テクノドローム/濱瀬元彦

      2021/01/31

technodrome
Technodrome

エレベーターガールのアクセント

最近はめっきり見かけなくなってしまったが、私が子供の頃には、どこのデパートに行っても必ず妙なアクセントでフロアを案内するエレベーターガールがいたものだ。

「4階は、婦人ふっくぅ、高級アクセッサリぃ、5階は子供ふっくぅ、玩具とぶっんぼっお具売り場ぁ、で、ごっざいまあっす」

みたいな、妙な作り声と、妙なアクセントとイントネーションのアナウンス。

何故、エレベーターガールは一様にこのようなアナウンスをするのか?

誰かに聞いたんだけど、これは、方言を隠すための人工的なアクセントなのだそうだ。

東京に出てきた地方出身者で、自らの出身地のアクセントを隠そうとしないのは関西人だけのようだが、それ以外の地域の出身者は、特に東北地方出身者が多いそうだが、無理して方言を押し殺し、東京のアクセントに合わそうとする傾向が高い。

しかし、一朝一夕で東京風のアクセントに矯正できるわけもない。

そこで、デパートとしては、方言を隠すための、どこの地方にもないアクセントを発明したというわけだ。この妙なアクセントならば、少なくとも東京弁を学習するよりかは早く身につけられる。

べつに、東北弁だろうが九州弁だろうが、エレベーターのガイドに訛りがあってもイイじゃないかと私は思うのだが、お客様からのイメージを大事にする(気にする)デパートとしては、そうもいかないらしい。

ま、たしかに銀座や日本橋のデパートのエレベーターガールが、東北訛りだったら、それはそれで面白いかもしれないけれども、「せっかくオメカシして高い買い物をしにやってきたのに、なにこれ!」と怒り出すお客さんも出てくることは容易に想像がつく。

だって、これはデパート関係者から聞いた話なんだけども、お盆や連休の時期こそ、デパートは掻き入れ時の時期だそうで、半端じゃない売り上げを上げるのだそうだ。

なぜかというと、連休の東京は、地方出身者でごった返すから。

せっかく東京のデパートにやってきたのに、地元の方言で喋るエレベーターガールに出くわしたら、お客さんの「東京のデパートで買い物する」という満足感が下がってしまうかもしれないからね。

だからこそ、デパート側は、短期間で習得可能な新たなアクセントをエレベーターガールに教育したというわけだ。

人工的な訛り

エレクトリック・ベースプレイヤー、濱瀬元彦。

私は彼の即興演奏を聴くたびに、エレベーターガールの人工的なアクセントを思い出してしまう。

彼は、元はといえばジャズの演奏をしていた人だが、活動の領域を広げ、ジャズと一言ではくくれない、アンビエントな音楽を創造するようになっている。

彼のジャズに対するスタンスはライナーノーツや、アルバム発売当時のインタビューを読めば明らかで、

「インプロヴィゼーション=実存という古い神話」

「End Of Legal Fiction(擬制の終焉)はまだジャズの神話を信じている人々に送る私のメッセージである」

などと、冷ややかだ。

どうやら己の出自を否定、とまではいかないにせよ、封印を施し未知なる領域に踏み込んでますよ、ということなのだ。

「擬制の終焉」。

これは、『テクノドローム』中に収録されている曲名でもあり、ライナーでも使われている言葉だ。

ここで、濱瀬の指す「擬制」とは、オーソライズされてしまった、既成のジャズ的なもの、すなわちバークリーメソッドやら、いつのまにやら伝統芸能として確立されてしまった、ジャズ特有の「ローカル・ルール」のことなのだろう。

ハウス・ミュージックのビートと、ブライアン・イーノとジョン・八ッセルの作品に触発された彼は、このアルバムでは、ハウスミュージックとアンビエント・ミュージックが融合したようなサウンドを展開している。

ライナーによれば、

「展開や転換を持たない構造、極端に短い章句の反復による構成、それらによる強い拘束力を持つ時間の実現などが意図されている」

のだそうで、

「現在の都市の街区から得られる倒像、錯視、既視感をハウス・ミュージックの本質的な部分が到達したざらついた触覚で表現しようとする意図を持っている」

と、

なにやらスゴい試みがなされているようで、さらには、

「それは同時に暗喩としての胎内時間の再生の試みである」

とも書かれているとおり、頭の悪い私にとっては、もうすでに何が何だかワケが分からない(笑)。

このアルバムが出る前に、坂本龍一が彼の当時のニューアルバム『ハート・ビート』のキーワードとして、しきりに「胎内回帰」発言をインタビューなどで繰り返していたが(実際にそういうタイトルの曲もアルバムには収録されている)、その影響もあるのかもしれない。

もっとも本人はベースマガジンのインタビューではそれを否定してはいるが…。

ハウスビートというのは、バスドラムをドン・ドン・ドン・ドンと1小節の中に定期的に4つずつ刻むビートが基本となっているが、この4つの定期的に連続する低音の鼓動が、胎内にいるときに聞く母親の心臓音に通じるのかな? ぐらいにしか、私には理解できないけれども、ま、胎内時間の再生なのだそうです。

で、難しいことはさておきつつも、私は『テクノドローム』結構、愛聴しています。

ミニマルに執拗に反復されるビート。

こもった音色で奏でられるフレットレスベース。

『テクノドローム』での濱瀬のベースソロを聴くと、「擬制」に自らが終止符をうとうとすると同時に、新たな自らのシステムを構築させようという意気込みは伝わってくる。

ただし、正直言って、彼のインプロヴィゼーションは、あまり面白くない。

面白い・面白くない、の問題じゃないのかもしれないが。

メリハリと立体感が乏しいのだ。

あるいは、それが、新しいスタイルなのかもしれないが……。

学者の新説が展開されている論文発表を聞いているようでもある。

アタマ良い人の考えすぎな音楽とも取れるが、私は、このアルバムのサウンドは正直ツマラナイけれども、そのツマラなさを面白く感じる。

しかも面白いことに、出自がジャズで、ジャズの伝統に染まり、ジャズのシステムを学習してきた人が、伝統とシステムを脱・構築しようとすればするほど、匂い立つのは、旧来の伝統とシステムだということ。

隠そうとすればするほど、にじみ出てしまう、自らの出自と訛り。

彼は新たな即興システムを構築し、自ら実践もしているが、彼が連発するクリシェ的フレーズは(突発的な2拍3連など)、これまでのどのジャズにも認められなかった妙な臭みと特徴があるが、妙に人工的な匂いがすることも確か。

まるで、ジャズというローカルなアクセントが出てこないように作り上げられた、イントネーションやアクセントのようにも感じられ、それが原因で、彼のベースを聴くと、エレベーターガールの喋り方を思い出してしまうのだ。

それでも、そこはかとなくにじみ出てしまう個性とローカルな訛り。いたるところからジャズ的な匂いが匂いたつこの葛藤が面白い。

濱瀬的システムも、また、白紙から生まれ出でたものではなく、旧来のシステムの脱構築だ。

はっきり言って、音質は悪いし、ベースのプレイの歯切れもそれほど良いとは思えない。

さらに、単調にループするオケは、とくに目新しいほどのものはないし、本人自身も必要以上には目新しさを追求していないとも感じる。

しかし、この徹頭徹尾曇った質感は、聴けば聴くほどクセになってしまうのもまた事実。

報道番組でたまに使用される《キリコ》なんかは秀逸かつ興味深いトラックだ。

しかし、このアルバムの中でもっとも良いのは、皮肉にも濱瀬のベースソロの入っていない、リズムとノイズだけの打ち込みトラックの《インヴィジブル・シティ》と、ラストにボーナストラック的に収録されているサキソフォン・カルテットによる演奏だ。

自らの出自(=ジャズ)を否定しつつも、滲みでてしまう方言、アクセント。

しかもどこの地方の言語にもない、変形して妙なアクセントも付け加わったテイスト。

葛藤するベースプレイヤーの、内面を伺える貴重な1枚だ。

記:2005/11/10

album data

TECHNODROME (Newsic)
- 濱瀬元彦

1.Invisible City
2.Technodrome
3.Imagery
4.Opaque
5.End Of Legal Fiction
6.Chirico
7.Moriana
8.Lattice (for saxophone quartet)

濱瀬元彦 (b,syn-programing)

Harmo Saxophone Quartet #8
 Kin-ichi Nakamura (ss)
 Akemi Endo (as)
 Shin-ichi Iwamoto (ts)
 Katsuki Tochio (bs)

1992/10-12月 #1-7
1991/03/08

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