それを言っちゃおしまいよ、なセリフ

   

kuchimoto

会話や議論において、それを言っちゃおしまいなセリフがある。

「世の中には色々な人がいます」(当たり前だ)

「世の中には色々な考え方の人がいます」(当然だ)

「だから、いろいろな考え方があったっていいじゃないですか」(誰が「ダメ」と言った?)

といった類のセリフだ。

こういうことを言われてシラケた経験は誰しも、一度ならずあることだろう。

近年、大学のゼミなどでは、これらのフレーズを馬鹿の一つ覚えのように乱発する学生が増えたために、議論がそれ以上先に進まないという事態がよく起きているのだそうだ。

80年代以降のポストモダン特有の、価値の相対化の典型的な悪例だと思う。

もちろん、世の中には色々な人がいるし、世の中にはいろいろな考え方の人がいる。

そんなの当たり前だ。

「何を今さら」としか言いようのないセリフだ。

こんなことを言って褒められるのは、小学校の学級会や、読書感想文の締めの言葉ぐらいなものだろう。

「世の中には、いろいろな考えの人がいっぱいいます。だから色々あっていいじゃないですか」

これは、結論だ。

一見、正論めいているし、キメのフレーズとしても決まらないこともない。

しかし、この先の議論や会話の続行を許さない、強制終了としての機能すらある、一種暴力的な言葉でもある。

たしかに、世の中には色々な考えがある。

以前、このページの 「コミュニケーション考」にも書いたことだが、今日は昔に比べると、はるかに多くの価値観があるし、様々な選択肢がある。

Aという事例に対しても、a、b、c、d、e、f、gと、様々な考えや感想を抱く人が出てくることは誰もが周知なハズ。

ところが、「いろいろな考え方があってもいいでしょ?」な人の考えの前提には、困ったことに、すべての価値観を等価だと勘違いしていることがある。

a=b=c=d=e=f=g

といった具合にだ。

しかし、残念なことに、すべての価値は等価ではない。

価値にも優劣がある(こともある)。

a>b=c>d≧e≒f≠g

だったり、

b≧c≧a=c=g≒d>f

だったりすることだってあるじゃないか。

いやむしろ、

a=b=c=d=e=f=g

なことの方が珍しいぐらいだということが、ハナから分かっていないのだと思う。

どちらの価値観、価値判断が優れているのか、メリットがあるのかを検証しようとすることは、自分の考えを深めるヒントにもなるし、脳味噌の運動にもなる。

自分の考えの至らないところに気付く良いキッカケになることだってある。いずれにしろ、実りのあることだし、無駄なことだとは思わない。

たとえば、援助交際。

あまりにも卑俗すぎる例で申し訳ないが、当然のことながら、援助交際を肯定している人もいれば、否定している人もいる。

「いろいろな考えがあるから、それぞれ勝手に生きようよ」と言うことは簡単だ。

しかし、「肯定する意見の人の言い分も分からないこともないが、自分は反対だ。

なぜなら、これこれしかじかの理由で、反対論のほうが肯定論よりも優れているからだ」といった意見の表明も大事なのではないか。

勘違いして欲しくないのだが、これは“意見のごり押し”ではない。

当然、摩擦や衝突が起きることが予想されるし、反論も予想されるだろう。

もちろん、相手の反論にも耳を傾ける。

もしかしたら、自分の考えが幼稚だと気が付くかもしれないし、その逆もあり得る。

べつにゲームや試合じゃないから、勝ち負けを競うわけではない。議論が平行線のままだって良いのだ。

お互いの考えが相容れないとしても、少なくとも、相手は自分と違う考えの持ち主だということが分かるし、相手の考えの骨子も理解することも出来る。

そう、互いが自分の考えを相対化出来るというメリットがあるのだ。

両者に価値観の葛藤が顕在化することによって、はじめてコミュニケーションが生まれるわけで。

本当の意味で友達と呼べる人間や、気の置けない仲となるためには、まず相手を理解することから始まると思う。

衝突すること無しに、仲良しになることだってあるだろうが、仲の良い人ほど喧嘩をするというぐらいだから、時には考えの違いで衝突することだってあるかもしれない。

しかし、べつに殺し合いや戦争なわけじゃないんだし、相互の価値観や考えを衝突の中で相対化させ、あるいは考えをより一層深化させるキッカケとなれば、それはそれで非常に良いことなのではないか?そんなこと程度で壊れてしまう友情など、最初から大したものではないのだ。

誤解しないで欲しいのは、なにも好きこのんで「衝突しろ、相手に食ってかかれ」と言っているわけではない。衝突することもあるかもしれないが、そのことを恐れるな、と言っているのだ。

衝突や葛藤が無ければ無いで、それに越したことはない。

しかし、最初から摩擦や衝突を恐れ、端から「いろいろあってもいいじゃないですか」というモノワカリ良さげな必殺文句で、対話を封殺してしまおうという「逃げ」の姿勢はズルイし、卑怯だと私は思っているだけで。

理解しようとしたり、理解してもらおうとするために、コミュニケーションが生じわけではないですか。

「いろいろあってもいいじゃないですか」という人のココロはだいたいこのような感じなんだろう。

あなたの意見なんて聞きたくない。

(或いは)あなたの考えには関心がない。

(或いは)あなたの意見を認めたくもない。

でも、ハナから否定するのも大人げない。

また、否定するだけの論拠も自信もない。

しかし、マヌケなことや、ピントはずれなことを言って馬脚を表すのもシャクだ。

だから、自分は、いろいろな意見を認めるだけの度量があるんだってことを示しておこう。

ゆえに、総括。「いろいろあってもいいじゃないですか」。

この言葉で、相手の言論封殺。

まさか「いろいろな意見があることが悪い」なんて言う人はいるまい。

卑怯ですね、ハッキリ言って。

a≠bの差異を検証するため、またaを知らないbの考えを持った人に説明をし、理解をしてもらうために、通常会話やディスカッションが進められるわけだが、例の必殺フレーズが持ち出されることによって、最初から対話が拒否されてしまうわけだ。

実りのある会話もなにもあったものではない。

たしかに世の中には多様な価値観がある。多様な考え方がある。多様なことは悪いことではない。

しかし、我々は日常的に、その多様な選択肢の中から、いずれかひとつの考えやスタイルを選択しているわけだ。

それを選択している以上、その選択が自分にとって他の選択よりも優れていると判断したから選択したわけであって。

よって、自分とは異なる選択をした人との間には葛藤が起きることもあるが、それを克服するべくコミュニケーションというものが生じるわけだ。

これこそが「自由」で豊かな社会を動かす根本原理ではないのか?

ところが、自分の選択した生き方や考え方に自信を持てないのだろうか、他者との葛藤も煩わしいので、価値観と考え方の違いの優劣を評価することをあえて避け、「私は私。あなたは、あなた」でお互い勝手に生きましょうという考えの人もいる。

摩擦や軋轢は回避出来る上に、耳に心地の良い言葉でもある。モノワカリのよさそうな態度にも見える。

しかし、このモノワカリの良さそうな態度のウラには、ようするに、周囲との摩擦を回避出来ればそれに越したことがないという「逃げ」が入っているのではないのだろうか?

そして、このフレーズが好きな人の特徴として、「いろいろな意見があっていいじゃないか」と言っているわりには、相手の意見を認めたがらない傾向がある。

つまり、「いろいろな意見があってもいいけど、あなたの意見はよくない」ということになる。

要するに矛盾しているのだ。

そして、挙げ句の果てには、話題そのものの議論ではなく、人格攻撃や、話題とは関係の無い性格批判に走る。

甘えが強く、それと裏返しの嫉妬深い人間の多い日本人社会環境の中で生きてきたゆえか、「意見には反対だが、人間は認める」ということが、なかなか出来ないのだろう。

「意見憎けりゃ、人まで憎し」となってしまうのが、この手の人間の特徴でもある。

昔からちょくちょくこのページにも書いていることだが、私はこのような手合いや、一般論的総括をしてしまいたがるような人間とは、あまりお近づきにはなりたくない。

こと、仕事においても、飲みにおいても、足を引っ張られるか、独善的な会話で不愉快な気分にさせられてしまうのがオチだからだ。

実りのある“衝突”なら大歓迎だが、疲労だけがつのる無意味なやりとりは本当にゴメン被りたいと思っている。

お子チャマが、「人それぞれだから、いいんじゃない?」という意見を吐くのならまだ可愛げがあろうものだが、大のオトナがこのような言葉を吐いた時点で、ああ、この人も底が知れてるな、と思う。

と、ここまで読んで、もし、ムカッときた方が、もしいらっしゃれば、一言。 「世の中には、いろいろな人がいて、いろいろな考えがあるんだから、こういう考えもあったっていいでしょ?」

記:2002/01/25

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