を着て登場したなぁ、と辛うじて認識出来るぐらい。
なにせ、その時林檎が着ている衣装は血まみれの白い服だということは、翌日のスポーツ紙を読んで初めて知ったぐらいなもんだからね。
以下、印象に残ったこと、感じたことを思いつくままに列記していこうと思う。
●オープニングに登場した「なんとか勝ち戦楽団」という弦楽団(ピアノ、チェロ、コントラバス、バイオリン×3)をバックに林檎はメドレーを歌った。
幸福論~リモートコントローラー~正しい街。アレンジが秀逸だった。
●照明が、手術室の無影灯を模したライティングだった。
●それぞれ演奏者の動きが控えめだと感じなくもなかったが、その分演奏自体はとても丁寧だった。
●アレンジもオリジナルに極力忠実に再現されていて、まるでアルバムを大音量で聴いているような錯覚に陥った。とはいえ、ドラムが派手でカッコよかった。
●《積み木遊び》のリフにあわせて、林檎は正拳付き。
●《ギャンブル》《やっつけ仕事》という新曲を披露した。
●《依存症》の例の箇所は、ちゃんとヒトラーと歌っていた。
●《シドと白昼夢》のAメロのリズムアレンジがとてもカッコよかった。強いて言えばドラムン・ベースに近いリズムと心地よさ。
●ラストの《同じ夜》は再び「勝ち戦楽団」をバックに前半、後半は「虐待グリコーゲン」のリズムが加わり迫力満点の演奏。
●アンコールで披露したのは《月に負け犬》の一曲のみ。
●《丸の内サディスティック》はやらなかった。
●アンコール曲披露の後、舞台から去ったメンバー、心臓の音がだんだんと大きなり、やがてスローになり、消えた。林檎が死んだという設定なのか、林檎のいた場所に花束が捧げられ、ライブ終了。
ふ~、けっこうたくさん文字書いたような気がする……。
記:2000/03/30~04/26
追記
『勝訴ストリップ』は、椎名林檎のアルバムであると同時に、ベース名盤でもある。
このアルバムのプロデュースを手がけ、自らもベーシストとして全面参加している亀田誠治に拍手100回!
フェンダー66年製のジャズベースから放たれる芯の通った音。
この音に、ジミ・ヘンのギターを“あの音色”たらしめた回路を作ったロジャー・メイヤー製のヴードゥ・ベースを直列で2台もかまし、攻撃的で、しかも歪みまくったサウンドが林檎のヴォーカルに絡んでゆく。
そこには、“曲をサポートする”という当たり前なベース的発想はない。
ほとんどの曲が一発録りだというこのアルバムの曲群。
やり直しの聴かない一発勝負の中、亀田のベースは、曲に挑み、曲を犯し、ヴォーカルを挑発&触発し、最終的には、ただならぬ高密度なサウンドの結晶を生み出すことに成功している。
こんなエグいベースと対等に張り合える椎名林檎という歌手の存在感のスゴさも証明したアルバムでもある。
記:2009/05/21