童神(天の子守歌)/古謝美佐子
2016/03/17
学生時代、「言語留学」と称して、短い間だが台湾に「遊学」していたことがある。
「異種格闘技セッション」と名うち、和太鼓とのセッションなど、ジャズとは異なるジャンルの楽器弾きとセッションを繰り返していた山下洋輔を気取って、台湾のアマチュア・ミュージシャンと「音楽的交流」を深めようと思った私は、エレキベースを担いで台北に渡った。
台北の大学を訪問すると、ちゃんと「軽音楽部」があるではないか。
よし! 彼らとセッションだ!
勇んで門戸を叩くと、なんだ、台湾の軽音楽部って要するに「ハーモニカ部」なのね……。
部員が演奏する楽器は全部ハーモニカだったのだ。
ドラムセットもなければ、アンプも当然無い。
ギターはあるにはあるが、エレキギターではなく、あるのはアコースティックギターのみ。
何十人もの部員が吹く「ぴーぴゃー、ぷーぴょー、きーきー、ぴゃらぴゃら、ぶりゅりゅーん」というハーモニカによる心地よい薄い金属的な音群の織りなすアンサンブルが、冬の台北の寒空に響き渡っているのを聴きながら、「ベースアンプのあるところは無いのかぁ~!」と私は叫んでいた。
私はベースをケースにはいれずに、むき出しにして背負いながら、いつも台北の街を歩いていた。どこへ行っても年末のアメ横のような人混みの台北の街。
その街中を穴だらけのリーバイスの色あせたジーンズを履き、冬なのにスナフキンのTシャツを着た背の高い男が、ネックを逆さまにしたベースを背中に背負って、ワケの分からない日本語をブツブツと呟きながら徘徊していたので、随分と目立ったらしいし、道行く人からは珍しがられた(お陰で、それがキッカケでナンパもしやすかったが……)。
今はどうだか知らないが、実際、ほとんどの学生は、バンドのような音楽活動、それもエレキベースやエレキギターを弾いて音楽をやっているような学生はほとんど存在していなかったらしい。
それでも諦めきれなかった私は、ライブハウスといってもおそらく意味が通じないだろうから「若者がたくさん集まっていて、で、実際、若者が音楽を演奏しているような場所に連れていってくれ。」と頼んだ。
頼んだ相手は、私が台湾滞在中には、終始お世話になりっぱなしだった日本語が堪能で、私より一つ年上の大学院生の女の子だ。
今思えば、結構カワイイ子だった。
ちょっと広末涼子に似ていた。
台湾の人が通う日本語学校でアルバイトで日本語を教えているぐらいだから日本語は堪能。
というより、今時の学生よりも「尊敬・謙譲・丁寧語」などはキチンと話せていたし、なにより、好きな作家は吉本ばななと村上春樹だというから、とても話しが合った。
中国語などろくすっぽ喋れず、台湾の右も左も分からない私からしてみれば、願ってもないガイド役だったのだ。
で、彼女が連れていってくれたところは、ライブハウスというよりも、少し広い飲み屋、プラスギターの弾き語りハウスといったところ。
たしかに来ている客のほとんどが学生風の若者ばかりだ。
面白いことに、その店にはステージがない。
そのかわりに、プールへ行くと、必ずプールサイドに立っていて、監視員が座っている3メートルぐらいの高さの台座があって、出演者はそこに座ってギターの弾き語りをするのだ。高台の上には、マイクがきちんとセッティングしてあり、アコースティックギターのサウンドと、歌声がちょっと過剰なぐらいリバーブがかかって店内に流れていた。
そう、やっぱりギターの弾き語り。バンドの演奏する場所ではなかった。
20~30分交替で、プロのシンガー志望の若者が次々とヒット曲や自作曲をギターで弾きながら歌い、客はそれを聴きながら酒を飲んだり、会話を楽しむという寸法。
ああ、飛び入りしようと思ってベースを担いできた俺は馬鹿みたいだ。
ところが、腰を落ち着けて、酒を飲みながら、彼ら彼女らの歌声に耳を傾けていると、これがまた良いのだ。
当然、なにを歌っているのか、歌詞の内容は分からない。
しかし、なんだか言葉を越えた感情のようなものがすごく染みてくるのだ。
男性、女性と交替で出演していたが、特に女性の歌声がダイレクトに私の心に語りかけるような気がして、かなり揺さぶられた。
酒に酔っている、ということもあったのかもしれない。
しかし、歌声の持つデリケートなパワーがダイレクトにこちらの心を揺さぶってくるのだ。
言葉の意味が分からなかったから、なおさらだったのかもしれない。
隣席の彼女は、「この歌は、別れた恋人が今でも忘れられないという内容の歌です」とか、「好きな人が出来たんだけど、その人には別の好きな人がいてツライ気持ちの歌です」などと、歌詞の内容を解説してくれるのだが、意味など知らなくても、意味よりもっと深い部分で彼ら、彼女らの歌声が直接こちらに訴えかけてくるのだ。
メロディは日本の演歌やちょっと古い歌謡曲にありがちな、定番的な分かりやすい旋律だったのだが、それに乗っかる言葉のトーンが、なぜか切なく、哀しく、私に迫ってきて、思わず涙がこぼれてきてしまった。そして聴いていて、非常に心地よかった。いつまでも聴き続けていたいとすら思った。
おそらく、メロディと中国語の相性というかノリがピッタリと一致していることが気持ちよいと思わせた原因なのだと思う。日本語で同じ旋律を歌われても、きっとピンとは来ないだろう。
この時、生まれて初めて、中国語って実は美しい響きを持つ言葉なのかな?とも思った。
言葉が分からない、意味が分からないからこそ、歌声に全神経が集中する。だから、「歌声」に感動してしまう、きっとそういうことなのだろう。
今となっては、歌われていた曲の旋律も朧気ながらしか覚えていない。しかし、そのときの感覚だけはハッキリと覚えている。
透明な声と、シンプルなギターの伴奏、月並みな表現だが心が洗われるような気がした。
さて、この感触に近い感覚を最近ある音楽を聴いて味わうことが出来た。
古謝美佐子の《童心(天の子守唄)》だ。
NHKの朝の連続ドラマ小説『ちゅらさん』の影響なのか、今年の夏前後はちょっとした沖縄観光ブームだったようだ。
私の周囲にも何人も沖縄旅行へ行った人がいた。
その中の一人が、お土産に一枚のCDを私にくれた。
『ザ・ラフ・ガイド・トゥ・ザ・ミュージック・オブ・オキナワ』という琉球の様々なミュージシャンのコンピレーション盤だ。
まぁ沖縄じゃなくても、大きなCDショップへ行けば売っていそうなCDなんだろうけど、音楽好きな私に気を遣ったお土産セレクションに違いなく、有り難く頂戴することにした。
このCDの良いところは、本当に様々なスタイルの沖縄音楽がバランス良く収録されていること。ジャケットやブックレットに載っているミュージシャンの写真などを見ていると、すでに日本という感じがまったくしない。もう、すでに「アジア」なテイストだ。なんだか、とってもエキゾチック。
三線一本の渋い弾き語り、女性数名のコーラス、バンド形態のサウンドから、デジタル・アンビエントっぽいものまで、収められている18曲のすべてが興味深い内容だった。
沖縄の音楽をまったく知らなかったわけではない。
坂本龍一はある時期、積極的に沖縄のコーラスを使って、沖縄的なサウンドをやっていたし、今でもカラオケでよく歌われているるナンバー、The Boomの「島唄」なんかはよく知っていた。
しかし、坂本龍一の音楽は、あくまで音楽的な「効果狙い」と「ワールド・ワイドな視点を持っていますよ」的な「ハク付け」をした気なあざとさがちょっと鼻についたし、「島唄」には沖縄の音楽はよく知らないんだけれども、直感的に「ウソ臭さ」のようなものを感じていた私。だから、現地・本場の演奏を聴くのは、実はこのCDが初めてなのだ。
沖縄の音楽といえば、誰もが思い浮かべるのが、あの独特の旋律。
四度と七度の音を抜いた旋律、通称「ヨナ抜き旋律」が、あるからこそ、我々はパッと聴きで沖縄の音楽だと分かるぐらいなもので、実際このCDに入っている曲は、バックのリズムやサウンドが違っても、しっかりとメロディは「ヨナ抜き旋律」だった。
この旋律、暖かい国の「陽気な」メロディだとばかり私は思っていたのだが、このCDを聴いて認識がちょっと変わった。
たしかに速いテンポや、賑やかなアレンジの時は、この上なく「陽気」なのだが、メジャーセブンスなどのコードがかぶさると、非常にしんみりとして、しっとりとしたメロディになるのだ。
素朴ながら力強い、直接にこちらの心の襞に訴えかけてくるような旋律、それに歌声。歌声は独特の沖縄方言で唄われているので、歌詞カードを見ながら聴いても、なかなか意味が理解できない。
理解出来ないながらも、しっとりとした、それでいて力強い歌声と、泣けてくる旋律を聴くと、とても五臓六腑に染みてくる感じがする。
そう、まるで台湾のライブハウス(?)で聴いたギターの弾き語りにシンミリとなってしまったときのように。
コンピレーション・アルバムに収録されていたアルバムの曲は、どれも素晴らしかったが、中でも古謝美佐子の「童心(天の子守歌)」には泣けた。
ゆったりとしたテンポの「ヨナ抜き旋律」をしっとりと彩るメジャーセブンスコード。透き通るような歌声は、声を出して少し時間をおいてから声を裏返らせるような「遅れビブラート(←?)」が、なんとも郷愁だなぁ、ってな感じだ。
唄っている古謝美佐子は、初代ネーネーズに在籍していた人。最近では、坂本龍一のオペラ『LIFE』に客演したり、歌劇『チルー』に主演したりしていた人だそうで、また、五木寛之もこの歌を聴いて「涙が出た」と言ったとか言わなかったとかで、知らなかったのは私だけで、彼女は結構有名な人だったのね。
声良し、メロディ良し、サウンド良しの三拍子が揃った古謝美佐子の《童神(天の子守歌)》は、最近の私の子守歌、というよりも、「さて、ワラビガミを聴いたら寝るか!」な、「一日の終わりソング」となっている。
「癒し」という言葉は嫌いだが、少なくとも心が綺麗に洗われるような気はする。
そして、こういう素朴な音楽に感動出来るかぎり、俺って人は、本当はまだまだ優しくて、イイ人に違いないんだゼと、一人納得して、床に入るのだった。
記:2001/10/13