コルトレーンの失敗作?『アセンション』が愛おしい。

   

原田和典さん

原田和典さんは、元『ジャズ批評』の編集長かつ、名著『コテコテ・デラックス』の編著者として、知る人ぞ知る“ジャズ評論界”の第一人者。
最近では、新書『世界最高のジャズ』や、『コルトレーンを聴け!』の著者と言ったほうが通りがいいかな?

いずれにせよ、読ませるレビュー、勢いのある文章といえば、私の場合はまず真っ先に原田さんが思い浮かぶ。

私がこんなこと言うのもオコガマシイが、とてもイキのいい「ジャズ書き屋」だと思う。
イキがいいのはレビューだけではなく、原田さんの好みの音楽もイキのいいものが多い。
元気かつブリブリ系のサックス奏者をはじめ、新旧問わず、肉汁がしたたるような熱い演奏が好みと見受けられる。

そんな原田さんが、コルトレーンの全アルバムをレビューした『コルトレーンを聴け!』を上梓したのは、必然ともいえるし、原田さんだからこそ成しえた偉業だと思う。

コルトレーンを聴け!
コルトレーンを聴け!

そんな原田さんだが、『コルトレーンを聴け!』を紐解くと、意外なことに『アセンション』をあまり評価していない。

ブリブリ系、迫力系が好きな原田さんにしては意外だなぁと思いつつ、先日(といってもだいぶ前だけど)お会いしたときに、「原田さんの『アセンション』評、あまり芳しくないですね」と投げてみた。

すると、今度は原田さんが意外そうな顔で私を見つめて、「え~? 雲さん、アセンション好きなんですかぁ?」と、逆に怪訝な顔で聞き返されてしまった。

原田さん的には、“激しい・激しくない”の問題ではなく、「僕は、やっぱり美しいメロディがないとねぇ」なのだそうで、うん、まぁそれは納得です。

つい聴いてしまう

私も、正直に言えば、『アセンション』のこと、滅茶苦茶好きで好きでたまらんというわけではないです。

でも、なんだか、つい聴いちゃうのよ。

頻繁に聴いているというわけでは無いんだけれども、不思議と「やかましい」「不快」と感じたことは一度もない。

だって、愛らしいじゃないですか、この作品。
コルトレーンの人間性が見え隠れしているようで。

「初心者に薦めてはいけないアルバム」の筆頭に挙げられることの多いアルバムのようだが、それは「ジャズ」として薦めるからだと思う。

受け手の「ジャズってこんな感じの音楽なのかな?」という漠然とした先入観と、『アセンション』の迫力サウンドは、あまりにギャップがあり過ぎる。

だから、面食らってしまうのだろう。

しかし、「迫力音」とか、「ブリブリ系パワーミュージック」とか、「管楽器の圧倒的な音のシャワーを浴びて、凝った肩をほぐしましょう」みたいな薦め方をすれば、きっと、「へぇ、結構面白いじゃん」ってなるかもしれないのにね。

……ならないか。

いじらしいではないか

それはいいとして。

リズムには、定型ビートがあるし、調整もあるこの『アセンション』は世間で言われているほど聴き難いシロモノでもないと私は思っている。

テーマなんて、すごく分かりやすいじゃないですか。

特に、

♪パラララ~

で始まるテーマの部分、私は大好き。

こんな聴き方、邪道かもしれないけど、もう何度も聴いているせいか、最近ではこのテーマが始まるとニヤリとしている私がいる。

だって、この「壮大っぽい」テーマ、いじらしいじゃないですか。

「大袈裟だぞ~!壮大だぞ~!」と真面目な表情でこちらに語りかけてくる音群が一生懸命で。

いじらしさを感じるではないですか。

だから、ついつい「おお、そうかい、そうかい」とニコニコと微笑み状態になってしまうのだ。

この大袈裟で、大雑把な感じもしなくもないテーマの数音が、とっても愛おしいのよ(笑)。

スケールでかい音楽が始まるぞぉ!と大風呂敷を広げているわりには、なんとなく次に続かないツメの甘さが、なんとも愛らしいではないか。

コルトレーンのことだから、べつだんハッタリをきかせているわけではない。
むしろ本人は大マジメ。

それなのに、どうもデッカくぶち上げたわりには、落とし前をつけてくれない無責任さが、イイ(笑)。

A型気質

昔は私、コルトレーンがそれほど好きではなかった。
しかし、ここ数年、急速に好きになりつつある。

なぜか。

きっと、真面目、真剣、深刻、聖者……。

そんな堅苦しいイメージが彼につきまとっていたから嫌いだったんだと思う。

演奏も生真面目か、ブチ切れているかのどちらか。

まるで、さだまさしの《血液型恋愛症候群》という歌の歌詞じゃないけど、

♪開き直れねば何も出来ず……な、A型的気質なジャズマンだよなぁ、と思っていたわけです。

コルトレーンの血液型って私、知らないけど、ま、「A型的気質」ってことで…。

で、この「A型気質」っていうのは「B型気質」の私から見ると厄介で、普段はおとなしいけれども、我慢を鬱積させる傾向があるように感じる。

で、この鬱積した我慢が臨界点に達すると、ダムが決壊するかのごとく、ドドドドドドーッとキレるんだよね。

怒るキッカケは些細なことかもしれないが、本人にとっては、直近の出来事だけではなく、何ヶ月(あるいは何年)も我慢しつづけた怒りも含まれているから恐ろしい。

時には、「お前、10年前も同じこと言ったよなぁ!」と、はるか昔のことまで根に持っていることもある(笑)。

こっちはスッカリ忘れていたのに(笑)。

その都度、その場で怒りを発散させて、あとはスッキリなB型気質な私にとっては、不可解かつ恐ろしい気質がA型。

コルトレーンってまさにそうじゃないですか。

神妙に吹いているかと思えば、堰を切ったようにブチ切れることもある。

その中間がない。
緩急もない。
両極端。

よし、俺は今日から「ワル」でいくぞ!

とか、

よし、明日から「ガチガチなマジメ人間」に生まれ変わるぞ!

みたいに、1かゼロかなオール・オア・ナッシングにこだわる。

「べつに、その場その場、適当でいいじゃん。いいときもあれば、悪いときもある。臨機応変、臨機応変。」
そんなことを言いながら、その瞬間の気分によって、身のほどこし方がどうにでも変わる、ある意味、イイカゲンな気質こそジャズマン的だと私は思うのだが、コルトレーンの完璧主義的な気質は、ある意味、私が思い描くジャズマン像とは対極に位置しているのだ。

そういう気質、堅苦しさが音に出ていたから私はコルトレーンを長い間好きになれなかったのだ。

人間くさいところが好きだ

しかし、彼の演奏を聴けば聴くほど、エピソードを知れば知るほど、「あれ?この人、思ったより潔癖主義でも完璧主義でもないじゃん」と気付いた。

思ったほど鉄壁人間じゃないんだ、と気付いた瞬間、急に親近感が沸いてきた。

ライブ中、マッコイ・タイナーがピアノソロを弾いている間、近所の店にスパゲティを食べに行くし。

スタジオでマイルスとプロデューサー(テオ・マセロ)が、もう一回録音するか否かを話し合っている最中、「栓抜きどこ?(さあ、録音終わった、ビールを飲もう、とでも思ったのか?)」などと素っ頓狂なことを抜かすし(笑)。

《ジャイアント・ステップス》のように、一分の隙も狂いもない、精緻かつパワフルな演奏も多いが、アドリブが閃かずに、同じところを夢遊病者のようにフラフラと漂っている演奏も中にはあるし。

こうした彼の「欠点」のようなものが見えてきてからというものの、親近感が沸くようになってきたのだ。

その最たるものが《アセンション》。

「よっしゃぁ!一発ドカァーン!と壮大な音楽を作るぞ!」そう意気込んだコルトレーン。
やるからには徹底してやらにゃああかん。

管楽器を増やそう、出だしはこんな感じかな、ソロオーダーはどうしよう、ピアノソロはどのへんに挟もう、ソロを取っている間のアンサンブルはどうしよう……。

そんなことをあれこれ、たくさん考えていたに違いない。

そして、いよいよ演奏開始!

7本の管楽器が吼える、吠える。圧倒的な迫力だ。
荘厳な出だし。
何かを予感させてありあまる、天地創造、破壊神降臨。
大河音楽物語の始まり、始まり!

聴き手もスケールの大きな「音物語」を期待する。圧倒的な迫力で迫ってくる音塊に対峙し、我慢し、やがて訪れるであろう壮大なカタルシスを期待する。

嵐が過ぎ去り、やがて柔らかな太陽の日差しが雲間から降り注ぐことを待ちわびる。

ところが…、いつまで待っても、それ以上の展開がない。

それぞれの管楽器がめいめいにインプロビゼーションを重ねるだけ。

結局、いつものコルトレーンカルテットの伴奏の上に、管楽器群が咆哮を重ねただけの仕上がりに終始してしまう。

演奏の冒頭に抱いた大きな期待は、結局肩透かしで終了。

この大風呂敷を広げて、広げただけで終わってしまうコルトレーンが、人間くさくていいではないか(笑)。

こんなに「豪快な空振り」っぷりを見せ付けてくれるのは、コルトレーンぐらいだよ。

その点、先輩のマイルスなんかは、聴き手を期待させたり、ジラしたりするのが巧みで、自分の意図した音楽設計図の通りにサイドマンの手綱を握るのも巧い。

しかし、コルトレーンの場合は、どう聴いても、ファラオ・サンダースや、ジョン・チカイ以下、6人の管楽器衆を束ね、意図通りにコントロールしているとは言いがたい。

フリージャズ方面の「荒くれ者」たちを結集させたまではいいが、「荒くれ者」のパワーを知的に統御することなく、ただ荒くれさせるだけ荒くれさせて、それでオシマイ(笑)。

他の連中がブバブバやっている間、ヌボーッと立ち尽くしているコルトレーンの姿が目に浮かぶ。
いや、実際はそんなことなかったのだろうが、そう想像しながら聴くほうが面白い(笑)。

そんなリーダーシップが不完全なコルトレーンが愛しい(笑)。

逆に、器用にサウンドやサイドマンを操るマイルスを小賢しく感じちゃうぜ(笑)。

もしかしたら、過激な急進ジャズマンたちを放任し、そこから生まれるサウンド的ハプニングを期待していたのかもしれないが、結果的には大空振りな結果といっても過言ではない。

期待させておいて、リスナーは決して報われないという、世紀の大空振り。

そして、管楽器の人数増やせば壮大になる。…わけじゃないという当たり前な真理を『アセンション』は教えてくれる。

まぁ、そのへんが「失敗作」と称されている一因なのかもしれないが、この「結果」をどう評価するか、しないかは、受け手の感性に委ねられるべきこと。

まさか、評論家が「失敗作」と評したからって、それを額面通り受け取り、1回か2回聴いた程度で「失敗作だから、つまらない」とはなってないでしょうね?

だとしたら『アセンション』は、世間的に言われている、「失敗作」という冷たい一言で片付けられるのは、あまりにも可哀そうだ。

ま、「つまらない」なら「つまらない」でもいいんだけど、コルトレーンが大人数の管楽器にブローさせて、何かをやろうとして意気込みは、真摯に受け止めてみてもいいんじゃないかな?

というのも、この『アセンション』に親しむことが出来れば、以降のコルトレーンの作品を観賞するのにも抵抗感がなくなるからだ。

そして、以後の諸作を聴けば、コルトレーンは『アセンション』のレコーディングで何がしかの手ごたえをつかんだことが分かる。

次作の『トランジション』では、再び元のカルテット編成に戻ったが、白熱したリズムフィギュアは、『アセンション』のそれよりもより一層沸点のレベルが高まり、より一層凝縮度が高まっていることが分かる。

また、『アセンション』の編成をコンパクト化して再度、似たような演奏、《セルフレスネス》を吹き込んでいるが、これは過激さと聴きやすさが丁度良いバランスで共存している。

《セルフレスネス》は、《アセンション》よりも、より一層聴き手の集中力が持続するようなアレンジがいたるところに施されているところに設けられている点に注目。

これらの作品を聴くと、コルトレーンは、『アセンション』を吹き込んだことで、何かしら得ることがあったに違いない。

もちろん、よっぽどのファンでない限り、コルトレーンの音楽的成長の過程にまでつき合う必要はにはないのだが、劇的な変貌を遂げる後期コルトレーンの音楽を読み解く上では、『アセンション』はなくてはならない存在。

コルトレーンの全部をディグしたい!という壮大な野望を持った人にとっては、無くてはならない通過儀礼でもあるのだ。

『エディション1』を持っている人は、是非、『2』のほうも揃えよう。
もっとも、『1』も『2』もそれほど大きな差はないが……。

記:2006/12/26

album data

ASCENSION (EDITION 1,2) (Impulse)
- John Coltrane

1.Ascension-Edition 2
2.Ascension-Edition 1

John Coltrane (ts)
Freddie Hubbard (tp)
Dewey Johnson (tp)
John Tchicai (as)
Marion Brown (as)
Pharoah Sanders (ts)
Archie Shepp (ts)
McCoy Tyner (p)
Jimmy Garrison (b)
Art Davis (b)
Elvin Jones (ds)

1965/06/28

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