ブルーノート物語(前編)
text:高良俊礼(Sounds Pal)
アルフレッド青年
1920年代ドイツ・ベルリン。
ここに「いつかアメリカに渡って、大好きなジャズを聴きまくりたい!」という夢にすっかり取り憑かれた青年がいた。
やがてコツコツと貯金をして旅費を工面した彼は、1928年、単身ニューヨークに渡る。
「ジャズが聴けるなら母国は要らぬ」とばかりに、紆余曲折を経てアメリカの永住権を得た青年は、名前をドイツ語読みの「アルフレート」から、英語読みの「アルフレッド」に変え、アメリカ人としての生活をスタートさせた。
フロム・スピリチュアル・トゥ・スウィング
だが、勢いと憧れで渡米したはいいものの、憧れのジャズの世界にそうそう潜り込める訳もなし、平凡な勤め人として日々を送りながらも、華やかなジャズの世界に身を置く自分の姿をぼんやり思い浮かべ、近所のレコード・ショップに入り浸る生活を繰り返していた。
そんな彼に、天啓のような出来事が最初に訪れたのは、1938年12月23日「フロム・スピリチュアル・トゥ・スウィング」というコンサートがあった日のこと。
全米一と呼ばれるホールに、ジャズとブルースの有名アーティスト達が多数出演したこのコンサートは、正にアルフレッドのような“ジャズおたく”の青年にとっては、給料を前借りしてでも行きたくなるような、いや、行かねばならない一大イベントだった。
給料を前借りしたかどうかは定かではないが、アルフレッド青年は会場にいた。そこで目にしたキラ星のようなアーティスト達による、夢のような演奏。中でも熱狂的なノリのブギ・ウギ・ピアノに衝撃を受けた。
その興奮も覚めやらぬ数日後、決定的な出来事が起こった。
ミード・ルクス・ルイス
アルフレッド青年がマンハッタンの一画を歩いていると、一人の黒人男性が駐車場で働いていた。寒空の下で、その労働者の顔を見たアルフレッドは驚いた。
何と、ついこの間、カーネギー・ホールの華やかなステージで大勢の観衆を熱狂させ、自分にかつてない感動と興奮を与えてくれたブギ・ウギ・ピアニスト、ミード・ルクス・ルイスではないか。
アルフレッドはすぐさま彼に駆け寄り「なんてことだ!あなたは天才ですよ?こんなところで何をやってるんですか」。
純朴な移民青年がそこで見たものは、憧れのジャズ・ミュージシャン達の生活の実態だった。
ブルーノート・レコードの誕生
ライヴやレコーディングで日銭をもらうだけで、後は印税も何もかもレコード会社やプロデューサーに持って行かれる。
当然演奏のギャラだけで食っていけないジャズマン達は、駐車場の係員、ホテルや駅の清掃人、タクシーの運転手などの仕事をしながら何とかギリギリの生活をしていた。
ルイスのように人気絶頂にあったスターですらそうなのだ。他のミュージシャン達は、どんな境遇にいるのだろう……。
アルフレッドの心には、同情の念より先に、人種差別や搾取が横行しているアメリカのショウビジネスに対する怒りが沸いてきた。
そして多分「じゃあ自分が何とかします!」と、勢いで言ってしまったのだろう。
その僅か一年後に、アパートの一室にオフィスを構える社員たった2名の新興のレコード会社から、ミード・ルクス・ルイスとアルバート・アモンズという2人のピアニストのレコードがリリースされた。
後にモダン・ジャズの黄金時代を代表するレーベルと言われ、数々の傑作や大物ミュージシャンを生んだ「ブルーノート・レコード」誕生の瞬間である。
>>ブルーノート物語(中編)に続く
記:2014/09/10
text by
●高良俊礼(奄美のCD屋サウンズパル)
※『奄美新聞』2008年6月13日「音庫知新かわら版」掲載記事を加筆修正