藤原さくらの歌声が、一瞬ノラ・ジョーンズに聴こえる瞬間がある

   

SoupSoup/藤原さくら

月9で注目・藤原さくら

月9ドラマの『ラブソング』で一躍脚光を浴びたシンガーソングライターの藤原さくら。

福山雅治との共演ということで、番組放送前からフジテレビが番宣を精力的に行った効果もあってか、かなり注目される存在となりました。

彼女は吃音症に悩む女性。
うまく話せない。
しかし、歌声はまるで天使の歌声。

劇中では上記のような設定なのですが、正直、最初は私は彼女の歌、というか「節回し」には、それほど魅力を感じなかったんですね。

下手ではないんだけれども、いや上手ではあるのだけれど、「なんだ、ヤマハちゃんじゃん」というのが第一印象でした。

没個性な「ヤマハちゃん」ではなかった

ヤマハちゃんというのは、「そこそこ上手で個性がない」というニュアンスで、私が勝手に使っている言葉です。

いや、べつにヤマハ様に悪意があるわけじゃないですよ

私自身も、ヤマハ音楽教室幼児科とジュニア科アンサンブルに通っていましたし、今でも愛用しているポータブルキーボードはヤマハのポータサウンドですし、十代の頃は、DXやRXといったシンセやリズムマシンで曲を作っていましたから、ヤマハさんにはかなりお世話になっている人間の一人です。

しかし、これは今までの経験上からの私の勝手な偏見なんですが、ヤマハはクオリティは高いが、滅茶苦茶突出した個性もない、というのが私が持っているイメージなんですね。

レーダーチャートでいうと、均等な六角形なり五角形を描いているイメージね。
優等生ですべてが平均以上、しかし、ハチャメチャな要素が皆無で、いささか面白味に欠けるという感じです。

過去にも、ヤマハ(に限らずですが)のヴォーカルスクールに通っているという女の子とセッションしたり、ライブを見に行ったりもしていますが、皆、一様に上手なんですよ。

マイクの効果的な使い方なども伝授されるみたいなので、大音量のバンドの場合でもバックのサウンドに埋没することなく、きちんと「声」が通っていることが多い。

でもね、皆、同じ歌い方に感じてしまうんです。

声の伸ばし方、音程のベンドの仕方。

なにか、そのようなマニュアルのようなものがあって、それに則った歌い方と同一のゴールを目指した指導法があるのではないかと思うほどに。

ヴォーカルほど個性が大事な「楽器」はないはずなのに、皆、上手だけれども、言い方悪いが没個性。

もちろん、ヤマハのヴォーカルスクールに限ってのことではなく、それ以外のポピュラーヴォーカルのスクールに通っている人もたくさんいましたが、「アベレージ以上・突出性なし」を総称して、私はヤマハさんには申し訳ないと重々思いつつも、内輪でも通りが良いので「ヤマハちゃん」という形容を使わせていただいているんですね。

もちろん、悪いのはヴォーカルスクールではないことも分かっています。
スクールはあくまで、「基礎」と「技術」を教える場所。
そこで習った基礎を元に、個性を育んでいくのはアーティストの責務でしょう。

つまりは教えられた基礎の上に、自分色を一段高く築き上げられない歌い手本人の責任に帰結することは言うまでもありません。

結局のところ、ある程度の技量を習得してしまえば、そこから先のオリジナリティを模索し探求しようというアーティスティックな欲求が希薄な歌い手が多いだけなのかもしれません。

YUIが流行ればYUI風の弾き語り姉ちゃん、MIWAが流行ればMIWA風の歌い方の女の子が、その時々の流行という雨の後にニョキニョキと生えてくるタケノコのように跋扈するトーキョーシティは、イミテーター、エピゴーネンの宝庫のでもあるのですが、最初、私が藤原さくらの歌を聴いた時には、その手の類のシンガーの一人だと思ったものです。

しかし、違ったんですね。
悪いのは曲だった!

ドラマの歌だけで満足して欲しくない

もちろん、ドラマは多くの層のターゲットに訴求しなければなりません。

老若男女に届く「わかりやすい」歌のほうが良いわけです。

それがかえって、藤原さくらが元来持っている本質的な個性を半減させているような気がしないでもない。
それを感じさせるのがドラマ中で歌われている歌たちなのです。

もちろん、ライブの場面で歌っていたラブ・サイケデリコの《ユア・ソング》や、荒井由実の《やさしさに包まれたなら》なんかは、良かったと思います。

特に、荒井由実の楽曲と藤原さくらの絶妙なマッチングは、荒井由実のカバー集を出したら、絶対おじさん層(いや、もやは、お爺さん層?)が狂喜乱舞するんじゃないかとすら思いましたですよ。

しかしですね、番組挿入歌の《Soup》や、ドラマ後半の鍵を握る《好きよ》にしても、ぜーんぶ日本語の歌なんですよ。

彼女の声質や節回しに日本語は似合わない。

似合わないというのは言い過ぎかもしれないけれども、少なくとも、日本語よりも英語で歌われた歌のほうが、日本語で歌った歌よりも数倍素晴らしいと私は感じています。

sakura

《Walking on the clouds》でもいいし、《Cigarette butts》でもいいし、あるいは《Oh Boy!》の英語で歌われている前半の箇所を聴いてごらん。

低めの声で放たれる彼女のクリーミーな英語のなんと心地よいことよ。

あえて、音程をベンド(曲げる)させる匙加減も、これやり過ぎるとアザとくなり過ぎてイヤミになっちゃんだけれども(アマチュアシンガーが犯しがちですよね)、藤原さくらが英語で歌っている限りは、ふわっと自然で、まったくイヤミなしに聴こえる。

しかし、それが日本語になった途端、なんだかちょっと媚びているような、そこらへんに転がっている「ヤマハちゃん風」な歌唱に感じてしまうんですよね。

それは高音域を必要とされるキーの問題もあるのかもしれませんが、とにかく、藤原さくらには低めの音域のほうが似合う。
低めの音域の声のほうが、スモーキーなニュアンスが出て、あのノラ・ジョーンズを感じる瞬間すらあるのです。

特に《Walking on the clouds》は、ファーストアルバム『カム・アウェイ・ウィズ・ミー』に通じるリラクゼーションのオーラが。

Come Away With Meカム・アウェイ・ウィズ・ミー

そして、《Oh Boy!》は、カントリーバンド「リトルウイリーズ」で奔放に歌うノラの姿を彷彿させる瞬間があります。

Little Williesリトルウイリーズ

でも、ただそれだけだと「ノラのコピー」で終わってしまうんですが、ニュアンスは似ていても、ヴォーカルの「突き抜け感」がまったくノラとは違うんですね。

ノラの歌声は、くぐもっていながらも、突き抜けるような清涼さが必ずある。
逆に藤原さくらの声は、低音になればなるほど、突き抜け切らない「くぐもり」のニュアンスがあり、そこがノラとは大きな違いなのでしょう。

もちろん、この「くぐもり」は悪いことではなく、ブルースやジャズが好きな人の多くが好むであろう「ダークなニュアンス」をたたえているので、そこがジャズ好きにはタマらんわけです。

しかし、逆に多くの視聴者の共感を呼ばなければならない月9ドラマにおいては、この「くぐもった感じ」は、マニアック過ぎてネガティブな印象を受ける人だっているのでしょう。

だから、高音、日本語、明るく元気な歌唱が必要とされる、幼稚園や小学生っぽいあどけなさがブレンドされた《好きよ》的な歌が前面に押し出されているのかもしれませんね。

だからこそ、なんだけれども、ドラマで歌われている歌だけで藤原さくらのことを判断しないで欲しいんだよね。

もちろん、藤原さくらの良いところの一面を切り取ってはいるんですが、彼女が持つ最も良い部分がフィーチャーされているとは言い難い。

出来れば、メジャーデビューを果たした時のミニアルバム『à la carte』も聴いて欲しいなって思います。
月9で感じた彼女のイメージがガラリと塗り替わるかもしれないよ。

記:2016/05/26

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