チャットモンチーが分かれば、セシル・テイラーと山下洋輔の違いがわかる?!
2019/09/08
昨年末、「いーぐる」で行われた、“今年のジャズベストアルバム持ち寄り会”の終了後、打ち上げの席で、グルーヴィな筆致で定評の音楽評論家の原田和典さんに、「雲さんの昨年のベストアルバム何でしたか?」と尋ねられた。
残念ながら、昨年はジャズに関しては、まったくといっていいほど新譜チェックしていなかったんだよねぇ。
何枚かは買ったけれども、耳のいい原田さんに胸を張って、「○○○が最高っす!」と言えるほどのものはなかった。
だから、パッとと出てくるアルバムがないかわりに、思わず、無意識に口から、「チャットモンチーっすね!」という言葉が出ていた(笑)。
原田さんは、「なんだこいつアホちゃうか?」的な呆れと哀れみのまなざしで私を見つめ、ほかの席に移動してしまったが、いや、別にフザけていたわけでもなく、カラかったわけでもないんデス。
ジャンルを問わないとすれば、間違いなく、昨年発売の新譜の中では、チャットモンチーの『生命力』がベスト(笑)。
チャットモンチーのどこに魅了されたかって、やはり、これは椎名林檎を初めて聴いて「ドッカーン!」ときもそうだったけれども、ベースのノリと、ヴォーカルの声だった。
ちなみに、チャットモンチーと椎名林檎は、音楽のタイプはまったく違う。
ただ単に、私の耳が高音と低音を追いかけるベース耳とトランペット耳(?)なだけなんですが、ね。
チャットモンチーの歌詞の内容とか、ルックスとかには、全然興味ない。
このバンドは、ベースと声がいいのだ。
“徳島出身のガールズバンドだが、ガールズバンドを呼ばれることをひどく嫌う”といったような彼女たちのプロフィールだったり、コダワリみたいなことには正直、まったく興味ない。
ルックスにも興味ない(笑)。
ヴォーカルの高音部の少し苦しそうだけれどもノビのよい声、そして、ベースのグルーヴ感が、個人的なツボにはまったんだ。
で、よく考えてみると、椎名林檎にはまったときの「お、このベース気持ちいい!」な感触と、チャットモンチーを初めて聴いたときに感じた、「あれ、このベース単純だけどもクルな!」な感触は似ていることに気がついた。
特に彼女たちの代表曲《シャングリラ》、そして、《親知らず》や《モバイルワールド》などに強く感じた。
言うまでもなく、椎名林檎のバックでベースを弾く亀田誠二と、チャットモンチーのベーシストのあっこ(福岡晃子)とでは、弾いている内容はまるで違うし、タイプ的にも違うベーシストだ。
でも、二人ともフェンダーのジャズベースの愛好者なことが個人的にポイント高く、さらに、あっこ愛用のレイク・ブラシド・ブルー塗装のジャズベは、とってもキュートでおいしそうではある。
それにしても、基礎的なノリのようなもの、そう、言葉をしゃべる時の方言のようなアクセントは、両者は似ているような気がする。
つまり、山形県の鶴岡市出身の山形弁を話す男女がいたとして、男性と女性は喋っている内容はまるで違うにもかかわらず、この二人の喋りから受ける印象がなんだか似ているなぁと気付くような感じ。
同じ方言からくる抑揚、アクセントゆえ、喋りの内容が違うにも関わらず、同じように感じるということ。
つまり、ベースの基礎グルーブが似ているゆえ、弾いているベースラインや、ベースでの歌に絡むアプローチの発想が違うにも関わらず同じように感じるということなのかな、と思った。
言うまでもなく、基礎グルーブとは、日本人的ノリだ。
畑にクワを“よっこらしょ”と振り下ろすようなノリ。
ズンドコ・ズンドコした、黒人的グルーヴ感の重さとは異なる重さ。
特に、チャットモンチーの場合は、クミコン(高橋久美子)のドラムのノリも「えっこらせっ!」なズッドン・ズッドンなノリなので、あっこのベースとのコンビネーションも抜群。
非常に、ニッポン!なノリなのだ。
ケナしているわけではないよ。
私も典型的な日本人ゆえ、このようなグルーヴに、ものすごい気持ちよさを“身体の本音”の部分が感じてしまうのだ。
私のDNAも、畑でクワをズンドコ・ズンドコなのだ。
だから、身体の根っこの部分で共鳴しあう(笑)。
ちなみに亀田誠二が好きなベーシストはジョー・オズボーンやジェマーソンだし、チャットモンチーのあっこが好きなベーシストは、ミッシェル・ンデゲオチェロと、なかなかポイントが高いというか、かなりベーシスト感度の高い二人だと思う。
当然、彼ら彼女らは、憧れのベーシストのベースをトランスクリプトしたこともあるんだろうけれども、あるいは、彼、彼女のベースラインにも影響を受けたベースラインが顔を出すのだろうけれども、言ってる内容は外国でも、訛り・アクセントはどこまでもニッポン!(笑)。
ひとくちにスピード感といっても、シャープなスピード感と、もってりとしたスピード感があるのだけれど、明らかに後者のスピード感。
だから、いいのかなぁ。
グッとくるんだろうなぁ。
特に、亀田誠二の場合は、「東京事変」を結成する前の椎名林檎の曲はずいぶんとコピーしたし、コピーしている過程で、音づかいのエグさや、大胆にアウトする音選びのセンスに敬服することしきりだったし、このベーシストは、かなり洋楽を研究しているなと感心していたのだが、最近では、ドッシリと大地に根を張る鈍重なノリを楽しむようになった。
ちなみに「亀田ベース」炸裂のアルバムはなんといってもコレでしょう!
日本的なノリのベースで、ズンドコな感じといえば、そういえば、25年以上前に愛聴していた『姫神せんせいしょん』を思い出す。
今の耳で聴くと、ヨサコイ・ソーランの原型にも感じるニッポンビートが疾走する「快速民謡」といった趣きだが、当時、シンセ少年だった私にとっては、ビート感のない喜太郎に飽きがきはじめていた頃に登場した衝撃のビート感の伴った東洋エスニックミュージックだった(笑)。
というより、フュージョンというか、鍵盤民謡ロックといったほうが早いか。
しかも、「シルクロード」で中国のカラーの強かった当時の喜太郎に比べて、姫神の旋律はどこを切っても、「嗚呼、ニッポン!」な懐かし旋律のオンパレードで、当時はかなりハマりました。
ローランドのシンセのピッチベンダーの使い方の巧みさも、まるでスマートなズーズー弁よろしく、この訛り&コブシを表現したシンセの歌わせ方は、コルグのシンセでかなりコピーさせてもらいました(笑)。
だから、そのときのクセが抜けないのか、いまだに私の鍵盤プレイは田舎くさい(笑)。
で、このアルバムのライナーを読むと、ベーシストの伊東英彦は、盛岡屈指のベーシストなのだそうだ(笑)。
しかし、さすが、盛岡屈指なだけにグルーヴ感がすごい。たとえば代表曲《奥の細道》のベースラインは、
ド ミ♭ レ レ♭
ド ミ♭ レ レ♭
といった、オクターブな奏法主体にも関わらず、いや、オクターブな奏法だからこそ、日本人的ズンドコ感が強調され、民謡的旋律と絶妙にマッチし、ものすごく気持ちいいのだ。
もちろん、その後の私は、へヴィメタルやスラッシュメタル、パンクにハマった時期もあるし、最終的にはジャズやR&B、ソウルの世界にも目覚め、黒くて柔らかいノリの中毒者ではあるんだけれども、やっぱり時々、ズンドコな日本的ノリを聴くと、頬が緩んでしまう。
このズンドコなノリと、黒人的ノリの両方を体感し、改めてジャズを見渡すと、ジャズにおける決定的なノリの違いという問題に改めて気づく。
顕著なのは、やはりセシル・テイラーと山下洋輔の違いだ。
同じことをやっているように感じるにも関わらず、まったく違う音楽に聞こえてしまうのは、やはり、山下のノリは決定的に骨の髄まで日本的なこと。
このノリは音価の違いでもあり、テイラーの音価は、どこまでもシャープで鋭いが、山下の音価は、スピードがあるにも関わらず「スピード感」が感じられず、すさまじい音を散りばめて指が鍵盤を疾走するにもかかわらず、どこかモコモコとした重たさを感じる。
決してケナしているわけじゃないよ。
だからこそ、好きなアルバムだってある。
特に初期。
森山威夫のドラミングとの相乗効果もあいまって、
『キアズマ』や『クレイ』など、鈍器のように重たい、まるで大地に楔を打ちつけるような“よっこらしょ”なリズム感で迫真の演奏に臨んでいるがゆえ、とてつもない殺気となって聴き手に迫ってくる。
鋭利なナイフではなく、重たい鈍器を狂ったように振り回すような感じ。
そこから生み出される、“切羽詰まった感じ”がヨーロッパのジャズ祭を直撃したからこそ、山下トリオは「カミカゼ・トリオ」と称されたのだろう。
決してヨーロッパの人が日本という国に抱く乏しい知識から名づけられただけではあるまい。
と、まぁ、チャットモンチーから山下洋輔まで脈絡もなくいろいろと書いてきたが、ひとつお断りしておきたいのは、決して私は日本的リズムに対しての、黒人的リズムの優位を唱えたいわけではない。
日本人には日本人にしか出せないリズム、グルーヴがあるわけで、ヘンにジャマイカやサルサやブラックミュージックといったもっとも日本人のDNAから遠いグルーヴを無理して取り入れようとして、無理だと悟って絶望するよりも、もっと日本的ノリに自覚的になることで(ある意味開き直ることで)、もっと面白い日本ならではの音楽が生まれる可能性だってあるのだということ。
ジャズやソウルのビートも気持ちいいけど、やっぱり私は日本的ズンドコビートも気持ち良い。
もちろん、たまに聴くと、だけどね(笑)。
記:2009/01/04