雲流ベース教室
2年ほど前から、自宅でベース教室を開いています。
生徒は現在2人です。
以前はもう1人教えていたのですが(なんとブラックアメリカン!)、彼は本国に帰ってしまったので、現在は、日本人の男性、女性1名ずつです。
もっとも定期的ではなく、「オレが暇な日」をメールで連絡し、なおかつ「生徒さんも暇な日」に家に来てもらって教えるという、かなりのマイペースなスケジューリングで教えています。
私も、彼も、彼女も、ベースで弾きたい音楽は違うのですが、楽器をコントロールする純粋な技術に関しては、ジャンルはあまり関係ありません。
そして、私が生徒さんに望むところは、
「イメージと肉体が直結すること」。
これにつきます。
べつだん私はプロでもないし、ベースの専門家でも、音楽教師の免許を持っているわけでもありません。
そして、生徒さんもプロを目指しているわけではなく、アマチュアとして、“より楽しく” 音楽を楽しむ手段としてベースの技術向上を目指しているので、私が出来ることは、
「彼らが望むベースを弾けるだけの技術向上のお手伝いをする」
これにつきます。
そのためには、基礎トレーニングが欠かせないし、練習メニューもクラシックのコントラバスのエクササイズを中心に行っています。
なぜ、クラシックの奏法を題材に選んでいるかというと、長い歴史の中で培われた技術だからです。
長い歴史の中、役に立たない方法論やエクササイズは次の世代には伝えられずに淘汰されます。
逆に、今日まで生き残っている方法論はそれなりに論理的なうえに、なにがしかの意味を持っているからです。
つまり、歴史の風雪に耐えているという事実、その一点を持ってしても、クラシックの技術論は、信頼に足る根拠の一つと判断することが出来るのです。
だからといって、すべてを鵜呑みにしているわけではなく、多少のアレンジや変更もすることもあります。
なぜなら、私が教えているのはエレクトリックベースなので、コントラバスでは必須な運指でも、エレキだともっと楽に出来るポジション移動や指の形というのもある。その点はある程度の“翻訳” をしたほうが良い場合もあるので。
毎月毎号、雑誌が出るたびに、色々なミュージシャンの提唱するエクササイズを気まぐれに練習するよりは、体系だった教則本を一冊つぶして基礎をみっちりと築き上げたほうが、結局は自分の中に確固たる“核”を作る近道だと思っています。
もちろん、雑誌に掲載されているトレーニングメニューを否定しているわけではありませんよ。しかし、自分の中に幹を作らずに、気まぐれに枝や葉っぱだけを集めても仕方ないだろ?と思うのです。
これらのトレーニングメニューは、自分の中に確固とした幹を築き上げてから取り組めば良いのです。
基礎が出来た上で、これらの練習メニューに取り組んだほうが、「なるほど!彼はこう考えて弾いているんだな」と気づくことが多いのです。だから、ひたすら基礎練とリズムトレーニングの反復、反復なんですね。
基礎練習は、はっきりいってつまらないです。
技術的、運指的、リズム的には意味があるんだけれども、純粋に音楽的には“つまらない” フレーズが多い。
ピアノでいえば、ハノンやバイエルやツェルニーのようなもので、ピアノを習ったことがある人だったら、このニュアンス分かるよね?
これらの基礎エクササイズを独学でみっちりとこなし、継続するには、よっぽどの精神力が必要です。
ところが、誰かの監視下のもとでトレーニングすると、これがまた、けっこう張り切るんですね。
たとえ、それが無味乾燥に感じる練習だとしても。
少なくとも間違えないように注意して弾くようになる。
人前で間違えると、恥ずかしいですからね。
だから、家でも練習するようになる。
よって、課題曲を弾く回数が増える。
自宅でも弾き、私の前でも、ちょっと緊張しながら弾くわけですから。
そうすると、知らず知らずに身についているんですよ。
これの繰り返し。
だから、極端なことを言えば、私がやっていることって、“教える” ではなく、“見ている”ことなのかもしれない(笑)。いや、もちろん、ボーっと見ているわけじゃないですけどね。
人前で練習することって、上達、速いですよ。
私の予備校時代の友達に、3浪のときにも受けた大学のすべてが全滅というクラスメートがいたんですね。
彼は自分が頭が悪いからだと自嘲していましたが、私は、そうじゃないと思いました。要するに、勉強の絶対量が不足しているだけなのです。
ああだ、こうだと理由をつけて、結局は一日の中でほとんど勉強をしていない。勉強しなければ、頭が良かろうが悪かろうが何も身につかないわけで。
だから、彼の4浪が決定した瞬間、私は知り合いの塾長にお願いして彼を塾の教室で勉強させるようにしたんですね。
その塾に通って、昼間は塾の職員室で勉強、夜も塾の職員室で勉強。
塾が彼にしてあげることは、
1、勉強場所を提供する
2、放置プレイ
の2つだけ。
でも、人前だから勉強せざるを得ない。
人前でサボっている姿は見られたくないですよね。
だから、彼は人々の視線にさらされている中、ひたすら勉強をしたんです。
一ヵ月後、ある有名私立大学の二次募集の試験を受けた彼。この試験は、一次試験よりも倍率の高い試験だったのですが、見事、彼は合格しました。
たった一ヶ月の間、毎日人前にさらされ、緊張しながら数時間勉強するだけで、かなりの学力が身についちゃったわけなのです。
この出来事から私は、「役に立つことは分かっているんだけれども、気持ち的にはつまらないし、やる気が出ないトレーニング」は、人前にさらされて練習したほうが身につくということを確信しました。
やっぱり人間のプライドってたいしたもんだ(笑)。
たとえ、誰も自分のことなんか見ていなくても、恥をかきたくないから一生懸命になってしまうんだよね。恥をかきたくないから。
だから、屋外で基礎練習することも、かなり有効なトレーニングだと思います。つまらないフレーズでも、間違えて弾くと、やっぱり恥ずかしいですからね。
私の場合は、大学の3年生ぐらいからベースを始めたのですが、卒業するまでの2年間には、ばっちり基礎を身に着けた実感はありました。
ベースを習っていたということも大きいですが、大学の講義中にベースの練習をしてましたし、昼休みは屋外でジャズ演奏してましたからね。人が一番集まる広場で。
電車の中でもクロマチックなどのメカニカルな運指練習をしてました。
こういうシチュエーション下で練習すると、こいつは恥かけないぞー、きちんと真剣にやらなきゃアカンぞーと思いますもん、やっぱり。もっとも電車の中じゃ、電車の中で弾いている時点でかなり恥ずかしいことかもしれんが(笑)。
しかし、このプレッシャーと、恥をかきたくないという自意識が、技術向上に役立つんですね。
この経験と実感の下、私は現在のベース教室に生かそうとしているのです。
もっとも、それだけじゃありませんよ。それだけだと、単なる放置プレイ屋さんですからね(笑)。
もう一つ、私が心がけている大切なことがあります。
それについては、後述しますが、ゴルフでも水泳でもスキーでもピアノでもいい。
なにか新しいことを始めるぞー!っと思っている人は、最初の数ヶ月はみっちりと基礎を築き上げることに専念したほうが良いと思います。
とくに、スポーツはフォームが大事ですからね。
で、みっちりと基礎を築き上げる最短距離が、じつは、“習う”ことなんですよね。少なくとも、今後の成長を妨げる“型”や“癖”が身につくリスクはない。
で、ある程度基礎が出来上がったら、遠慮なくレッスンをやめてしまえばいい。
身についた基礎は中々抜けるものでもないし、基礎さえ身についていれば一生楽しめるからです。
逆にいえば、基礎が身についてない段階では、遊びもスポーツも楽器も、深いところまでは楽しめないんじゃないかと思います。
よく趣味を転々とする人がいるじゃないですか? それはそれで否定はしないんだけれども、そういう人は、きっと入り口の浅いところだけをサラッとなぞって見切りをつけちゃってると思うんですよ。
もったいないですね。
もう少し努力すれば、一生楽しめるだけのパスポート(=基礎力)を身に着けることが出来るかもしれなかったのにね。
基本的に、人は視線を感じると、恥をかかないように頑張るものです。
だから、基礎練習は、分かっている人の眼差しにさらされながらエクササイズをすると、上達が早いという話は先述したとおりですが、基本的にベースのレッスンにおける私の役割は、“傍観者”としてのパーセンテージが高いことは確かです。
しかし、それだけではなく、最近は、自分がやってることは“ベース教室”じゃなくて“ベース・コーチング”なんだよなぁと思うようになってきました。
人にモノを教えるだなんておこがましいよなぁ。
私は、生徒さんにベースの弾き方に対する“気づき”の機会を提供する触媒のようなものなんだなぁと。
生徒さんの弾きたいベース、なりたい将来的なベーシストのイメージは、それぞれ違います。
弾きたいジャンルも違うし、好みの音楽の種類も違います。
好みの音色も違うし、奏法も違う(一人はピック弾き、一人はツーフィンガー、そして私自身はワンフィンガーがメインです)。
そんな中で、私が出来ることは、彼らがより一層上達するためのイメージや意識を気付かせることなんだと思います。
ある時は、実際に私が弾いてみせ、ある時は、CDをかけて音楽を鑑賞する。
指の形が気になったらら、生徒さんが弾いている映像を撮影して、「あなたはハイポジションになると、このような手の形になっちゃっているけど、どう思う? 音的には問題はまったくないけれど、単純に見た目だけの問題なんでけれど、どう思う?」
と実際に撮影した映像を見せながら、注意を喚起します。
音の粒が揃っていないときも、弾いている当人は、リアルタイムで粒が揃っているか揃っていないかはなかなか自覚出来ないものです。
だからICレコーダーに録音した後にプレイバックをして、実際に自分の耳で確かめてもらう。
私のほうから「おかしいぞ、直せ!」と言うよりも、本人に気付いてもらったほうが話が早いし、生徒さん自身も「じゃあ、どのようにしたら直るだろう」と自分の頭で模索しはじめます。
それでもダメな場合は、一緒に考えます。
そのときに、初めて私は「こうしたらイイんじゃない?」とアドバイスします。
私のアドバイスが説明不足の場合は、生徒さんと一緒に考えますし、その過程で、じつは私のほうが生徒さんから教えられることも多いのです。
「こうしたら、うまくいきますね」
とか、
「昔、ベースマガジンに誰々がこんなことを言っていたんだけど、その方法を当てはめてみるとうまくいくかもしれませんね」
といったように。
私自身が「へぇぇ、そうなんだ」なことも少なくありません。
このような試行錯誤やディスカッションを通じて、一つ一つ課題を消化してゆくことが、じつは一番上達の近道だし、その過程で考え、弾いて、の繰り返しがいつしか血肉になるのです。
このようにして、皆で少しずつ上達してゆこうというベース教室でありたいな、と思っています。
なんだ、“傍観者”と“対話者”でしかないヤツがベース教室を名乗ってるのか、と思われるかたもいらっしゃる方も中にはいるかもしれませんが、そうです、その通りです(笑)。それでいいと思っています。
楽器に限らず、すべてにおいて、人間の成長において不可欠な要素はたったの2つしかありません。
・気付いて、
・実行(行動)する。
細かいことは色々あるでしょうが、骨子はこの2つです。
「やる気」は行動のためのエネルギー源。「気付き」は、間違った方向に行動を費やさないないために必要なゴールが見える地図です。
生徒さんに自分が抱えた課題をクリアするための気付きの場を提供し、実際に弾いて(実行して)もらう。
この2つが満たされれば、“教室”としての体を立派になすなんじゃないかと思います。
実際、私のようなボンクラコーチングの元でも、生徒さんの上達っぷりは凄まじいものがありますから。
もっとも、生徒さんはどう思っているかは分かりませんけどね…(笑)。
でも、決して手は抜いてないですからね。一応、いろいろと考えてはいるんでーす。
子供の教育は…。ま、そんな悠長なことは言ってられないかもしれませんが、基本的には同じだと思っています。
よく「やる気出せ」という親や教師がいますが、なにもないところからやる気はおきません。
子供自身の「気付き(動機といっても良いかもしれません)」があってこそ「やる気」が生まれ、行動を起こし、行動の結果が成果に結びつくのです。
親の本当の役割は、行動を強制することではなく、「気付き」の方向にリードしてあげることだと思います。実際には難しい理想論かもしれないですけれどね…。
でも、超理想的なことを言えば、松下村塾のような教室や学校が日本にたくさん生まれれば良いなと思っています。
生徒一人一人に与えられている課題や問題は、すべて違います。吉田松陰は、生徒のレベルや適正に合わせて、それぞれ過大を出し、勉強させていたのです。
教える側は労力かかりますが、生徒にとってはありがたい教育法なんじゃないかな。
一つ一つの課題に対し、教師やインストラクターが的確なヒントを投げかけ、生徒自身が自力で問題をクリアしてゆく。
こういう関係って素敵だよな、自分のベース教室もそうありたいなと思っている私でありました。
記:2005/11/01-02(from「ベース馬鹿見参!」)
●続く
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