雑想 2025年1月

      2025/02/01

安定と退屈の狭間で「未完成」を楽しむ

人の本性は、平穏無事な日々の中ではなかなか見えてこないものだ。

日々同じように繰り返される生活、あるいは決まりきった仕事や人間関係、その中においての予定調和のコミュニケーション——こうしたものの中では、我々は「平常時の自分」がデフォルトモードであり、これが本当の自分だと何の疑いもなく思って日々を過ごしているものだ。
たとえそれが「平常時の自分」という仮面の1つを着用しているに過ぎないのだとしても。

しかし、生きていると、時にその仮面を容赦なく剥ぎ取られることもある。
そして、そのようなアクシデント、ハプニングは突然訪れるものだ。

この突然降りかかる「人生の中における気まぐれなイベント」に翻弄され、普段見せたことのない表情や言動を取る多くの人を私は見てきた。

追い詰められたとき、困難に直面したとき、人はどのように振る舞うのか。

そこで初めて、その人の真の人間性や品性があらわになる。

逆境にあっても冷静であり続けられる者もいれば、怒りや苛立ちを他人にぶつける者もいる。ユーモアで切り抜けようとする者もいれば、静かに耐え忍ぶ者もいる。

この「窮地での立ち居振る舞い」というテーマは、ジャズにも似た側面があると思う。

ジャズの醍醐味は即興演奏だ。
と、少なくとも私は思っている。

事前に楽譜が用意され、完全に制御されたクラシック音楽とは違い、ジャズの演奏においては、その場その場で演奏者が瞬時に決断を下し、音を紡ぎ出していく。だからスリリングな快感を味わえるのだ。

もちろん全てのジャズがそうだとは言わないし、落ち着きと寛ぎを前面に出したジャズだって少なくない。
しかし、私が好きなジャズは即興がもたらすスリリングさを味わえるものが多い。
即興の中では、技術の巧みさ・未熟さ、自信・迷いも、すべてが赤裸々に音として露呈される。取り繕うことはできない。取り繕う時間がない。取り繕おうとも時間の逆戻しは不可能だ。
つまり、ジャズの中における「即興という仕組み」は「演奏者」という「人間」を暴き出す仕掛けの一つなのだ。

スリリングな演奏は人を興奮させる。そこには「何が起こるかわからない」という緊張感があるからだ。

しかし、そんなことを言っておきながら、かくいう私は自分の人生には、その種のスリリングさを求めない。スリリングさはジャズや映画や小説だけで良いと思っている。できることならこれらの傍観者として安穏として暮らしたいと思っている。

とはいえ、安定と退屈は紙一重であることもまた事実だ。
刺激のない生活は味気ない。
だからといって、自らトラブルを招いたり、リスクを冒してまで刺激を求めようとは、もう思わなくなった。

では、最も楽しい生き方とは何か?

おそらく、「修復可能な範囲のスリリングさ」がある状態ではないだろうか。

平凡な日常の中に、ちょっとした試練や挑戦があり、それがクリア可能である——そんなバランスこそが心地よいのだろう。

たとえば、私にとってはベースの練習がそれにあたるような気がする。

私はベースが好きだ。
ベースという楽器を眺めるのも好きだし、触れるのも好きだ。
もちろん弾くことも好きだ。
しかし、下手くそだ。

一応日々少しずつは練習する時間を設けているが、なかなか上達しない。もちろん練習時間が短すぎるということもあるのだが、同じところをなん度もなん度も練習しているのに一向に上達しない。
そしてこの状態がなんとなく心地良い。
昔ならイライラしたのだろうが、最近は「なかなか結果が出ないこと」自体を楽しめるようになってきているような気がする。

すぐに結果を得られることは、実はつまらない。

かつての私もそうだったように、世の中には即効性を求める人は少なくない。
しかし、すぐに手に入るものは、すぐに飽きる。時間をかけて手に入れるからこそ、その価値を噛みしめることができるのだ。

これは、釣りにも似ているのかもしれない。
魚が釣れるかどうかわからない。それでも竿から糸を垂らし、じっと待つ。
その時間自体を楽しめるようになれば、釣れる・釣れないは大した問題ではなくなる。
もちろん、最終的に魚が釣れなければ意味がないとも思う。
しかし、釣れなければ釣れないで、「まあ、それでもいいじゃないか」と今の私だったら思えるのかもしれない。釣りはあまりしので、実際にやってみないと分からないのだが。

求めたものが手に入る。
それは確かに素晴らしいことだ。
しかし、望んだものの100%が手に入る人生というのも、味気ないものではないだろうか。

歳を重ねると、せっかちだった自分が少しずつのんびりしてくるのを感じる。
それは、ただ単に老いたということではなく、「結果」よりも「過程」の味わい方を知るようになってきたからなのかもしれない。

人生はジャズの即興演奏に似ているところもある。
しかし、年とともに、あくまで私の場合だが、その即興の要素や、即興演奏がもたらすヒリヒリさ、スリリングさの要素が年とともに減ってきているような気がする。

とはいえ、やはり「即興」で考え、行動できるだけの「余白」も生活の中には残しておきたい。自分自身が設定した生活フォーマットを楽しめるかどうかは、結局のところ、自分がどれだけ「未完成の状態」を許容できるかにかかっているような気もする。

常に完璧な演奏を求める者は、即興を恐れる。
すべてをコントロールしたがる者は、釣れないかもしれない釣りのような曖昧さには耐えられないだろう。

しかし、どう周到に準備し、入念に計画を練ったところで、人生は完璧にはならないし、すべてが思い通りにいくわけでもない。

その不完全さを楽しめるようになったとき、人はようやく、少しだけ大人? 成熟? なんと呼べば良いのか分からないけれど、より人生を楽しめる心の余裕が生まれてくるのかもしれない。

記:2025/01/31

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