ジャズのマッド・サイエンティスト? 鬼才!レニー・トリスターノ
2021/02/09
DTMが出来る時代に生きていたら?
もし、レニー・トリスターノがもう少し後の時代に生まれていたら……。
今頃は、おそらく自宅やスタジオで、シンセやパソコンを駆使したレコーディングの鬼になっていたのかもしれない。
と、そんなことを夢想させるのが、彼の代表作『奇才トリスターノ(邦題)』のA面だ。
A面は、発表当時から論争の的となっていたという、実験色の強い内容だ。
すなわち、録音したテープのスピードの操作と、ダビングしてピアノを重ねる多重録音という手法。
トリスターノほどの腕前なのだから、単純にテンポを速めて弾けば良いだけなのに、なぜテープの速度を速めたのだろうと最初は訝しく思った。
というよりも、これらのことって、生演奏・即興が主体のジャズからしてみれば、かなり邪道なことなんじゃないだろうか?と、ジャズに入門したての頃の私は思っていた。
しかし、聴いているうちに分かってきたが、テープの回転速度を速めて彼が求めたことは、“テンポ”ではなく、“ピアノの音色”だったのではなかろうか。
録音したされたテープのスピードを速めて再生すると、曲のテンポが速くなることは言うまでもないが、音色も変化する。
ピッチが高まり、ピアノのふくよかな倍音の要素が減少するかわりに、鉱物のように、固く黒光りを放つ音色が生まれるのだ。
きっと、トリスターノは、この音色が欲しかったのだろう。
そして、この音色こそが、自分が紡ぎ出す、甘さや情緒を排した厳しいメロディラインに相応しいのだと直感的に感じていたのかもしれない。
《ライン・アップ》や《東32丁目》で聴くことのできる、固く締まった硬質なピアノの音色は、あきらかに彼独特のアドリヴ・ラインとピッタリとマッチしている。
自分が弾いたピアノの録音に合わせながら、ピアノを重ねる多重録音。
ビル・エヴァンスが『自己との対話』で行っていた手法を早くも彼は行っているが、他のピアニストと共演せずに、自分一人で音を重ねるという孤独な作業を選んだトリスターノは、きっと自分以外の人間のリズム感覚を信じられなかったからなのかもしれない。
結局、自分以外は信じられなかった?
私がそう推測するのは、以下の理由による。
トリスターノが自分の弟子のリズムセクションに要求したのは、ベースもドラムも、余計な装飾音をや“リズミックな遊び”を排し、徹頭徹尾イーヴンに4つを刻むことだったと言われている。
まぁ、ピーター・インドのベースなんかを聴いていると、この制約とストイックさの中からも滲み出るうねりが、逆に奇妙な恍惚感を聴き手に与えているんじゃないかと思うのだけど、それはさておき、トリスターノはリズムに対しては非常にストイックで厳格な眼差しを持っていた。
遊びのない正確なリズムを下敷きとして、己の理論にのっとったアドリブを展開させようとしていたのだろう。
ひょっとしたら、ベースもドラムも、単なるリズムマシンと考えていたのかもしれない。
晩年に吹き込んだピアノ・ソロ『ニュー・トリスターノ』の厳しいピアノを聴くといつも思うのだが、結局トリスターノが信頼出来る理想のリズム感の持ち主は、トリスターノしかいなかったのかな?と思ってしまう。
『ニュー・トリスターノ』は、“たまたま”ソロで録音しただけのアルバムなのかもしれないが、どうも私にとっては、信頼出来るリズムキーパーが結局は見つからなかったために(あるいは彼のもとを離れていってしまったために)、“とうとう”一人で録音するしか方法がなくなってしまったように感じられるのだ。
自らが吹き込んだピアノの音源に、テンポをわずかにズラしながら自分自身のピアノを重ねた《レクイエム》に《ターキッシュ・マンボ》。
この微妙なリズム感覚に合わせられるのは、そして、彼の狙いを理解して微妙なズレを“正確に”演出出来るピアニストは自分自身しかいなかった。
だから、彼は孤独な多重録音という作業を選択したのではないか?
クールでおっかねぇ~世界
音色とリズム。
彼の行った多重録音やテープ操作は、機材の性能に振り回された“手法のための手法”には非ず。
DTMやシンセも無い時代、彼が欲した上記2要素を実現させるためには、当時はこの方法しかなかったのだ。
だから、レコーディングのハードや機材が当時と比較すると格段に進歩している現在においても彼が活動していたとしたら、きっと、レコーディングの鬼になって、次々と興味深いサウンドを生み出していたんじゃないかな、と私は夢想するのだ。
とにかく、ジャズ的な文脈から見ると、ちょっと変わった手法で録音された『奇才トリスターノ』の前半(A面)だが、彼の思い描いたサウンドの輪郭が朧気ながらも理解出来るので興味深い。
音楽自体も、スリリングでとてもテンションの高い内容だが、難解ではないし、比較的聴きやすい内容となっている。
ただごとではない切迫感が続く『奇才トリスターノ』のA面。
これと、晩年のソロピアノ集『ニュー・トリスターノ』を聴けば、トリスターノという音楽家が求めていた音楽像が浮き彫りになると思う。
語弊はあるが、一言で言ってしまえば、“クールでおっかねぇ~世界”。
クール派の始祖とはいえ、彼の音楽の肌触りは表面的な音のクールネスとは裏腹に、かなりおどろおどろしい情念が背後に感じられる。
マイルス・デイヴィスは電気楽器を導入し、大編成でグチャグチャとおどろおどろしい世界を描き出したが、トリスターノの場合はピアノ一台、もしくはピアノとテープ操作だけで、同じレベルのおどろおどろしい世界を作り上げてしまっているのだ。
ごったに的なおどろおどろしさと、整然としたおどろおろどしさ。
エレクトリック時代のマイルスと、トリスターノが描こうとした音世界は別モノなのだろうけれども、私には“高密度なサウンドの凝縮感とテンション”は同質なものに感じる。
『鬼才』のB面
ちなみに、『鬼才トリスターノ』のA面のことばかり触れてしまったので、アルバム後半についても軽く触れてみようと思う。
レコードでいうとB面にあたる後半は、リー・コニッツを交えたライブレコーディングだ。
ピンと張りつめた緊張感は、当時のクール派の演奏そのものだが、いかんせん前半が張りつめすぎていたためか、後半のライブは、いくぶんリラックスして聴こえる。
《ジーズ・フリッシュ・シングズ》、《ユー・ゴー・トゥ・マイ・ヘッド》、《オール・ザ・シングズ・ユー・アー》、においての、コニッツのプレイは素晴らしい。
冷んやりと、冴え渡ったアドリヴを楽しめる。
『鬼才トリスターノ』というアルバムは、個人的には、A面はトリスターノ、B面はコニッツを楽しむためのアルバムだと思っている。
記:2003/07/21
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