カダフィのテーマ/高柳昌行

   

映画には、「R18指定」とか「R15指定」ってあるけれども、そういえば音楽にはそのような制限は無い。

私がたまに行く劇辛ラーメンの店の壁には、「レベル10以上の辛さは、過去にレベル9以上にトライした方のみ承ります」といったようなことが書かれているが、そういえば、音楽にはレベルいくつとかいったものを測る尺度は無い。

ま、当たり前なんだけどね。

音楽には何歳以上になると分かるとか分からないとか、何歳以下に聴かせるとヤバイといったものは基本的にはないし、舌のように耳の耐性を測る尺度っは存在しない。

でも、過去にYMOは『BGM』というレコードの帯に、老人や心臓の悪い方はボリュームを下げてお聞きください といったような注意書きを記したように、高柳昌行の『カダフィーのテーマ』にも、そのような注釈をつけたほうが良いんじゃないかと心配してしまう。

それぐらい強烈なのだ。人にもよるけれども。

これは、生半可な覚悟で臨むと、心臓や胃袋といった肉体的な面に影響を及ぼすだけではなく、精神面のほうにももしかしたら大きな引っ掻き傷を作っちゃうんじゃないかな、とも思うのだ。

逆に、マイナスの温度の冷凍庫に裸ではいり、細胞と免疫を驚かせてアトピーを治してしまうという低温療法があるように、この音源を、鬱病やノイローゼの人に聞かせれば、アッと驚き、心臓の鼓動がバクバクと高まり、血液の循環が以上に強くなり、体内のいたるところに鬱血していた血液を全身に循環させ、全身の体温がヒートアップし、全身を突き上げるような衝動に襲われ、やる気まんまんな人間に変えてしまうかもしれない。

それぐらい、受け手に何らかのカタチで襲い掛かってくるサウンドなのです。

もっとも、阿部薫とのデュオ『集団投射』のような凄まじさや激烈さとは音の肌触りは異なる。むしろ、アナログなテクノロジーを駆使した現代音楽のような音の触感。

メロディはなく、あるのはひたすらノイズのみ。

なにかを予感し、暗示させるような工業的なサウンドは、不思議と静かですらある。

しかし、ジワジワとこちらの神経に浸食してくることはたしか。

1990年。高柳昌行が死の半年前に臨んだライブを音源したものが本作だ。

場所は浜松の「シティ8」。

高柳は一人ステージに立ち、4台のギターを駆使して表現の極北に挑んだ。その模様がCD化されたのが本盤。

ある人は、肉体が揺さぶられ、いまだまともにこの音源と対峙できないという。

また、ある人はまるで子宮の中に還ったような絶対的な安息感を感じるといい、実際、私の女房も、とくにvariation I は、心が落ち着くとも言っている。

しかし、試みに聴いてみたら、ものの5分もたたないうちに、発狂しそうになってCDをストップさせたという人もいる。

私の場合は、読書しながらときどきこれをかける。

身体はリラックスしてくるが、精神は心地よく張りつめてくれるので、読書が面白いほどはかどる。

人によって、これほどまでに反応の違う音楽も珍しい。

あなたは、これを聴いたら、肉体がどのような反応をしますか?

記:2005/01/04

album data

THREE IMPROVISED VARIATION ON A THEME OF QADAHAFI/カダフィのテーマ (Jinya Disk)
- 高柳昌行

1.variation I
2.variation II
3.variation III

高柳昌行 (g)

1990/12/16 浜松シティ8

 - ジャズ