「好きなことを仕事にするな」とは言わないけれど、よく考えて!
書くのが好きで続いたわけではない
この「カフェモンマルトル」に文字をつらつら書き続けて、なんと18年も経ってしまいました。
書くことが「好き」だから続いたのだとは思っていません。
もちろん「嫌い」ではないですが。
とりあえず、書き続けることが「苦」にならなかったから、なんとなく続いてしまっている今日この頃というのが本当のところです。
300記事くらい書いたところで、雑誌やフリーペーパーなどの執筆の依頼がきて、500記事くらい書いた所で、他サイトの連載などの話がきて。
で、その後は、いちいち記事数は数えていなかったから覚えていないけれど、だいたい1000~1500記事ぐらいかな?
それくらい溜まっていた時にラジオ番組を持たせてもらったり(現在、番組は終了していますが)と、自分ではかなりの僥倖に恵まれていたと思っています。
そう「僥倖」なんです。
だから、「ブログって、1000記事くらい書き続けていれば、何か変化が起きるよ~」なんてことは、口が避けても言えません。
偉そうな言い方になってしまい申し訳ないのですが、それは「私」だったから。
つまり、メインの題材がジャズというマイナーな分野だったし、あの四谷の有名なジャズ喫茶のマスターの元で修行していたから(というかバイトをしていたから)という経歴が思わぬ注目を集めたこともありますし、また、たまたま出版社に勤めていたので、編集関係の方々と知己があったということもあります。
これら様々な要因が重なって、「たまたま」そうなっただけで、私の場合はめちゃくちゃ特殊なケースだと思っています。
特殊ケースは一般化できない
昔は、ブログを書くなどの情報発信を継続していれば、規模の大小はあるにせよ、何かが起きるということを実感していたし、そのような内容のことを人に話したり、記事に書いたような気もするけれども、それは、たまたま自分に起こった特殊ケースを一般化して、人様に押し付けようという傲慢な考えだったということに気がつき、今では反省しております。
まだ若く、勢いが余っていたこともあり、人様にとっては余計なお世話的な善意が働き、それを押し売りしようとしていたということに気がついた時は、本当に恥ずかしい気分になったものです。
「好きなこと」と「苦にならないこと」
ま、私のことはどうでも良いので、そして長い余談はこれぐらいにして、本題に入りますと、「仕事選び」についてです。
よく「好きなことを仕事にしろ!」って言われているけれども、「果たして本当にそうなのだろうか?」と私は思います。
「好きなこと」よりも、私の場合は「苦にならないこと」を仕事にするぐらいがちょうど良いと思う。
「苦にならないこと」であれば、イヤになった時でも、なんとか辞めずに続けることができます。
このブログがそうだったように。
誤解をされている人もいるようですが、私は文字を書くことがそれほど好きではありません。
どちらかといえば、話すことのほうが好きです。
ですので、昨年出版した本の6割以上は音声入力です(もちろん入力した後のテキストには、かなり手を加えていますが)。
>>iPhoneの音声入力、使えます!~「こっそり本」執筆ウラ話
だから、「キーボードでテキストを打つのが好きで好きでたまらないからブログを書いてます」というブロガーの方々の発言を聞く(読む)たびにスゴイなと思っているほどです。
そう、私は、「苦にならなかったから」からブログが続いた。
「苦にならない」と「好き」とは微妙に違います。
「好き」じゃないものには、それほど深い「こだわり」は生まれません。
しかし、「好き」なものに対しては、どうしても「こだわり」が生まれてしまうものです。
「こだわり」が生まれると、対象を偏愛するあまり、客観的に接することが出来なくなることもあります。
たとえば、このブログの現在の記事数を数えてみたら、3500ほどなのですが、この「カフェモンマルトル」以外にも私はいくつかのブログもたまにですが更新していて、文字量が少なく、内容もテキトーなものが多いのですが、そちらの方の記事の数も合わせれば、既に1万近くの記事を書いているんですね。
好きだったら「コダワリ」が生まれちゃうから、こんな「粗製乱造」はしていないですよ。
もちろん、長く続けていれば、それなりに多少のコダワリみたいなものは無いわけではないけれども、今よりもコダワリの温度が高かったら、イヤなことがあったり、思い通りにならない場面に遭遇したら、「えーい、もうヤメ、ヤメ、やめだ~!」となり、とっくの昔にブログなんかやめていたことでしょう。
ただ、私の場合は、千記事書いても苦にならなかった。
二千記事書いても別に苦行だとは思わなかった。
これが「苦にならないこと」です。
結果的に長々と続きます。
長々と続けば、少しずつノウハウが身につきますし、やる気の「あるorなし」に関わらず、自然とスキルもついてくるものです。
すぐに辞める若者たち
最近は、すぐに仕事を辞めてしまう若者が多いと聞きます。
べつにダラしがないとは思わないし、「石の上にも三年」と説教するつもりもないです。
逆に、「イヤならとっとと辞めちまえ」とも安易に言うつもりもありません。
その人にしかわからない、その人だけの様々な事情があるわけですから、辞めた方が良い場合もあれば、辞めない方が10年後には「あの時辞めないでよかった」というようなポジションや収入を手に入れている可能性だってあるからです。
もちろん、その逆の可能性だってありますが……。
なので、簡単な二分方で、「やめろ」「やめるな」と、会ったこともない不特定多数の人に向けてメッセージは発することは出来ませんし、私はそういうの、無責任だと思ってしまうタイプの人間です。
しかし、一言だけ仕事選びに難儀している人にアドバイスをするとしたら、「苦にならない仕事が一番いいよ」と言いたいですね。
つまるところ、「好き嫌いで選ばない方が良いよ」ということです。
学校の先生の決まり文句
そもそも嫌いな職業を選ぶ人っていないと思うんですよ。
嫌いな仕事や業種って、最初から職選びの選択肢には入れてないでしょ?
逆に警戒すべきは「好きなこと」を職業にすることです。
うちの息子に聞いてみたら、小学校の時も、中学校の時も、学校の先生からは「好きなことを仕事にしよう」と言われ続けてきたそうです。
しかし、安易に一見至極まっとうな「正論」を無責任に生徒相手に垂れ流しても良いのですかね?とも思うのです。
そもそも「好きなことを仕事にしよう」と言っている先生、あなた本人が「今の仕事好きですか?」ってことですよね。
好きで続けているのなら良いのですが、例えば日々ヒステリックに生徒を怒鳴り散らしている先生がいたとしたら、その先生は本当に生徒を怒鳴るという仕事を好きでやっているものなのでしょうか(好きなんでしょう、きっと)。
もちろん、仕事の中で、「好き」という気持ちがプラスに働けば、それは言うことはなしでしょう。
しかし、2年、3年と仕事を続けていれば、自分の努力や能力、裁量ではどうにもならない問題が出てくるものです。
その時に、「好き」という気持ちを拠り所に仕事をしていた人はどうなるでしょう?
好きなことに従事しているのに、思い通りにならない。
「裏切られた!」「やってらんねぇ!」と思うのではないでしょうか。
それが好きなものであればあるほど。
「好き」なことには「コダワリ」が生まれる
先述したとおり、好きという気持ちはコダワリでもあります。
好きだからこそ、好きな対象にコダワるのです。
バンドが解散するのは、メンバー各々が本当に好きだからこそ、つまり今自分がやっている音楽にコダワリがあるからこそ、意見が衝突し、最悪の場合は「音楽性の違い」で解散したりするのでしょう。
コダワリが肯定されず、コダワリが報われない世界の中に、人は長く居続けることは難しいのです。
例えば、私はジャズが好きなので、昔はジャズ喫茶のマスターになりたいと思ったこともありましたが、やめました。
なぜか?
好きだからこそ、コダワリがある。
きっと、営業のことなど考えず、コダワリのアルバムばかりかけまくって、お客さんの足が遠ざかり、早晩閉店という憂き目を見るに違いありません。
また、「好きな仕事」というのは、仕事内容の一面しか見ていない気がするのです。
「好き」の裏には「10」の「嫌い」があると思った方が良いでしょう。
たとえば、またジャズ喫茶ですが、確かに私はジャズが好きだし、ジャズのアルバムをかけるのが好きですし、おそらく1日中ジャズが大音量で流れる空間にいても苦痛には感じないことでしょう。
しかし、ジャズ喫茶の仕事ってそれだけではありません。
コーヒーなどの飲料や、軽食などを作ります。
それ、私は、面倒くさくてイヤです。
コーヒーは淹れるより淹れてもらった方が好きだし、食事に関しても同様です。
日々、店の掃除やトイレ掃除をしなければなりません。
私は掃除は嫌いです。
従業員にやらせれば良いのかもしれませんが、コダワリの店を持ってしまった場合、従業員が手抜きをした時点でブチ切れてしまいそうです。
すると、従業員は離れていきます。
そして、結局自分がやらなければならなくなります。
しかし、私は掃除は嫌いなので、出来ればしたくありません。
便所の汚い店に通いたがるお客っていないですよね?
それに、最近のジャズ喫茶は、喫茶店といえども、夜はお酒などのアルコールを出すのが一般的です。
そうすると、中には泥酔する客も出てくるだろうし、騒ぐ客もいるだろうし、ゲロを吐く客も出てくることでしょう。
そういう客をたしなめたり、ゲロ処理をするのはまっぴらごめんです。
さらに、面倒くさい客の相手もしなければなりません。
最近はずいぶんとジャズファンの事情も変わってきて、面倒な性格な人は減ってきているようにも感じますが、それでも「好み」が合わないお客の話を聴くのは疲れそうです。
買い出し、看板の出し入れ、店内&店外の照明の調整、メニューの原価計算や、日々の売り上げの集計、店内のレイアウトの改善、従業員への指示、他店のリサーチ……、などなど、全てが面倒くさい。
いや、面倒なのは仕事なので、すればいいだけのことなのですが、そもそも、これら諸々のことが「嫌い」なのです。
つまり、ジャズのレコードをかけたり、それを聴くことだけは「好き」なんですが、その「好きなこと」の裏には、何倍もの「嫌いなこと」が横たわっているのですね。
(ジャズ喫茶を経営されている全国のマスターのみなさま、ごめんなさい。)
やっぱり、私は店を「やる」より、店に「行く」客であり続けたいのです。
自分がなりたかった職業で考えてみる
それと、もう一つ例をあげるとすると、中学生の頃の私はプラモデルが好きだったということもあり(今でも好きだけど)、将来は「模型屋のオヤジになりたい」という願望がありました。
しかし、プラモ屋のオヤジになると、日々メーカー(問屋)から送られてくる商品をダンボールから出して店内に陳列しなければならない。
重いものを持つのはイヤだし、何より整理整頓の苦手な私が、魅力的な品揃えに見えるように商品を並べられるわけがない。
というか、並べること自体が苦痛です。
さらに、戦車とガンプラだったらまだ良いのですが、それ以外の戦艦やバイクや車やフィギュアなど、私の守備範囲外の商品知識も日々アップデートし続けなければならない。
これは苦痛です。
なので、「戦車、ガンダム、ボトムズ、マクロスのプラモが好き」程度のコダワリで模型屋のオジさんになろうだなんて発想は全国の模型屋さんの店主さんたちに失礼だと思い直し、学生になった頃には、なりたい職業候補の一つから消えていました。
一面しか見ていない
このように「好き」というのは、実は、その仕事の一面しか見ていないことが多く、その一面だけで判断をして職業を決めてしまうことって非常に安易なのではないか、とも思うわけです。
表面からはなかなか見えづらく、実際にその職業に足を踏み入れて初めて分かる「嫌い」な部分もたくさんあるはずなんですよ、就職前に「好き」だと思っていたはずの仕事には。
だからこそ、最初は「好き」だったがために、「嫌い」な部分が見えてきた時の落胆も大きいと思うのです。
恋愛と一緒かもしれませんね。
「好き度」が高かった時ほど「幻滅度」も大きい。
だからこそ、あまり積極的な発想ではないのですが、「好き」より「苦痛でない仕事」を選んだ方が続くし、続けば、まあ会社にもよりますが、給料も上がるだろうし、使えるお金が増えれば、それこそ趣味で「好きな」ことに好きなだけ遣えば良いのではないでしょうか。
好きなことは趣味として接するのが一番だと私は思っています。
私はベースを弾きますが、好きな曲を弾いている時が好きなだけです。
嫌いな曲や苦手な曲のベースは弾きたくありません。
このようなワガママが許されるのは「仕事」ではなく「趣味」だからこそなのです。
あのイチローだって、「プロになってから野球を楽しいと思ったことは一度もない」旨の発言をされているではないですか。
好きな事でも「飯の種」となった以上は、「好き」という感情以外のサムシングを持って仕事に当たらなければならないのです。
工夫、改善、努力、勉強、情報収集……。
業種によって様々でしょうが、努力の内容が「好きなこと」だと、どうしても偏りが生まれてしまうのです。
しかし、「苦ではないこと」であれば、「どうせ全部やらなければならない事だから、とっとと片づけてしまおう」と、客観的な気持ちでやるべき仕事に取り組めるので、結果的に少なくとも大きなミスを犯すリスクは避けられるのです。
たまにクリティカルヒット的に大当たりをして評価が高まる事だってあるでしょう。
「苦にならないこと」には、このような「客観的になれる」というメリットがあるのです。
CDショップの店員にもなれない
私が客観的になれないもの、それは音楽でしょうね。
コダワリが強すぎるから。
例えばですが、私が「タワーレコード」のような音楽ショップの店員になり、ジャズコーナーを担当したとしますよね?
たぶん自分が好きなジャズばかりを目立つところに置いて、今流行っているアルバムや、今、売るべき売れ筋商品の販売には力が入らないに違いありません。
もしかしたら、レジにケニーGのCDを買おうと持ってきたお客さんには、ソプラノサックスだったら、もっと他に良い人がいますよ、ウェイン・ショーターを聴きなさい!と説教を始めるかもしれません。
使えない社員ですよね、会社から見ると。
だから現場の責任者や上司から注意されます。
面白くありません。
自分のコダワリが否定されたようで。
で、けっ!辞めてやらぁ!になるでしょう。
好きだからこそ、コダワリがあったからこそ陷る現象ですよね?
しかし、コダワリが全くなかったら?
例えば、私が演歌コーナーの担当になったとしましょう。
演歌は「好き」な音楽ジャンルではありません。
しかし、嫌いでもない。
つまり「苦にならない」。
そうすると、客観的に仕事に接することができます。
知らない演歌歌手でも、売れている歌手のCDや、会社から「力を入れろ」と命じられた商品は、「はいそうですか」と仕事だと割り切って積極的に販促するでしょうし、「知らない」からこそ、熱心に演歌歌手のプロフィールや、過去のアルバムも研究するでしょう。
「仕事に必要な知識だから覚えておかないとね」と割り切って。
そうすると、べつに好きでやっているわけでもないのですが、「あいつは仕事を頑張っている」と評価されます。
何年も続ければ、イヤでも知識がついてくるので、「演歌のことはアイツに訊け」というポジションも確立されてきます。
これがプロなのではないでしょうか。
長々と自分がやりたかった職業の例を出して、あれこれ妄想してみましたが、ジャズ喫茶やCDショップ以外でも、このことは金融や飲食、IT、メディア、教育業界、そして芸能界も含めて、どの業種においても同様なのではないかと思います。
芸能人なんてつらいと思いますよ。
脚光や歓声を浴びるという「1」の素晴らしいことの裏には、「10」も「20」も、いやそれ以上のツラいことがあるはずです。
参考:まゆゆAKB総選挙3位 晴れやかな笑顔でスピーチをしていた理由は?
どうせ食っていくんだったら長く続くほうが良い
「苦にはならないこと」を仕事にし、客観的に淡々と続ける。
長く続けば、相応のポジションに立っている。
人は食っていかねばならないし、食うためには稼がなければなりません。
稼ぐためには、人様、あるいは世の中に何がしかの貢献をしなければならない。
貢献したことの対価ですからね、仕事の報酬は。
で、どうせ貢献するのであれば「好きなこと」が最高なのですが、今までいろいろ書いてきたように、ちょっとしたことで躓く、折れる、ヘコたれる、妄想と現実のギャップに苛まされる等々、無数の地雷が埋め込まれている地雷原に足を踏み入れることに近い選択なのだという自覚と覚悟は必要だと思います。
だったら、どうせ長く生きたいのならば、そのために長く稼ぎ続けるのであれば、「稼げるけれども嫌いな」仕事を選ぶ必要はないけれども、「苦にならない」仕事を選べば「つらい」「辞めたい」「行きたくない」などとは中々思わないだろうし、必要以上にストレスに苛まされることもないのではないでしょうか。
淡々と客観的に長く続けるほうがトクなのではないかと私は考えるのです。
「オトナの意見」だなぁと思われる方もいるでしょうが、まっ、私はオトナなので(笑)、そういうことです。
記:2015/05/12