ほいほい読書術・その6(たかが本に過度な期待はしない)
煽りタイトルで読書離れ?!
前回の記事では、私にとって読書はあくまで手持ち無沙汰解消の手段ゆえ、本に対しては過度な期待をしすぎていないというような話を書きました。
そう、多くの方は、本に過度な期待をしすぎてはいないのでしょうか?
もし、そうだとすれば、そしてそれが「本離れ」の一因だとすれば、それは出版社側にも責任があるのかもしれません。
出版社によってもずいぶんとキャラは違うのですが、中には、かなり煽るタイトルをつけているところもありますからね。
書店の店頭に行けば、明らかに誇大宣伝だろうと思わざるをえない、まるで東スポのような夕刊紙や、週刊誌のスクープ記事のタイトルのような本も少なくありません。
このタイトルから大いなる期待を抱き、ワクワク気分で買ってはみたものの、中身はそれほどでもなくガッカリしたという体験を2度や3度はお持ちの方も少なくないと思います。
私の場合は、アホなので2度や3度どころか、200回や300回もそのようなことを繰り返しているので、もう慣れっこです。
すでに、「今回のフォレスト出版は(苦笑)、どういう切り口で楽しませてくれるのかな?!」といったように悟りの心境にすら達しています。
どんなに煽り気味のタイトルの本でも、わりと醒めた気持ちで接していますし、むしろ、著者、編集者、出版社側の意図や思考パターンを高みの見物気分で生あたたかく見守る心境で読んであげるという、なんとも屈折した意地の悪い読書をしているほどです。
だから「この本さえ読めば、こうなるぞ!」みたいな期待は、ゼロとは言いませんが、わりと淡々と読むことが多いです。
実用書や自己啓発書の場合ですが、「こうすればああなる」という本が主張する中での「ああなりたい」という欲望は、私の場合はほとんど無くて、むしろ著者の思考パターンに興味があって活字を追いかけていることが多いのです。
実用書、ビジネス書、自己啓発書も過去にたくさん読んでいるわりに、私の場合、本を読んだことで得られるリターンのようなものってあまり期待していないんですよ。
大きな幸せよりも小さな満足感
もちろん、何がしかを得られればラッキーと思ってはいますが、世の中そうそうおいしい話が転がっているわけねぇべという醒めた気持ちのほうが強いのかもしれません。
さらに、たかだか数百円から二千円に満たない値段の紙の束で人生が変わることなんて、そうそう無いと思ってもいます。
もちろん、皆無とはいいません。
私自身も、何百冊の中に1冊くらいの割合で、「こ、これは!!!」と感動で身震いしたり、「な、なんて素晴らしい!」と、著者の思考パターンや方法論に感激することもあります。
しかし、それはごくごく稀な話。
そもそも、1冊か2冊程度の本で人生を変えようと最初から過度に本に期待しすぎる人って、なんだか卑しい、というかケチくさい。
ゴメンね、言葉が悪くて。
なんだか競馬や宝くじで大きなリターンを得ようとするマインドに近いものを感じるのですよ。
「おいおい、ちょっとそれは虫が良すぎるんじゃないの?」と思ってしまうのです。
ただ、身震いするほど大きな感動や方法論は滅多に得られないにしても、ちょこっと脳が喜ぶ程度の内容だったら、ほぼ読むたびに私は得ています。
マグロではなくて小魚。
小魚だって毎日確実にゲットできれば飢えませんし、死にません。
大きな喜びはないかもしれませんが、小さな満足感が日々続きます。
このような小さな満足感を日々本を読むことによって積み上げていけるのなら、それはそれで幸せなんじゃないかと私は思うんですよね。
大きな幸せではないかもしれませんが、日々コンスタントに小さな幸せ。
人それぞれ、生きる上での価値観は違いますが、私はどちらかというとドカーン!とデカい満足感を求める人生よりも、小さな満足感を確実に毎日感じられる日常のほうを選びます。
ドッカーン!な満足を追い求めたほうがカッコいいし男のロマンな気はしますが、そういうことって、あくまでクリティカルな出来事だと思っています。
確実にヒットを狙って出塁することを繰り返してたら、たまに当たりがよくてホームランになりました。
小さな満足感をコンスタントに積み重ねていけば、時にこういうこともあるのです。
そして、私はそれでいいのではないかと考えているゆえ、それがそのまま私の読書スタイルにもあらわれているのではないかと思うのです。
次回は、今回の話をもう少し深堀りして「過度に何かを求めないメリット」について書こうと思います。
記:2001/12/12