私のバイト歴
そういえば、色々バイトをしてきたような気がする
そういえば、高校、浪人、大学時代を通して、私は他の人よりアルバイト経験が多いのではないか?ということに気が付きました。
ですので、忘れないうちに、私が若い頃に経験したアルバイトについて書いてみようと思います。
学童保育(肯定開放当番)
これが人生最初のお金をいただいたお仕事でした。
高校生の時に週1のペースでやっていました。
放課後に鍵っ子や母子家庭の子どもたちを預かり、一緒に遊ぶ仕事です。
今では「学童保育」と呼ばれているやつですかね。
当時は「校庭開放当番」と呼ばれていましたが。
土曜日の放課後、高校から友人の家の近くの小学校に行き、子どもたちのお世話をする。というか一緒に遊ぶ。
不審者から小学生を守る警備の役割も兼ねていたのですが、不審な人物に会った記憶はありません。
子どもたちって、高学年になっても「抱っこ」してあげると喜ぶんですよ。
特に女の子。
小学2年生くらいの小さな女の子でも、もうお父さんもお母さんも抱っこをしてくれないと嘆いていて、そういう子どもがたくさんいることには驚きました。
その時に鍛えられたのか、今でも「お姫様抱っこ」は得意ですw
日雇い
映画『苦役列車』を観て、「おお!」と思いましたね。
まさに、この時代に、この仕事やってましたよ。
朝の7時頃、田端にある人材斡旋事務所のようなところに行きます。
その時の持参するものは、軍手とハンコ。
名簿に名前を書くと、「何番の車に乗って」と言われます。
言われるがまま、マイクロバス(あるいはバン)に乗り、行き先も分からないまま40分ほど車に揺られて芝浦などの港湾倉庫街へ。
毎日働く場所が変わる倉庫で、ひたすら長距離トラックのコンテナに積まれたダンボールを下ろし、運ぶ。
延々とこの作業を繰り返すわけです。
冷凍ズワイガニやタラバガニがはいったダンボールを扱うことが多かったですね。
油断していると、怖いオッサンから「こら!」とダンボールを投げつけられる……。
お昼の休憩時間には弁当が配給されますが、その弁当代の500円は支給される日当からあらかじめ引かれています。
どんな弁当なのかというと、タッパの中に、とりあえずご飯はたっぷり。
そのご飯の上に、フジッコの昆布と、天つゆのかかった天ぷらが一枚乗っているだけ。しかも、その天ぷらは、薄いサツマイモの天ぷらw
これを休憩所で『笑っていいとも!』を見ながらお茶と一緒に食べるわけですが、とりあえずはお腹いっぱいにはなれた。
映画に登場する弁当のほうが豪華だったぞー。
午後4時くらいに仕事は終了し、ふたたびバンやマイクロバスに乗車し、帰途につくわけです。
新橋で途中下車する人が多かったのですが、私の場合は東京駅近くで下車し、御茶ノ水に移動したら、その日に受け取った日当で、安いエフェクターや、中古CDを買っていました。
ファーストフード
マクドナルドでアルバイトをしていたこともあります。
ピーク時の忙しさは半端ではなく、この時に、案件をたくさん抱えた時の優先順位の付け方と、処理の仕方を身体で覚えたんじゃないかと思います。
休憩時間は事務所でまったりと。
その時に、けっこう色々な女子高や専門学校に通う女子と仲良くなることが出来ましたが、彼女たちを狙う大学生の兄ちゃんたちも多く、何度か一触即発状態になったことも。
「男の嫉妬は海より深い」という脳内格言が生まれたのも、この時です。
パンフレットのモデル
モデルといったって、カッコ良いファッションモデルとか、そういうのじゃありません。
専門学校のパンフレットの生徒役のようなモデルです。
友人か誰かの紹介で、社会人の英会話とキャビンアテンダント(当時はスチュワーデス)養成の専門学校のようなところのパンフレットに登場する、マヌケな顔して学校のシステムなんかを質問している生徒の役です。
掲載された写真はたった1枚のみでしたが、謝礼の2万円はオイシかったなw。
帰りは原宿に直行し、シェーキーズでピザを友達に奢って2人でたらふく食べ、残ったお金は渋谷のTOWER RECORDで輸入盤のレコードを何枚か買って消えてしまいました。
学習塾の講師
学生時代は、もう1人の大学生と2人で小さな塾の教室を1つ持たされ、運営を任されていました。
そこで個人裁量でカリキュラムや時間割を決め、近所の小学生や中学生を集めて、勉強を5教科を教えていました。
団地の多い下町エリアの塾で、しかも月謝が安いこともあり、どちらかというと勉強が出来ない生徒や、当時の「不良」、今でいう「ヤンキー」な生徒も来ていましたね。
私は、破たんの無い完璧な演奏をするジャズマンよりも、アクの強いジャズマンが好きです。また、欠点を味わいに転化させているジャズマンも好きです。
だからなのか、教師や親から見放されたような生徒のほうに、より愛着を感じてしまうようです。
だから、お節介と思われるほど、よくコミュニケーションを取りましたし、向こうが心を開いてくれたら、よく相談事もされました。
多いときは、狭い教室の中、一日に30人以上の生徒がくることもあるのですが、マクドナルドで鍛えた段取りと捌きを応用して比較的うまくこなせたんじゃないかと思います。
広告作成
大学の冬休み、春休みの間、出版社の広報宣伝部という部署で、自社広告を作るお手伝いもしたことがあります。
雑誌や書籍の空きスペースは、自社の出版物の広告で埋めるわけですが、その本を読む読者層が読みたくなるような既刊本を過去の出版物から選び、サムネール(ラフ)を鉛筆で描き、ファックスでデザイナーに清書を依頼し、それを下に版下屋さんに版下の作成を依頼し、作成した版下とポジやネガを揃えて印刷所に入稿する仕事です。
DTP時代の今となっては、写植も版下も死語で、かなりアナログチックな仕事でしたが、本が出来るまでの流れを体感することが出来る貴重な体験でした。
コンビニ
ファミマで働いていたこともあります。
昼勤、夜勤の両方を経験しました。
マクドナルドの忙しさ慣れた身体には、とても退屈な仕事でした。
じっとしている時間が苦痛でしたね。
ファーストフードは「忙しくてツラい」仕事だとすると、コンビニは「暇でツラい」仕事。同じ「ツラい」にも色々な種類があるということを学びました。
夜勤の間、誰もお客さんが来ない深夜の時間帯は、こっそり優先のチャンネルをモダンジャズに換えて聴いたりしていましたことは内緒です。
ジャズ喫茶
ご存知、四ツ谷のジャズ喫茶「いーぐる」でアルバイトをしていました。
週一か週二のペースでしたが。
詳細は、このサイトの至るところに書いていますが(たとえば⇒ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ/マイケル・マントラー)、とにかくここで「自分の狭い守備範囲以外のジャズ」を広くたくさん聴くことが出来たので、とても貴重な経験になったと思います。
個別指導塾の講師
最初に働いていた塾は、なかなか働き甲斐のある環境だったのですが、いかんせん経営者もスタッフも8割以上が某新興宗教団体の信者だったことが分かり、なんだか雲行きが怪しくなったためにシュルリと辞め、今度はそのような「色」のついていない学習塾に移り、中学生に英語と数学を教えていました。
以前にバイトをしていた塾とは生徒の質がかなり異なり、偏差値の高い進学校を受験する生徒が多かったため、事前に予習をしておかないと、特に数学なんかは、生徒に質問された問題が一瞬解けなかったりして冷や汗をかいたことが何度もありました。
入札業務
自治体のパンフレットや要覧を作成している出版社で、入札業務のお手伝いをしたこともあります。
都内や千葉、埼玉、神奈川の市町村役場を回り、書類を届けると同時に、窓口の人に会社の業務内容などをプレゼンする仕事です。
この仕事がネクタイを締めてした最初の仕事でしたね。
入札に携わる部署の社員の人数が少ないため、私自身が役場を回る計画を立て、書類を作成したり、必要となる証明書を役所や法務局などを回って取ってきたりと色々忙しい仕事でしたが、なんだか社会人になった気分で仕事をすることが出来ました。
ベース演奏
そこそこベースが弾けるようになったら、図々しくも自分を売り込んでみました。
きっと、当時読んだ矢沢永吉の『成り上がり』の影響かもしれません。
「横浜でブイブイいわしてるバンドなんっすけど……」と東京のライブハウスに売り込み、「東京でキメまくっているバンドなんっすけど……」と横浜のライブハウスに売り込み……というエピソードが面白かったので、真似をしてみようと思ったのでしょう。
先述した入札業務の仕事をしていた際、郊外の市町村を訪れるているうちにあることを発見したのです。
町おこしイベントや、「●●何周年記念祭」というようなイベントを催している自治体が多いということに。
これを知った私は、役場に張り出されているイベントの予定表をメモり、自分のバンドが出演できそうなイベントがあった場合は「音楽を演奏する場所を探しているアマチュア学生バンド」という純朴なキャラを設定し、「よろしければ出演させていただけないでしょうか? もちろん、僕たち学生は演奏することが出来れば満足なので、お金はいりませんから」と電話で出演交渉をしたものです。
ポイントは純朴なキャラを装うこと。
喋り方も訥々と話したほうが大人受けが良い(笑)。
そして、音楽が好きで一生懸命頑張っているんだけど、なかなか演奏できる場所がなくて困っている、だから謝礼とかのためじゃない、お金とかは全然いりませんからという雰囲気を醸し出すのですね。
すると、結構な確率で出演OKの返事がくるのですよ(笑)。
そして、イベントの日に演奏をする。20~30分ほどですけどね。
交通費が出るし、待合室ではお弁当も出される。
場所によっては、法外な金額の「寸志」をいただくこともありました。
楽屋では、ドサ周りをしているピン芸人さんたちと知り合うこともありました。
我々にとっては「お小遣い」のギャラも、彼らにとっては「生活費」なんだなと思った時、芸で食べていくことの厳しさと大変さを思い知りました。
時おり、ステージで我々の演奏を見ていた飲食店を経営するマスターやママから、「うちの店でベースを弾いてくれないか?」というようなお誘いもあったので、そういう時は二つ返事でOKし、ほいほいとベースを背負って店にかけつけたものです。
面白いことに、だいたいそういう時のギャラの相場は5000円でしたね。
帰り際に手渡される。
ただし、店の酒は飲み放題。
もちろん、飲みすぎると演奏に支障をきたすので控えてましたが。
送り迎えの車をよこしてくれるところもありました。
これでよく大学卒業できたな
思い出した順に、つらつらと書いてみましたが、まだ思い出すことも出てきそうなので、加筆する可能性十分アリです。
書きながら思ったのですが、俺ってずいぶん、色々な仕事してきたなぁ。
ほとんどが大学生時代の仕事ですが(就職してからはバイトしてない、というより出来ないですからね)、よくもまぁ、学問そっちのけで、バイトばかりしていたものだ。
学生時代は、欲しい本やCDや服やデート代がいくらあっても足りないくらいでしたから。もう大学の講義よりもバイト優先でしたね。
とはいえ、けっこう大学には通っていたんですが、部室でお茶のんで、講義に出ずにバイト直行とか、そんなことばかり繰り返していた。
それでよく留年せずに4年で卒業できたものだと、今さらながら自分の要領の良さに呆れています。
記:2017/05/13