サンダーバード《日本語吹き替え版》/鑑賞レポート
2018/01/10
少し前に、息子と一緒に『サンダーバード《日本語吹き替え版》』を観てきた。
始め良ければすべて良し、
なのであれば、
実写版の『サンダーバード』は良い映画だ。
オープニングが良いのだ。
シンプルだけれども、これから始まる本編に胸ときめかさせるに充分なオープニング映像だ。
レトロチックかつ、アイコンチックなメカの動きが、クラシック・ファンの胸をときめかすものがある。
終わり悪けりゃすべてダメ、
なのであれば、
実写版の『サンダーバード《日本語吹き替え版》』は良くない映画だ。
エンドロールのV6のとてつもなく音痴で、やけにヴォーカルのバランスの大きなミックスに脳が破壊された。
●良かったこと
ペネロープ役のソフィア・マイルズが美しかったこと。でも、貴族って感じじゃないよなぁ。
●とほほな腰砕け
格闘シーンのあまりの迫力の無さ。
●前作との最大の違い
イギリスならではの生真面目でストイックな雰囲気が無くなった。
●失われたポリシー
クラシック版のサンダーバードは、隊長のジェフ・トレーシーはほとんど本部(トレーシー島)を動くことがなかった。
本部/宇宙ステーション(5号)/移動司令室(1号)/現場(2号)
という、本陣、中継所、指令室、現場と、それぞれの役割分担を心得えているからだ。
ところが、今回のお父ちゃんは、元気にノコノコとすぐに現場に出向いていってしまう。
だから、本部がカンタンに乗っ取られてしまうんだよ。
良くも悪くも、『サンダーバード』の良さっていうのは、アメリカンヒーローへのアンチテーゼだと思う。事件現場に颯爽と現れ、スタンドプレーを重ね、一気に事件を解決していってしまうスーパーマンタイプのアメリカン・ヒーローにたいして、英国作の国際救助隊は、その点は、頑なまでに愚直で、それゆえリアリティに溢れていたのだ。
たとえば、彼らは、旅客機ファイヤー・フラッシュ号を救うためにも、ロンドン国際空港の管制塔に着陸許可を求め、さらには、着陸する滑走路番号の指示を仰いですらいる。
現場到着までの正確な時間を律儀に通信したりもするし、現場の状況を本部とステーションに逐一報告をし、常に情報の共有化を図ろうと努める。
また、ビジネスマンにとってもっとも基本的な「報告・連絡・相談(ほう・れん・そう)」を徹頭徹尾守り、刻一刻と変わる現場の状況を本部へ報告し、本部に陣を構える父親は、的確な指示を現場に与える。
つまり、サンダーバードの魅力はリアルなメカだけではないのだ。リアルなメカにプラスされた、リアルな人間の営み、組織的な行動。これがあるからこそ、メカの魅力が倍増するし、物語にも厚みが出てくるのだ。
「報・連・相(ほう・れん・そう)」だなんていっても、そんなの子供に分かるわけない?
そりゃそうだ。子供は、そんな言葉は知らない。しかし、私が最初にサンダーバードの再放送を観たのは3歳の頃だったが、そんなガキな私にも、“事件がすぐに解決されない(=すぐに救助が成就されない)もどかしさ(=じれったい快感)”ぐらいは味わうことが出来た。このジレッたさが子供心にもリアルだと思ったし、より一層、汗をかいて仕事をする国際救助隊員と、オイルや泥にまみれて仕事をするメカに愛着を覚えたのだ。
私以外の多くの子供もそうだったし、そうなのだと思う。
だから、子供のために必要以上に分かりやすくする必要なんてないのだ。ガキをナメたらいかんぜよ。
そのへんのテイストを嗅ぎ分ける嗅覚は、大人より子供のほうが敏感なのだ。
良くも悪くも、今回のサンダーバードの制作国はアメリカだってこともあるのかもしれないが、モノやカタチは良い意味で受け継がれたかもしれないが、国際救助隊の“精神”までは、ついに受け継がれなかった。
この映画の核は、一言でいっちゃえば「(子供たちの)スタンドプレー」な話だが、サンダーバードの魅力と真髄は、あくまで隊員たちの「チームプレー」だということを忘れてはならない。
これがなければ、1号の存在意義だってなくなってしまう。
マッハ20で現場に急行して指揮を取る1号は、チームプレーが前提だからこそ、必要とされるメカなのだ。
スタンドプレーがポリシーの救助屋だったら、2号がダーッと現場にかけつけて、救助メカでダーッて救助して、スパッと事件解決してしまえばいいんだから。
よって、この映画は、ジェリー・アンダーソン指揮のもと、英国で制作されたスーパーマリオネーションの『サンダーバード』の延長として観ないほうが良い。腹が立つから。
しかし、昔のサンダーバードの記憶を無理やりリセットして、新しい映画なんだ、新しい映画なんだ、と思い込みながら観れば、それなりに面白い映画だということを認めるに吝かではない。
●そして、感想
サンダーバードという大道具を使ったスパイキッズな物語。
つまり、主役は子供たち。
●残念なこと1
スコット以下、4兄弟の人物造形が希薄なこと。
アランに焦点を合わせているので、仕方無いのだが。
アランに対して、その他大勢のお兄さんたち、という描かれ方。
設定では、バージルは2号の操縦とともにテクノ・ミュージシャンという顔もあるらしいのだが、そんな描写、一切ないもんね。
その理由はカンタンで、スコット以下、4人のアランのお兄さんたちは、この映画のスケールからいうと“余剰人員”だったのだ。
だから、余剰人員は綺麗に5号に封じ込められて整理整頓されてしまった。
どういうことかというと、宇宙ステーションの5号がフッドの潜水艦からのミサイル攻撃で大破してしまうのだが、お父さんをはじめ、兄弟全員が3号に乗って宇宙に救助に出かけてしまうのだ。
そりゃ、人手は多いに越したことはないでしょうが、いきなりズドンとミサイルを撃ち込まれたら、普通は、発射位置の特定や、誰が何の意図を持って5号を狙ったのかという、理由や原因の調査も並行して行うもんでしょ?
それに、攻撃は一回とは限らない。
二次攻撃だって十分に予想される。
したがって、隊長が取るべき行動は、5号を救助する班と、攻撃相手の特定と報復にあたる班という2つのグループに分けて、自分はこの2つのグループを統率する場に回らねばならないはずだ。
実際、5号を攻撃したフッドの潜水艦は、トレーシー島の近くにいたわけだから、すぐに発射位置を割り出せれば、4号などを用いて反撃にも出れたはず。
しかし、それを行わずに、隊員全員を宇宙に送り出したのは、映画の展開上、多すぎる登場人物を封じ込める必要があったからに違いない。
隊員、つまり“大人”全員を宇宙へ送り、5号に閉じ込めてしまえば、必然的にアランと彼の仲間たちという“子供”が活躍する冒険アクション物としてのお膳立てが整う。
正規の国際救助隊員であるお兄さんたちの存在は劇中では余分だったのだ。
●残念なこと2
ファンが興奮することの一つに、2号の発進シーンがあると思う。
たしかに木は倒れましたよ。
でもね、その2号を操縦するのは基地をのっとったフッドとフッドの手下。
悪者が乗った2号の発進シーンなんて、全然興奮しないもんね。
それ以前に、
1号といえばスコット、4号といえばゴードン、
といった、キャラクターと乗り物の一致感がまったくなかったのも残念。
誰もがヒョイヒョイと乗って操縦してしまえる便利な道具的な感じ。
2号なんて、フッドの一味や子供までが操縦できちゃうんだから。
登場するメカ群は、1号という魔法の呪文を唱えれば空を飛べる、4号という書物をゲットすれば海を潜れる、といった、ロールプレイングゲームにおける“アイテム”的な役割しか果たしていなかった。
ゲーム世代には、そのほうが良いのかな?
記:2004/09/09
DATA
製作年 : 2004年
製作国 : アメリカ
監督:ジョナサン・フレイクス
出演:ビル・パクストン、ソフィア・マイルズ、ベン・キングスレー、フィリップ・ウィンチェスター、レックス・シャープネル、ドミニク・コレソン、ベン・トージャーセン ほか
観た日:2004/08/11