セロニアス・ヒムセルフ/セロニアス・モンク
モンクの「表現」
モンクのピアノは独特だ。
流暢なピアノに馴染んだ耳にはかなり異質に感じるかもしれない。
だからといって彼のピアノが下手だなんてとんでもない!完璧なテクニックと表現力の持ち主だ。
流暢なピアノだけが上手いピアノではない。
表現したい内容と、その表現内容が一致すること、これは相当なことだ。
あなた、出来ますか?
私は無理だ。
だって、このサイトが良い例だが、感動した音楽や、文章に落とし込みたいイメージがあっても、その何分の一も文字に出来ていないのだから。
モンクのピアノを下手クソ扱いする人がまだいるので、ここではきっちりとフォローしておきたいところだ。
オスカー・ピーターソンばりの流暢なピアノだけを技巧が優れているとすることは、絵でいえば、写実的な絵画のみを技巧が優れていると認めるようなものだ。
言うまでもなく、アーティストによって表現の手法、表現内容、表現目的は異なる。
モンクはそのピアノの表現において、実のところ何を目指したのかは、私ごとき小人には分からない。
しかし、そんな私にも言えること。それは、モンクのピアノのスタイルには強固な構造とシステムがある。
そしてなおかつ、独りよがりなだけな世界に終わらず、聴衆に魅了してやまないサムシングがある。ここが相当にスゴイところだ。
「表現」の自覚
構造だけををさらに推し進め、より強力な形にすると、例えばセシル・テイラーのようなスタイルに行き着くのだろう。
私はセシル・テイラーも好きで良く聴くのだが、その私ですらも彼のピアノを楽しいとは思えない。
言うまでもなく、モンクのスタイルもテイラ-のスタイルも、何の考えもない自然体から生まれる表現方法ではない。
言い方は悪いが「奇を衒った変化球的」な表現と言えなくもない。
しかし、その「奇」を自らのスタイルまでに昇華させるためには、相当な訓練が必要ことは言うまでもなく、それにプラスして、強固な「哲学」が必要だ。
演奏という表現行為は寡黙な実験室での一人による研究ではない。
演奏という行為自体、暗黙に聴衆相手のコミュニケーションが前提にあるからだ。
当然、聴衆を眼前にしたパフォーマンスには、それ相応のプレッシャーが伴う。
さらに、その表現の内容が過激であればあるほど、表現者には自分の発する音に対する自覚と責任が要求される。
その場の思い付きだけの突飛な表現は、いずれ聴衆に愛想をつかされ、自然に淘汰されてゆくのがオチだ。
そんな中で、モンクやテイラ-の演奏は、ついに聴衆に屈することなく、おのれのスタイルを全うさせている。
しかも、モンクのピアノはテイラ-のように必ずしも「難解」なものではなく、ユーモアがあり、時には笑いすらを誘う内容なのだ。
そんなモンクのピアノとは一体なんなのだろう?
考えるピアノ
モンクのピアノの特徴と言えば、まっ先に語られ、かつ引き合いに出されるのは「不協和音」だろうが、それに関しては別の機会に譲るとして、今回は「考えるピアノ」というキーワ-ドを掲げてみたい。
映像を見れば分かるが、彼のピアノの接し方は、まるで子供が始めて触るオモチャと慎重に戯れているかのようだ。
例えばフロントの管楽器がソロを取っている時のバッキングに廻ったときの彼は、ちょっと鍵盤を押さえては手を休めたり、両手をさすったり、汗でひっくりかえった指輪を元の位置に戻したりと、見ようによっては、「この人、真剣に演奏に取り組んでいるの?」と思えなくもない弾き方をしている。
一体その時のモンクの頭の中にはどのような思考が廻っているのかは想像する術もないが、真剣に音楽に取り組んでいることには間違いない。
彼は考えているのだ。
流れゆく音楽の中に、慎重に、しかも絶妙なタイミングで音を配置してゆく。
建築家、あるいはインテリアコーディネーターを彷彿させる「音の空間」のスペシャリスト、タイミングの魔術師だ。
考えるピアノ。
タイミングのピアノ。
彼のピアノ表現を浮き彫りにするアルバムがある。
『セロニアス・ヒムセルフ』。
彼の「考えるピアノ」の極致といえよう。
このアルバムのレコーディング時には、すでにモンクの表現は、独自のシステムが出来上がっていた筈だ。
よって自らの体系にのっとってピアノを弾けばそれですむようなものの、彼はさらにそのスタイルを発展・深化させようと、一音を発するまでのギリギリ、これ以上待てば音楽自体が壊れてしまうのではないかと思われるタイミングまで待ち、音の組み合わせ、配列に吟味に吟味を重ね、注意深く一音一音を発している。
『セロニアス・ヒムセルフ』を聴くこと、それはすなわち彼の思考過程に立ち会うことに他ならないのだ。
ボツテイクで垣間見えるピアニズム
近年、同アルバムに収録されている《ラウンド・ミッドナイト》のOKテイクが出るまでのスリリングな過程が記録された《ラウンド・ミッドナイト・イン・プログレス》がCD版に追加収録されたが、これが非常に興味深い。
演奏が破綻寸前に陥る奈落の淵を何度も垣間見ることが出来る。
そう、モンクは自らの作曲のこの曲の美しさの神髄を引き出すために崖っぷちで勝負をしているのだ。
当然、凧の糸が切れたように演奏がどこかへ飛んでいってしまいかける瞬間もあるが、そんな時はプロデューサーからのストップが入り、演奏は最初からやり直しになってしまうのだが、たとえ曲全体の完成度が損なわれようとも非常に音楽的価値の高い記録だと思う。
モンクはピアノソロのアルバムを数多く残しているので、彼のピアノを知るためには、まずはソロを聴くのが手っ取り早いのかもしれない。
彼は惰性で鍵盤は押さない。
彼が音を発する時、それは音楽的な必然性があるときのみだ。
よって、彼の一音一音には意味がある。
だから、弾く必要の無い時は無理して弾かない。ピアノを離れて踊ったりもする。
モンクがピアノから離れてゆらゆらとステージを漂うことすらも、実は真剣に音楽と取り組んだ故の一つの解答だと言うと、いささかオーバーな表現になるか。
真剣に音楽に取り組んでいる。
ゆえにピアノから離れる。
いささか禅問答じみてきてワケが分からなくなってきたので、ここらへんでやめるが、そんなモンクの哲学、音楽に対する真摯な取り組みっぷりが味わえるのが『セロニアス・ヒムセルフ』なのだ。
酒に喩えるなら、少なくともカクテルではない。
口当たりは優しくも柔らかくもなく、むしろ、棒を切ったようにタフだ。
度数も強い。
万人が好む味ではない。
しかし、タフだが深い味わいがある。喉がヒリヒリと焼けるような感触を楽しむ人と、楽しめない人がいるように、『セロニアス・ヒムセルフ』における、ストイックで寡黙な作業を味わえる人と味わえない人がいてもおかしくない。
人は音楽を選ぶ。しかし、このアルバムだって人を選ぶ。
最初は私も、この世界、境地、孤絶感には堪えられなかった。
理解出来なかった。
しかし、「自分の感性程度のちっぽけなものでは捉えきれない“何か”があるぞ」とは思った。
いまだに、良さが分からないという人だっている。
しかし、それで良いと思っている。当然だとも思っている。
むしろ、そういう人は正直だと思う。
直感的に理解できるタイプの音楽ではないからだ。
別にベテランやマニアを気取るわけでもないが、このアルバムだけに関して言えば、初心者にそう易々と理解されて欲しくない。
そういうふうに思わせる世界が確かにこのアルバムには存在するのだ。
無理して理解しようとする必要はない。ある日突然、「世界」が見えてくるから。
ある日突然、“視界が開ける”のではなく、むしろその逆で、“視界が閉じて”ゆく。
漠然と拡散していた視界が、モンクのピアノの一点にフォーカスされてゆき、深海のように深くて暗い世界にゆっくりと沈降してゆく感覚を味わえる日が、やがて来るだろう。
どの演奏も良い。どの演奏も深い。
最後の一曲だけ、コルトレーンが参加している。
まるで、モンク大僧正の横に神妙に付き従う修行僧のようにストイックだ。
《モンクス・ムード》。
モンクの曲で、最も好きな曲を一曲だけ選べと脅されたら、多分、私は数秒迷ってこの曲と応えると思う。
記:2002/10/25
album data
THELONIOUS HIMSELF (Riverside)
- Thelonious Monk
1.April In Paris
2.(I Don't Stand) A Ghost Of A Chance With You
3.Functional
4.I'm Getting Sentimental Over You
5.I Should Care
6.'Round Midnight - (bonus track, in progress)
7.'Round Midnight
8.All Alone
9.Monk's Mood
Thelonious Monk (p)
on "Monk's Mood"
Thelonious Monk (p)
John Coltrane (ts)
Wilber Ware (b)
1957/04/16(12?)