ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ前奏曲》

      2019/11/30

クラシックも聴くのです

今日は、午前中は4ビート漬け。

午後から夜にかけては、クラフトワークや、石野卓球の『Titles』シリーズなどのカッチリと整然としたテクノで仕事をはかどらせ、夜はクラシック、それもワーグナーやチャイコフスキーなどのスケールでかいぜ系ばかりを聴いてました。

カチッとしたタイトなリズムで、かつ展開の少ない心地よい単調さを提供してくれる打ちこみミ音楽の後に、クラシックを聴くと、すごく音が呼吸しているような感じ、自分の呼吸も深くなる。
そして、まるで密室から広大な草原に出たような開放感も感じます。

もっとも、だからといって密室的閉塞感が嫌いなのかというと、そういうわけでもなく、狭いところで身体をあまり動かさずにジッとしながら考え事をしたりマンガを読むのも好きなんですけどね。

なにせジャズ喫茶育ちですから(笑)。

ただ、定速で均等なリズム割りの音楽ばかりを集中的に聴いた後に、ビート感の希薄な、たっぷりとテンポをとったクラシック系の音楽を聴くと、すごく細胞に染みてくるんですね。

おそらくクラシック好きだった母親の影響なのでしょうが、私は壮大な広がりのあるクラシックを無性に聴きたくなることがあって(逆にヴィヴァルディの「春」のような軽やかでせわしないのはあまり好きではない)、特にワーグナーの歌劇曲はよく聴きます。

オペラには興味がなく、それどころかワーグナーのオペラは観たこともないくせに、どういうわけか、《ニュールンベルクのマイスタージンガー》や、《リエンツィ》や《さまよえるオランダ人》、それに《タンホイザー》などは大好きでよく聴きます。

この壮大なスケールの音と、CDとプラモと本に囲まれた私の書斎はあまりに不釣り合いではありますが、目を閉じれば気軽にマインドトリップを楽しめるというわけです。

学生時代は《マイスタージンガー》が好きだったのですが、社会人になってからは《トリスタンとイゾルデ》の良さに目覚めてしまいまして、この曲こそ、もっとも壮大でスケールの大きい「愛」の音だと思っています。

ちなみに、『トリスタンとイゾルデ』も、例によってオペラは観たことがなくて、DVDも出てはいるのですが、今のところ、まだ観る気はおきないんですよね。
聴いているだけで十分満足!って感じなんですよ。

トリスタンとイゾルデは、前奏曲がほんとうに大好きで、ゆらゆらと立ち上り、静かに膨張してゆくかのようなスケール大き過ぎな情念にはいつも圧倒されています。

ジャズに関しては色々と本も読んだりしながらウンチクを蓄えてきた私ですが、対象的にクラシックに関しては、ハマるとジャズ以上にズブズブな状態になりそうなので、できるだけ本は読まないようにしてきます。

なので、クラシックに関しての知識は皆無に近い私ですが、ライナーノーツなど、時折目にするクラシック関連の活字から得た「トリスタンとイゾルデ」ウンチクは、

・不協和音の多用

・無限旋律(一つの旋律が終わらないうちに新しい旋律が前の旋律に一つの線でつながるような工夫を凝らす技法)が用いられている

・ドビュッシーの《子供の領分》や、ショスタコーヴィチの《交響曲第15番》など、後世の作曲家にも大きな影響を与えている

ぐらいの知識は、なんとなく持っています(笑)。

もっとも、歴史的評価や、技法的な斬新さなどの知識などまったくない頃からも、《トリスタンとイゾルデ》という曲は、聴くたびに背筋にゾワゾワ~っとした快感を感じていました。

とにかく圧倒されるというか、知識や教養などなくとも、音楽そのものが持つスケールの大きいパワーをひしひしと感じることができる名曲なのです。

ジャズ、特にビ・バップやハードバップの刹那的なエネルギーをバシャバシャと身体に浴びまくる快感とは別種の快感を、ごくたまに味わってみるのも心のリフレッシュにはなるんじゃないかと思います。

ジャズ好きの方こそ、お試しいただきたい。

ちなみに私がよく聴く《トリスタンとイゾルデ序曲》は、,カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の『ワーグナー管弦楽曲集』と、
カルロス・クライバー指揮、シュトゥットガルト国立歌劇場管弦楽団 の『トリスタンとイゾルデ』です。

ベタな表現ですが、大感動の嵐!

 

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