人生のプロジェクト
2017/04/16
レイアウト至上主義?
私は、本の装丁やデザインにこだわるほうなので、極端なことを言えば、内容がスカスカでも、デザインや誌面のレイアウト、フォーマットがよければ、まぁ、それはそれで買う価値あるじゃん、って思ってしまうタイプのようです。
逆にどんなに良い内容が書いてありそうでも、装丁ダサダサだったり、紙が安っぽかったり、レイアウトがアマチュア丸出しのやっつけ感満載だと、プロの仕事じゃねぇぜ→したがって買う価値なーし!と感じてしまうトコロが多分にあります。
もちろん、すべてがそういうわけじゃなく、良い内容であれば、外観のダサさを我慢して買って読んだりもしますが、それだけ本の「外面(そとづら)」は気になるということです。
最近の『ジャズ批評』も、内容に関して云々言う以前に、あのレイアウトなんとかならんかい? という思いのほうが強いですね。
岩浪先生の新刊
もうひとつ最近の新刊で例をあげます。
えーと、最近の「ジャズ本」の場合ですと、読みたいけれども定価はちょっと高いし、装丁がちょっとねぇ、で、実際に手にとってみて、ますますなんだかページめくる気が萎えるなぁと思った本の代表例が、岩浪洋三氏・著の『これがジャズ史だ―その嘘と真実』でした。
いや、これはもう岩浪センセイ、ゴメンナサイな世界で、たしかに「嘘と真実」ってサブタイトルがそそるんですが、どーも、手にとった感じ、本文の紙質やら、ページをめくるときの紙のコシとか、カバーの紙質とかが、こりゃーかなり「低予算だぜ感満載」のたたずまいからして、もう読む気がせんのですわ(笑)。
好き勝手かいてごめんね。
好き勝手ついでに、「その嘘と真実」にはすごくそそられるんですが、いつも「おんなじ内容の多い」センセイの著作じゃないですか(笑)、
本当に「真実」って書かれてるんですかぁ~?って訝しさもあるんですよね、正直。
やれ、
「ハーレムの伝統を組みながらも歌の心を忘れてハーレムの伝統を断ち切ったセロニアス・モンクの功罪」
とか、
「アート・ペッパーは人間的な後記のほうが断然いい」
とか、
「コルトレーンのバラードは歌を失ったカナリヤだ」
とか
「セシル・テイラーの手品師のような演奏にはだまされてはいけない」
とか、
「ハーレムのジャズを日本人はあんまり聞かない、見向きもしない」
とか、
「ケニー・バレルのようなふにゃふにゃギターを日本人は好む傾向があるが、ぶっとくガッツのあるのは、タイニー・グライムス」
だとか、
「誰に会った」
とか、
「誰がこう言っていた」
とか、
「私は年に5回(だっけ?)ニューヨークに行くが」
という前置きだったりとか、
「秋吉敏子からもらった手紙には、マイルス・デイヴィスのクールの誕生がいいって書いてあった」
とか、
「ジャコのベースには哲学がある」
といった、
またまた、いつもの、
センセイお得意の主張、それも様々な本で同じ内容、同じ語り口で繰り返されている主張を、またまた本書で繰り返すわけじゃないでしょうね?って勘ぐりもあるわけですよ。
同じような内容を、パッケージだけ変わって、こりゃまた同じテイストで聞くってこと、これって、たとえば、乱発されている晩年のチェット・ベイカーの似たりよったりな演奏を(たまにいい演奏もあるがそれは例外として)、かたっぱしから聞きまくって、うーん、どれもこれもが枯れた味わいがあるねぇ、と腕を組んでブランデーを飲むようなもので、それができる渋くて通な「つまらないことにも一片の価値と楽しみを見出す境地」に達した人にはいいのでしょうが、私には、まだまだそういう境地に達してはおらず、でも、達したいとも思っているので、騙されたつもりで、また岩浪本を買って、読んで、んで、またまた「騙されたぁ」と叫ぶムダっぽい行為も、これまた人生のワビサビの境地なのかなとも思ってはいるのですが、今のところ読みたい本が多すぎて手を出していない、というか先述したとおり、デザイン、装丁、紙質がバッドなので、触手がわかない気分に拍車がかかっている次第で、読まずに好き放題書いてしまったセンセイ、ごめんなさいって気分に満ち満ちているんだけれども、もし、今までの岩浪本に書かれていない斬新なお話があったら、こっそりどなたか教えてください(笑)。
あ、しまった、べつに、岩浪洋三本をクサすために書いているんじゃなかった。
前置きね、前置き。
長い前置きだな。
人生のプロジェクト
はい、じゃあ本題行きます。
内容はともかくとして、なかなかスタイリッシュな構成、デザインで愉しませてくれたのが、昨日読んだこの本。
読み応えはないかもしれませんが、見ごたえ、触りごたえはあります。
多くの写真が意味ありげに配置され、言葉少なに(文字少なに)、プロジェクト達成に必要な段取りのマインドセットから、メソッドまでが過不足なく記されています。
唯一、ああ、これがなければ、本文完璧なのに!と感じたのが、ラストのページ近くの自社広告。この見開きページのデザインのみ、じゃっかん本文のページデザインから浮いており、統一感を欠いております。
はさみこみのパンフレットにも同じ著者による自社本の宣伝をしているんだから、巻末の余った見開きページは、おもいきってフリースペースにしちゃってさ、まん中にモノクロ写真の角版をぺたっとおいて、粋なひと言、たとえば、佐野元春の『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』のライナーよろしく、
“今あるこの世界で、それぞれの君は皇帝であり、王である―「バドラヤナ仏教」より”
とか、
“Free all political prisoners”
とか、
“ぼくにさまざまなインスピレーションを与えてくれたベーコン&アボガドサンドウィッチに、どうもありがとう”
とかいった言葉を小さくぽつっとレイアウトするとラストがしまってカッコ良かったのになぁなんて思いながらも、それはオレの勝手なないものねだりなわけであって、そんな瑣末なことなど吹っ飛ぶほど、なかなかイイ本です。
仕事の遅いキミ!(あ、オレだ)
この本を読もう!
以上、前置きよりも短い本題、終わり!(笑)
記:2008/03/01
追記:先日のつづき、いいたいほーだい
そうそう、先日、本のレイアウトの件を云々と書いたけれども、大事なこと書き忘れていた(岩浪センセイの長い前置きどころじゃなかった・笑)。
いま、フリーペーパー多いじゃないですか?
『R25』とか『L25」なんかをはじめとした。
その一方で、お金を払って情報を得るための雑誌というメディアも厳然としてある。
しかし、出版不況だと言われて久しい今日、トータルな雑誌の売上も年々下降を辿るいっぽうです。潰れる書店や出版社も多いですし、世は「活字離れ」だとは思わないけれども、「お金を払って得るメディア離れ」は確実に進んでいることは確か。
じゃあ、お金を払う雑誌と、お金を払わないフリーペーパーの違いはなんぞや? って問題につきあたるわけで。
とくに、『R25』のようにクオリティの高いフリーペーパーもあり、このタダな雑誌と、お金を払って得る雑誌の情報との違い、差別化ってナニ?ってところにいきつくわけですよね。
当然、読者によって、求める情報の種類や質は違います。
それこそ、データ的な即席情報は、ネット検索で事足りるし、そのほうが無料で速い。
じゃあ紙媒体に求める情報というのは、1つはクオリティの高さだと思うんだよね。
クオリティの高さというのは、「今日、どこどこで、なになにがありました」という一次情報ではなくて(これに関しては、スピードとコストの面ではネットにはかなわない)、このデキゴトを咀嚼吟味したうえでの、編集者、発行者なりの独自の視点、切り口、提言、情報を料理した内容のことです。
つまり、インフォメーションではなく、それをインテリジェンスにまで高めないといけないということです。
この作業を迅速にさばいているのが、まずは、今も昔も新聞、ですね。
あと、テレビのニュース番組。
そこには情報を捌くプロが介在しているから、日々おこるたくさんの出来事を取捨選択しており、優先順位が明確でしょ? 新聞の紙面レイアウトの面積の大小や、見出しの大きさを見れば。
さらに、テレビは本当に重要なものしかピックアップしないし、重要なものに関しては報道するにあたってのツール作り(テロップ、写真、現地の映像、関係者や通行人のインタビュー、紙のボード作り、場合によっては模型作りなど)がとても速い。
これらをサッサと作って、的確にビジュアルで視聴者に伝えている。
しかし、新聞やテレビよりも速報性がさらに劣る雑誌や書籍だと、これはもう迅速さ以外の面で勝負するしかない。
それが編集、主張、切り口といったインテリジェンスの要素なんですけど、でも、じゃあ、無料のフリーペーパーにインテリジェンスがなくて、有料の雑誌にはあるのかというと、そうでもないんですね。
無料と有料の垣根がどんどんなくなってきている。もちろん無料の場合は、ジャンルは限られているけど。
じゃあ、もう一つ、有料雑誌が無料の雑誌との差別化で頑張れる部分はどこかというと、ビジュアル面、つまりレイアウトやデザイン面も一つの可能性としてはある。
凝りに凝ったページレイアウトにする必要は必ずしもないのだけれども、やはりカッコいいページのフォーマットを作って、テキストや図版を流し込んでゆくべきだと思う。
あるいは紙に凝るとか。
つまり、購買者にとっては、情報伝達ツール以外にも、「お金を出して買ったものを所有する喜び」つまり、単純にモノとしてのクオリティの高さというものにも注力する必要があると思うのです。
そして、『R25』をはじめとしたフリーペーパーは、有料誌と比較しても遜色のないページレイアウト、大胆な表紙のデザインで打ち出してきています。
つまり、無料の雑誌もこれだけお金をかけているんだから、有料の雑誌が頑張らなくてどーすんの!ということですね。
もちろん、『R25』のような大部数かつ内容も充実したフリーペーパーはクライアントからの広告収入を制作費用に充てているので、スポンサーがほとんどついておらず、店頭での実売が収入のメインとなるような雑誌とは収益構造も、充てられる製作費の違いもあるわけで、いちがいにビジュアルにお金をかければいい!と単純に言い切れる話でもありません。
しかし、本を買うという「いち消費者」としての単純な気持ちからすると、買うからには、やっぱり装丁やレイアウトの良い本のほうがいいし、質の悪い紙よりは、やっぱり触って気持ちの良い用紙のほうがいい。
読む喜びのみならず、所有する喜びも満たされたいからです。
ですので、最初に文字を流し込むフォーマットだけにでも投資するべきなんじゃないでしょうか、と思うわけで。
つまり、土台、枠組み、構造を設定する段階にはある程度お金や頭脳を使うべきで、いったんそれを構築してしまったら、あとは流し込むだけなので、それほど予算はかからない。
雑誌によっては、所有する喜びにまでは必要なく、読めば捨ててしまう週刊誌のようなものもあるので、いちがいにすべての雑誌の佇まいを再考せよと言っているわけではありません。
しかし、趣味の分野の雑誌は、あきらかに読者は中身の情報だけではなく、所有し、保存する喜びもあるはず。それは専門的な内容になればなるほど、バックナンバーとして本棚に保存する確率が高くなるでしょうし、何度でも読み返したくなる、何度でも取り出して触りたくなるようなクオリティの高い「外見」、モノとしての「品質」にもこだわるべきでしょう。
と、私は一人で、いち、本フェチとして思っているのですが、どうも事態は逆なようで、たとえば、専門誌の話が出たついでに言っちゃうと、最近の『スイングジャーナル』や『ジャズ批評』の紙面レイアウトのクオリティの低下はいったいなんなんだ、と(笑)。
とくに、『ジャズ批評』がひどく、これはもう、なんというか、アマチュア制作の同人誌なみですな(笑)。いや、クオリティの高いアマチュアだったら、もっとマシなレイアウトのものがあるかもしれない。
ジャケット以外はテキスト中心の雑誌なので、情報さえ充実していればレイアウトなんてどうでもイイんだよ、と作り手は思っているかもしれません。
さらに、日本におけるジャズの専門誌は、3誌のみで競争も少なく市場もせまく、さらに、狭い市場の中でのポジションをそれぞれ何となく確立しちゃっているところがあるので(オーディオマニアはSJ、楽器演奏者はJL、といったような)、競争原理が働かないということもあるのかもしれない。
要は、中身だよ、中身。コンテンツ、ね。
ってことなのかもしれない。
しかし、いくら中身の情報に触手が向いても、「それを読みたい!」と思わせるレイアウト、見出しがないと潜在的読者を取り逃がしてしまう可能性もあるんじゃないかと。少なくとも私はそうです。
なんか、最近、立ち読みですませちゃっているし、立ち読みするにも、パラパラめくった段階で、すでに読む気が失せている……。
しかし、逆に、レイアウトや見出し、記事タイトルの書体やバランス、そして記事タイトルもしっかりとソソるような文言で押し出せば、大して読む気もしない寺島靖国さんのエッセイや、岩浪洋三センセイのニューヨークレポートも読む気になるかもしれない(笑)、ということです。
外見でモノゴトを判断するな、という考えは正論ですが、外見の印象が悪いと、その時点で、素晴らしいかもしれない中身を知ろうという意欲が萎えることもまた事実。
それは、人間も一緒です。
とても人間的にも素晴らしく、考えていることもユニークな人がいたとしても、
サンダル履きでペタペタと歩き、
肩にはフケだらけで、
しょっちゅう頭をボリボリ掻いて、
口臭がひどく、
たえず落ち着きがなく貧乏ゆすりばかりし、
ヨレヨレの服を着、ボロボロの靴を履いている人だったら、深く踏み込んでその人のことを知ろうとは、あんまり思いませんからね。たとえ素晴らしい人でも。
教祖と信者の関係でもない限りはね(笑)。
外観(外見)は、知識と情報の玄関なのです。
せっかく良い内容をもっていても、玄関が汚れていたら、たとえ好奇心をもって中に踏み込もうという人がいたとしても、自ずと遠ざけてしまう結果となるのです。
だから、もっと雑誌、書籍はレイアウトにも心くだくといいのになー、と出版社の制作予算などの事情をまったく考えにいれない暴論でございました。
ただ、作れば売れる、って時代はとうの昔に終焉しており、これからは、作っても売れない→じゃあ、なんのために我々は毎月(毎週)雑誌を作っているの? って原点から考えなきゃいけないのだと思います。
なんのために作っているの?→それが仕事だから→作らないと生活していけないからってのはナシね(笑)。
それいっちゃオシマイよ。
というより、その考えが、どんどん雑誌を売れなくしてきているんじゃないかな。
定期刊行物だから、とりあえず締切ありますよね? だから締切に向って仕事しなきゃいけない。目の前のことに注力していれば、ラクといえばラクですよ。肉体はともかく、精神的には(笑)。でも目の前の忙しさにかまけて、根本的な問題がずーっと、ずーっと先送りにされっぱなしじゃないのかとも思うわけで。
記:2008/03/03
コメント
■岩浪さんって、ある時期以降のジャイアント馬場?
今は亡きジャイアント馬場。ある年齢を超えて、あの大きな体を自由に動かせなくなっても、ジャイアント馬場は、オールドファンの声援に応えるため、それでもリングに登っていた。
で、ジャイアント馬場と言えばやっぱりあのオハコ十六文。だけど、いつそれが炸裂するか。それは相手レスラーにも見え見え。
でもやっぱり、あのジャイアント馬場が十六文を放った以上は、相手レスラーにはもやは選択権はないのだ。それをかわすことなどできない。許されない。
避けられないとばかりに、正面から十六文を受け止めなければならない運命にあるのです。
岩浪さんって、その時期にさしかかったジャイアント馬場で、雲さんは失礼ながら引き立て役の相手方レスラー?
わたしもかなり言いたい放題。ゴメンナサイ。
Posted by 八神かかし at 2008年03月02日 15:39
■レスラーどころか、
いやいや、
レスラーどころか、
はやくセンセイと同じ土俵、
いや、
リングに立てるようになりたいですよ。
今の段階では、まだまだ私はうるさい外野席の野次馬といったところです。
でも、ヤジるってことは愛があるってことです。応援です。エールです。殿堂入りしないで、ワンパターンに陥らないで、もっともっと現役で頑張ってねーっ!てことです。
十六文や空手チョップ並みのインパクトあるワザをセンセイがお持ちじゃないのが、ちょっと残念ではありますが……(笑)。
Posted by 高野 雲 at 2008年03月03日 14:20