朝のマリンバ/鈴木さえ子

      2021/02/11

私がスティーヴ・ライヒの《ドラミング》の音の中にスッと没入することが出来たのは、おそらく鈴木さえ子の《朝のマリンバ》を聴いていたからだと思う。

この曲は鈴木さえ子のデビューアルバム『毎日がクリスマスだったら』のラストに収録されているナンバーだが、暖かな「打音たち」が織り成すゆらぎがノスタルジックさを醸し出し、滅茶苦茶心地良いナンバーだった。

プラス、ちょっと気だるいムードもアルバムのラストを締めくくるにふさわしい魅力的なナンバーでもあった。

この打音のゆらぎの心地よさがきっと頭の隅っこに残っていたんだろうね。

だから、最初にライヒのドラミングを聴いたときは、「なんだ、鈴木さえ子じゃん?!」って思ったものだけれども、順番はもちろん逆で、ライヒを聞けば、さえ子を聴きたくなり、さえ子のマリンバを聴けば、ライヒのドラミングを聴きたくなるということをかれこれ30年以上繰り返しているアホな私なのでありますが、このたび、もう少しマリンバの打音をリアルに味わってみたいということで、紙ジャケット盤のCDを買いなおしてしまいました。

最初は友達が買ったレコードからカセットテープにダビングしてもらい、その後レコードを買い、さらにCDが出たタイミングでCDを買い、そして今度は鈴木さえ子のインタビューと曲目解説が載っているからということで今度は紙ジャケット盤を買ってしまったという私。

あとは、鈴木さえ子のベストも持っていて、その中には『毎日がクリスマスだったら』のナンバーもいくつか入っているので、家の中は同じ音源がダブりまくり。

いったいどれだけ好きやねん?!って感じですが。

今回買い直した紙ジャケ版には、鈴木さえ子のインタビュー、ならびに彼女自身による曲目解説が掲載されていたのですが、その中では、意外なことに《朝のマリンバ》は、「このアルバムの中で、この曲が一番私のダーク・サイドが出ていますね」と語っているんですね。

なんでも、イタリアのホラー映画の巨匠、『サスペリア』などが代表作のダリオ・アルジェントが好きなのだそうで、彼の作風は「耽美派ホラー」というらしいんだけど、そういうホラー映画っぽい音楽をイメージして作ったのが《朝のマリンバ》なのだそうです。

へぇ、と思いましたね。
個人的にはホラー映画のイメージは感じとれなかったので。
単に私の映画鑑賞量が少ないだけの話ではあるのですが。

それはそうと、昔はレコードでいえばA面にあたる曲群に魅了されていたのですが、何度も聴くにつれて次第にB面にあたる後半に魅了されていきました。
《バオバブ人》、《ジュラルミンの飛行船》、《アメリカのELECTRICITY CO.》、《フィラデルフィア》、《朝のマリンバ》。
全曲どれもが魅力的。
良い曲、凝った音、音楽好きの、少なくとも私の耳のツボを刺激しまくる要素が満載なのです。

もちろん、A面にあたる前半も素晴らしいわけですが、特に《蒸気が立つ町》なんかはね。

このアルバムはタイトルからもロマンティックで幻想的な空や星をイメージしてしまいがちな人もいるかもしれないけれども、それはまったくの逆で、滅茶苦茶工業的で地に足がついています。

工業的、というとちょっと違うか。

近代資本主義の発達の下、資本化と労働者階級に分けられるのだけれども、このアルバムの音風景は、労働者階級の人たち、つまり工場で働く人たちの風景が如実に表れていますね。

もちろん、《ガールスカウト》や《夏の豆博士》などは、どちらかというとキャンディ・キャンディを養女として迎え入れたアードレー家がミシガンのほとりに建てた別荘周辺の自然の風景のような描写もあるのですが(つまり大金持ちのリゾート風景)、どちらかというと、庶民が働いたり生活をしている風景が浮き出てくる要素が多いんですね。

そして、それはいずれも産業革命後の欧米の風景です。

私は、最初すごく20世紀初頭のアメリカ的だなと思ったんだけど、そうそう、『キャンディ・キャンディ』の時代くらいのアメリカね。
ところが、今回買いなおした紙ジャケ晩に封入されていたインタビューを読むと、イメージはイタリア映画なんだね。

『自転車泥棒』とか『にがい米』とか。

あっ、なるほど言われてみれば!とハタと手を打ってしまいましたよ。

これら作品を見ており、イタリア映画のテイストを愛好している人が『毎日が』を聴けば、なるほど、架空のイタリア映画の架空のサントラ盤に聴こえるかもしれないね。

特に《アメリカの電気会社》や《朝のマリンバ》にそれが顕著。

ああ、だから私はこれらの曲がはいったB面が好きなのかもしれないね。

きっと私が当初「古き良きアメリカ」をイメージしてしまったのは、《フィラデルフィア》というタイトルの曲や、歌詞に「アメリカの電気会社に勤めてみたい」という一節があったからかもしれません。

もちろん、イタリア的なサムシングが根底にあったとしても、おそらく当時の文化を引きずってアメリカに住むイタリア移民の文化や生活風景も音からは感じられるのだけど。

そんなこんなを思いながら聴いていると、もう私の頭の中は100年前のアメリカとヨーロッパを行き来するのです。
「時空を超える」とは、まさにこのことなんですな。

記:2018/05/23

関連記事

>>毎日がクリスマスだったら/鈴木さえ子
>>いま、再読したい『キャンディ・キャンディ』

 - 音楽