アナログは人間の本能なのだ
text:高良俊礼(Sounds Pal)
レコード ターンテーブル
妻が帰省のために上京している時、音楽仲間の若い子がひょいと遊びに来てくれて、夜更けまで音楽談義から世間話まで大いに盛り上がった。
BGMは我が家のCDをセレクトしていたが、色んな音楽の色んなアーティストの話が出てくる度に、CDだけでは音源が足りなくなって、遂にレコードまで取り出してターンテーブルに乗せた。
私はレコードをかける行為は、CDをかけるのと同じで「日常生活の中での当たり前の行為」だと思っている。違いといえば、レコードはターンテーブルにのっけて針を落とす作業と、再生が終わったらひっくり返してまた針を落とすという”二手間”があるが、それとてCDをトレイに入れて再生ボタンを押す行為の延長ぐらいにしか思わない。
ところが、「うわー、レコードって凄い・・・」と、20代前半の彼は、レコード盤が回転してるのや、針やアームといったアイテムを食い入るように眺めている。
不思議に思ってそんなに珍しいかねと訊ねると「いや、レコード鳴ってるのを聴くのも、回ってるのを見るのも初めてなんですよ」と、真剣な顔をして答えた。そう答える時も、もちろん目はレコードに釘付けである。
少し間を置いて「凄い、・・・新鮮ですよ」と、彼が呟いたのには驚いたが、彼の身になって考えてみると新鮮なのも無理はない。初めて見る機械の、何だか魅力的な動作は、その人にとっては「新しい文明」そのものに違いない。
アナログ レコード 世代
私は「家にレコードがある生活」を通過している、恐らく最後の世代になるから、生まれて初めてCDというものを初めて見た時にやはり「新鮮だ」と感じたし、「何でコレから音が出るんだ」と思いながら、CDラジカセの天窓の向こうでカシャカシャ回る”光る物体”の動作を、ただウットリと飽きることなく長時間眺めていた。
で、話はレコードからまた際限なく「アナログ」の話になって迷走する。
迷走するうちに「バスの運賃箱が手動式だったら、もう一番前の席に陣取ってかぶりつきて見ていた」とか「かつおぶしは自分でシャカシャカ削るのが楽しい。そういうのもアナログだよね」とか、もうどこまでも際限なく拡がって、収集が付かないものになっていった。
「針を落とす」とか「A面B面をひっくり返す」という作業は、音を聴くこととは直接関係のない無駄な動作だ。しかし、実はその無駄な作業こそが一番楽しいし、結果として生まれるものに、価値や意味を吹き込んでいるように思うこともある。
人間 アナログ 感動
一通り私の迷走が落ち着いてから、彼がいいことを言った。
「普通にアイポッドとかで聴くよりも、全然カッコイイものに聞こえます。音楽ってこんなに凄いものだったんですね。つうかここに辿り着くまでの長~い会話って、これこそアナログじゃないですか!」。
衝撃を受けた。
普段はデジタルなものに囲まれ過ぎていて、思考もデジタルになったつもりになっているが、人間というのは生き物であってとことんアナログな存在なのだ。
深読みすれば音楽は、人の心を豊かにするが、衣食住を直接提供するものではない。つまり音楽があることによって“そこ”には物理的には何も生まれない。
でも「感動する」という現象は、思考や行動に大きな影響を与える。よく「この曲に出会って人生変わった」なんてフレーズが、いろんな人の口から出てくるが、それだって言葉のアヤじゃない。
そういえば「聴く」→「感動する」→「何かする」って、そういえばレコードを聴く時の「ターンテーブルにレコードを乗せる」→「針が落ちて音が鳴る」→「音楽を再生しながらレコードがくるくる回りつづける」って動作と似てる。何か似てる。
text by
●高良俊礼(奄美のCD屋サウンズパル)
※『奄美新聞』2009年8月13日「音庫知新かわら版」記事を加筆修正
記:2014/08/16