鬼門物件とハズレ人間~それでも成功したい人に一言

   

店舗が変わりまくる物件

私が中学生の頃から、しょっちゅう店舗が変わるビルがあった。

自宅の最寄り駅近くの通り沿いにあったので、そこを通るたびに「あれ?この店、また別の店になっちゃったよ」と気付くのだ。

店舗が閉店すると、しばらくは「貸店舗」の札が店頭に貼られているのだが、気が付くといつのまにか新しい店舗の内装工事がはじまっており、あっという間に新しい店がオープンする。

中華料理屋だったのが、不動産屋¥になり、ほどなくして、再び別な店名の中華料理屋になっていた。

しばらくすると、その中華料理店も潰れたのか引っ越したのか、しばらくは空き物件となっていたが、忘れた頃にホルモン屋になっていた。

数年前にその店舗の前を通った時は、今度はよくわからない会社のオフィスになっていたが、現在も続いているのだろうか?

20代後半からは実家を離れて暮らしているため、私が実家を離れている間も様々な店舗がオープンしては撤退を繰り返していたに違いない。

ちなみに、この物件は、決して悪い立地ではない。

JRの駅前から徒歩1分の所にあるし、通り沿いにも面している。

斜め向かい側にある中華料理店や焼肉屋は、私が中学生の頃から変わらず営業を続けているのに、なぜ、その建物の1階の物件だけはコロコロ中に入る店舗が入れ替わるのだろうか?

マイナスパワースポット?

鬼門?
としかいいようがないのだ。

立地は良いのに、うまくいかない場所。

この物件に限らず、現在私が住んでいる家の近所にも、ここ2年の間に、ラーメン屋⇒別のラーメン屋⇒イタ飯屋とコロコロと店舗が変わっている物件がある。

この物件も、大通り沿いで決して立地が悪いというわけでもないのだが、客足が伸びないのだろうか、すぐに飲食店が店を畳んでは、新しい店が店舗内を改装し、オープンを繰り返している。

こういう状況をみると、場所に宿るマイナスのオーラというか波動というか、そういうものを信じてしまいたくもなるし、風水を信じる人の気持ちもわからないではないと思う。

パワースポットの逆バージョンといったところか。

格安から生じるスパイラル?

このように、すぐに店舗がコロコロと変わる物件は、立地が良いにもかかわらず、意外と家賃は安いのかもしれない。

そうすると、家賃が安いからという理由で、安易な気持ちで借りる業者が出てくる。

どうせ安いからということで、「背水の陣」のような真剣勝負で仕事をしないのかもしれない。

真剣に仕事をしないから、それが売り上げの低迷という具体的な数字として跳ね返ってくる。

そして撤退。

そういうサイクルが続いているのかもしれない。

あくまで大雑把な推測だけど。

モノの個体差

呪いなのか、風水なのか、はたまたそこで働く人の気合いの問題なのか。

それはわからないが、土地に限らず、モノにも個体差があるという話はよく聞く。

例えば、大量生産された商品でも、シリアルナンバーが一つ違うだけでも、随分と性能や使い勝手が異なるようだ。

特に、レコード針や家電製品、楽器に関してはそのような話はよく聞く。

また、インターネット上でHPを作る際のドメインにも当たり外れがあるらしい。

つまり、すべての物事は、たとえ条件が同じでも、当たりと外れがあるのだろう。

だから、ほんの目と鼻の店舗でも、繁盛する店と繁盛しない店が出てくるのだろうし、シリアル番号が1か2違うだけのレコード針にこだわるジャズ喫茶のマスターがいたり、あるいは同一素材から削り出されてるであろうサックスのリードにも大きな個体差があるため、常にリードの選択と保存に頭を悩ませるサックス奏者がいるのだろう。

ヒトの個体差

しかし、モノや土地だったらまだいい。

モノは新しいものと取り換えることが出来る。
土地だったら引越しすることで、その土地から離れることが出来る。

しかし、人の場合は?

まさか、魂や命を入れ替えてリセットというわけにはいくまい。

私は様々な人々に会ってきた。

何をするにもテキトーかつイイカゲンな人が、思いつきで語った内容がことごとく的中し続け、業績アップ、事業を拡張を繰り返す様を見たこともある。

酒、女、博打が大好きで、金遣いも性格も荒いとしかいいようがない人の事業がうまく回っている様子も見たことがある。

特に特別なことはしていないにもかかわらず、ロト6や宝くじで、かれこれトータルすると十数億円を当選させた方の自宅を訪問したこともある。

いわゆる「引きが強い」と言われている人たちだね。

もちろん、私はその人たちの表面しか見ていなかったのかもしれない。
表向きはイイカゲンにふるまっていながらも、水面下では猛烈な努力を重ねていたのかもしれないが、それを言い出すとキリがないので、一応置いておいて。

このような「恵まれた人」とは真逆の人もいる。

誰よりも仕事に精を出し、休日も勉強と情報収集にぬかりのない努力家であるにもかかわらず、降格の憂き目に遭ったり、地方に飛ばされたりと、努力が認められず、それどころか裏目に出ているような人も知っている。

昔から人々はこれを「運」と呼んでいたんだろうね。

ダメなものは最初からダメ

運が悪い人は、昔から、方違えをしたり、浄霊をしたり、改名をしたり、お参りをしたり、パワースポットに行ったり、宗教に入ったりと、運の悪さを改善する方法を昔から実践してきたのだろう。

現在は昔よりも運の悪さを改善するための方法は昔以上に存在している。
無数の選択肢が巷にあふれているといっても良いだろう。

しかし、私はダメな物件はどんな業種が入ってもダメな例を見てきた。
サックス奏者が「ハズレのリードは最初からハズレ」と言っているのを何度も聞いてきた。

ダメな物、ハズレな土地には手の施しようがないように、ハズレな運命を背負って生まれてきた人は、死ぬまでハズレくじを引く宿命なのではないだろうかと残酷なことを考えてしまうのだ。

もちろん、小中学校時代は冴えなかった人が、大人に成ったら見違えるほど成り上がっていたというケースもあるが、そのような人の場合は、生まれ持っていた「アタリ」の運が一定の年齢に達するまでは開花しなかっただけで、元から持っているものは持っていたのではないかとも思えてくる。

そう、ダメなモノは最初からダメなように、ダメな人は生まれついてダメなのだ。

これって、誰もが薄々と感じていることなのではないだろうか?

しかし、こんなことをいうと、身も蓋もないどころか、己の人生に絶望し、自殺をしてしまう人も出るかもしれないから、努力や方法次第では「変わる」という言説が世間では一般的なのだろう。
そのほうが、一見ポジティブだし、良心的だし、さらに、商売として心の弱さにつけ込むことだって可能だからね。

もちろん、プラシーボ効果(ピグマリオン効果)というものも大きいので、思い込みが表面的な性格を変えることはあるだろう。

しかし、人と接する時の明るさ・暗さが変わったり、多少行動がエネルギッシュになったところで、それは、表面上の変化に過ぎない。

その人の根底に流れている拭いがたい「マイナスの引力」のようなものは、そうは簡単に払拭することは出来ないのではないか。

アンチ・バカポジティヴ

こんなことを言ってしまうと身も蓋もないのだが、しかしだからこそ「自分は生まれつきハズレなのだ」という認識を持つことからスタートした方が健全な人生を送れるのかもしれない。

余計なセミナーや新興宗教に投資をすることもないし、自分を取り巻く空気の流れが変わってきたところで調子に乗って悪ノリをすることもないだろう。

地味で慎ましい生活になるかもしれないが、現在の日本は地味で慎ましいながらも、そこそこ楽しめ、人に迷惑をかけず、人から迷惑行為を受けることなく楽しめる趣味ってたくさんあるわけだし。

最悪、1日中YouTube見まくっていてもいいんだしさ。

こんなことを書くと、引きこもりを助長させているようにも誤解されかねないけれども、そういう意図で書いているのではない。

デッカい夢をみようぜとか、人はアクション、アクション、行動しなければ何も起こらない、諦めたらそのばで試合は終了なんだよって、たしかにその通りだとは思うのだけれども、私は、すべての人にこのようなバカポジティヴな言葉をかけることのほうが残酷なことだと思っている。

何をやってもダメな人って、やはり一定数いるのだから。

それでも、トライ?

うん、トライをしてみることで可能性は開けるかもしれないけれども、開けない場合は、その傷をかさぶたにして、さらに強くなる人もいれば、傷口をさらに広げてしまう人だっているわけで。

誰もがスターになれるわけでもないし、誰もがトップを目指す必要もない。

むしろ、トップになるのは一握りの「アタリ」の人で、その他大勢は、自分の身の丈の範囲内で楽しく生きるのも一つの選択肢なんじゃないかとも思うのです。

それでも成功したければ

かつてはヘタレでしたが、今では誰もが羨む成功者になりました!!!

このようなストーリーが今も昔も横行しているが、「それってフィクションだろ?」とまでは言わなが、このような「特殊なケース」を一般化することって難しいし、再現性があるとは限らない。

レアケースを売り物にする人もいれば、レアケースにあやかりたい人もいる。
だからこそ、そこで商売が成り立つのだろう。

「たまたま」うまくいっただけかもしれない経験談や方法を一般化し出した途端、そこには商売の匂いと胡散臭さが漂いはじめる。

だから、このような「ヘタレが成功者に」というようなストーリーにすがりたい人は、やめなさいとは言わないけれども、その人と同じ方法論は実践しないほうが良いだろう。

「成功談」そのものが嘘かもしれないが、もし仮に本当だったとしたら、その人は「ヘタレ」の時から、自分の頭を駆使して、自分の身体を張って成功へと到達したわけでしょ?

だったら、自分の人生を変えたい人は、安易に他人の方法をトレースしちゃダメなんだよ。

参考にしたい成功者がいれば、その人の方法論をなぞるのではなく、その人の考え方を盗まなきゃ。
自分で考えて、自分で切り拓いていかなきゃ。

もちろん、うまく行かないかもしれないけれども、うまくいくとか行かないとか、そういうことを考えない、考えられないほど努力、熱中してこそ、初めて道は開けてくるんじゃないかな。

保証はしないけれど。

悪あがきも悪くない

これを言っちゃオシマイかもしれないが、まあ要するに、映画『桐島部活やめるってよ』の東出昌大のセリフじゃないけど、「結局できるやつは何でもできるし、できないやつは何もできないっていうだけの話だろ?」という言葉に集約されるのだろう。

残酷なようだけれども、人ってやつは。

そして、ガンダムのスレッガー中尉の「悲しいけどこれ戦争なのよね」、ではなくて「悲しいけどこれ人間社会なのよね」、なのだ。

もちろん、若い人は悪あがきしても良いだろう。
ダメだった時に、人に八つ当たりをしないと誓えるんだったらね。
結果を出すも出さぬも自己責任で頑張ってみることは決して悪いことではない。

しかし、結果とか成功とか数字とか報酬とか、そういうものは自分ではなく、ほとんどのことは周囲が決めることだから。
社会、世の中、時代が決めることだから。
これは念頭に入れておくべきことだろうね。

あなたの値段は、あなたが決めない。
仕事の報酬は最終的にはクライアントが決める。
社員だったら、給料の額は社長や人事が決める。

交渉して引き上げるという選択肢もあるにはあるが、あまりに業界内の相場を勘違いしていたり、仕事内容のわりに自己評価が高すぎると、顰蹙を買い、二度と声がかからなくなるというリスクもあるということもお忘れなく。

呪縛からの解放

「アタリ」な人間は一握り。
「ハズレ」な人間が大多数。
だから、高望みをせず、分をわきまえ、身の丈に合わせた生活がじつは一番幸せなのだ。

このようなことを多くの人が肯定してしまうと、「夢を追う」という需要が無くなり、自己啓発本やビジネス本の出版社が潰れてしまうし、情報商材の筆者もおまんまの食い上げになってしまうだろう。
大袈裟に言えば、「欲望の肯定とそれに伴う貨幣の流通」こそが資本主義の基本原理に反した考え方なのかもしれない。
夢を手に入れるための対価としての消費行動が滞ってしまうわけだから。

しかし、そんなのはイヤだ、自分は「鬼門物件」でもいい、己にまとわりつく「ハズレ」という呪縛に抗い、願わくば解放されたいという人もいるだろう。

そういう人のために一つだけアドバイスできることがあるとしたら、「人目を気にしない」ということではないだろうか。

人というよりは世間だね。

世間の物差しや価値観に染まり過ぎない。
というより、それを物差しにしない。

とかく、気にし過ぎる傾向があるのよ、特に日本人は。

世間に流布されている成功モデルや成功者像に拘泥することなく、「うまくいく・いかない」を超えて、そして「運がいい・悪い」などということを考えることもなく、「とにかくコレをやっている時が一番楽しい、面白い」というものがある人こそが、最大の人生の成功者なのかもしれない。

そして、世間の評価を離れ、「おもしろきこともなき世を」、そこそこ面白く生きようとする姿勢そのものが、ダメ、ヘタレ、運の悪さ……など、生まれもってベタリと張り付いている「呪い」に対する最大の復讐なのではないだろうか。

最近の私はそう考えています。
いや、今、ふと考えただけです。
明日になれば、コロリと考え方が変わっているかもしれません。

記:2017/05/09

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