川原喜美子は動かない~朝ドラ『スカーレット』を俯瞰する
節目の描写をぼかす演出
NHKの朝ドラ『スカーレット』が終了し、数日が経過した。
戸田恵梨香が演じる女性陶芸家を描いた半年間だったが、このドラマ、けっこう評価が分かれるのではないだろうか。
個人的な感想をいうと、正直、あまり面白くはなかった。
なぜなら、肝心な「修羅場」的な描写を省略して後日談として過去形で語れることが多かったからだ。
たとえば、夫・八郎(松下洸平)が、喜美子の才能に言い知れぬ敗北意識を感じて家を出て行くシーンは描かれず、ナレーションで「八郎は出て行きました」と説明がなされたのみだった。
また、母・マツ(富田靖子)の死も、信作の両親が経営する喫茶店「サニー」で眠ったのか死んだのか分からないような描写がなされた後、オープニングテーマに変わり、本編に戻った頃には、すでに亡くなってしばらく時間が経過したところからの描写になっていた。
さらに、最終回。
白血病の息子・武志(中須翔真)が最後に琵琶湖のほとりで笑顔で輝いていたところを描写した後、闘病生活で苦しむ模様は描かれず、次のシーンでは「武志が死んで2年後」の描写となっていた。
まあ朝ドラだから、そこまで深刻なシーンを観たいと思う人もいないと思うし、闘病シーンに力点を置いていた映画『火火』とは違うアプローチを意図したのかもしれない。
あるいは、そのような肝心なシーンをボカすことで視聴者の想像力を刺激したほうが良いという演出上の考えもあったのかもしれない。
通り過ぎてゆく登場人物たち
次に登場人物たちについてだ。
喜美子が子どもの頃に出会った、草間さん(佐藤隆太)や、大阪時代に出会ったジョージ富士川(西川貴教)、アパートの大家の荒木さだ(羽野晶紀)や、その住人の医学部生の酒田圭介(溝端淳平)や、歌手になった雄太郎(木本武宏)、絵付け師の深野心仙台(イッセー尾形)との交流も通り一遍で、後に登場する人物もいたものの、あまり喜美子の生涯や成長に大きな影響を及ぼしてはいない。
「草間流柔道」の草間さんの存在も、物語の節目節目に顔を見せる重要なキーパーソンのように描かれてはいるが、影響を与えたのは喜美子が幼少期からせいぜい20代前半くらいまでで、それ以降は、たびたび登場人物の会話のキーワードとして「草間流柔道」が出てくるものの、大人になった喜美子にとっては、懐かしの人以上でも以下でもない存在でしかなくなっている。
ただ例外として、ちや子さん(水野美紀)のみは、喜美子の人生の要所要所に登場し、女性としての生き方の精神的支柱とまではいかなくとも、「男社会で頑張る女性」としての存在感があった上に、女性陶芸家として喜美子が「先生」として注目される手助けをしたのもちや子が書いた記事によるところが多いと思われる。
しかし、それ以外の登場人物は、さほど主人公の成長に大きな役割を果たしているようには見えず、実際は果たしていたのかもしれないが、そう感じさせる描写はあまり感じられなかった。
主人公の「成長」を描いたドラマではなく
……と、ここまでが、個人的に感じた不満点。
これは、一話一話を「点」や「各論」で見たときに感じるフラストレーションであり、さらに朝ドラは「主人公の成長を描いた物語」という暗黙の了解のもとに観ていたからこそ生じる違和感だったのだと思う。
たしかに、1話ごとの「各論」で観た場合は、「えっ?! 描写すべき大事なシーンを描かず、ナレーションで誤魔化していいのか?」と思わせる点が多々あった。
しかし、最終回放送から数日経ち、物語の全体像を最初から最後までを心の中でボンヤリと俯瞰すると、この半年を通して描きたかったことは、そこではないのではないかと思うようにもなってきた。
一言で言ってしまえば、「川原喜美子は動かない」だ。
中学卒業後、数年間大阪のアパートで女中をしていた期間を除けば、喜美子は、ずっと近江信楽で暮らしている。
父・常治(北川一輝)が助けた戦友・大野忠信(マギー)の好意で融通してもらった一軒家が、喜美子の拠点だ。
大阪から戻ってからというものの、喜美子はいっさいここを動かなかった。
ここに様々な人々が去来した。
八郎が婿としてやってきて、息子が産まれ、2人の妹が結婚して家を出、アシスタントの三津(黒島結菜)がやってきてやがて去り、父が死に、母が死に、幼馴染の照子(大島優子)や信作(林遣都)が遊びにやってきたり、スキャンダル女優・小池アンリ(烏丸せつこ)が居候をしたりと、けっこう喜美子の家には様々な人々がやってきては去るを繰り返している。
時代が移るなか、少しずつボロ民家だった家も、時代に応じて電話やテレビが設置されたり、工房や穴釜が増えたりと変化をしていったが、基本、「あの場所」にある「あの家」は変わることなく存在し、主人公喜美子も、「あの家」から動かなかった。
そして息子を亡くし、別れた夫が修行のために長崎に向かい、現在は一人で暮らす喜美子だが、息子の主治医だった医師・大崎(稲垣吾郎)が訪ねてくるなど、いつになっても彼女は決して孤独ではなく、今も変わらず様々な人々が訪ねてくる。
動かない喜美子と、彼女のもとを去来する人物たちを描こうとしたのが、このドラマの主題だったのかもしれない。
くわえて「主人公の成長」に関してだが、基本的に川原喜美子は、最初から川原喜美子だった。
家事、内職、絵付け、陶芸など、技術修得という意味での成長はもちろんあったものの、第一話で大阪から家族とともに信楽にやってきたその日から、最初から喜美子は喜美子で強い女だった。
その後、もちろん年齢や環境に応じて様々なことを学び、取得してはいくが、これらのことはパソコンやスマホでいえば、アプリが増えていっただけの話。基本、「川原喜美子というOS」はまったくブレることなく最初から逞しかったのだ。
だから、他の朝ドラ作品の多くは主人公の物理的成長とともに、精神的成長や葛藤、成熟が描かれているが、『スカーレット』の場合はほとんどそれがない。
むしろ悩んだり、脆さ弱さをさらけ出したり、生き方を迷ったりするのは、喜美子の周囲の人間たちだ。
主人公・喜美子は、そのような彼ら彼女らを映し出す鏡のような存在だったのかもしれない。
だから、川原喜美子は動かない、いや、動かなかった。
最終回を観終わるまでは、そのことに気付かなかったが、全話を観終えて、しばらく頭の中で物語を転がしているうちに、そのように考えるようになった。
川原喜美子は「動かない」を念頭に入れた上で、再鑑賞すれば、また違う視点でこのドラマを観れるかもしれない。
とはいえ、さすがに半年分は長いので、しばらくは観返す気力は無いのだが……。
記:2020/04/01