都会に住む男女の淋しさと優しさに溢れた片岡義男の『人生は野菜スープ』

      2018/09/06

lovers

コドモには理解不能な大人の世界

私が片岡義男の『人生は野菜スープ』をはじめて読んだのは、高校生の時だった。

読後の感想は、一言「なんじゃこりゃ」。

当時の私には、この短編小説の醸しだす空気、そして、描かれている世界観がまったく理解出来なかった。

しかし、今考えてみると、たかだか高校生のボウヤが、この男女の微妙な心の機微と、漂ってくる心地の良い倦怠感を理解出来たら、それはちょっと気持ち悪いことだもと思う。

この短編は、ある程度の人生経験を重ねていないと分からない世界なのだ。
いや、人生経験は大袈裟か。

恋愛経験、と置き換えても良い。

恋愛経験といったって、ドラマや漫画のような、絵に描いたような綺麗な恋ではない。

スッキリしない恋、みっともない恋、パッとしない恋。

なんとなく始まり、いつのまにか終わっている恋。

現実世界での恋愛の多くが、こういったパターンのほうが多いんじゃないかと思う。

このような“絵にならない不器用な恋”を幾度か重ねた人が、はじめて心の底から、この『人生は野菜スープ』の切ない世界を受け入れられるんじゃないだろうか。

五臓六腑に染みてくる

心の「痛み」を知り、心のどこかに「傷」を負った人がこの小説を読めば、心の五臓六腑に優しくこの小説の世界が染み込んでくる。

それこそ野菜スープのように、優しく。

そして、全身を内部からじんわりと暖めてくれるのだ。

はっきりいって、この小説は、他愛も無い話だ。

ストーリーもあるにはあるし、ちょっとした山場もあるにはあるが、あくまで男と女の生き様を浮き彫りにするための演出に過ぎない。

この『人生は野菜スープ』、一言で言ってしまえば「娼婦とヒモの話」だ。

心理描写を注意深く避け、登場人物の行動を客観的に、そして丹念に描くことによって、彼らの生き様を浮き彫りにしている。

彼らの交わす会話は、センテンスが短く、必要最低限な言葉しか交わされない。

それなのに、いつしか登場人物に自分を重ね合わせている自分がいる。

もっとも、私が登場人物に感情移入をして『人生は野菜スープ』を読めるようになったのは、すでに20代も後半に差し掛かろうとしていた時期だったが。

逆に言えば、それぐらいの年齢に達するまでは、サラリと何もひっかかるところの無いまま読み過ごしていたのだといえる。

まだまだ、恋愛経験値が足りなかったからなのかもしれない。

先述したとおり、この小説は、ストーリーを楽しむといった類いのものではないし、ここで内容を書いてしも仕方が無いが、私がとてもいいなと思ったシチュエーションを二つばかり書いてみよう。

足にビー球

一つは、ビー球のシーン。

足を痛がる女性に、男は、指の間に一個ずつビー球を挟み、テーピングをしてあげる。

このシーンがとても好きだ。

女性が「気持ちいいわ」と喜ぶところなど、なんだか、こちらまでが嬉しくなってくる。

月にうどん

そして、もう一つは鍋焼きうどんを作るシーン。

女が働きに出かけている間、男が鍋焼きうどんの準備をするところだ。
ここがいい。

なにが良いのかというと、彼女においしいうどんを食べてもらうために、わざわざ自分でうどんを作る練習をするところがなんとも良いではないか。

彼はうどんの作り方がわからなかった。

だから、材料を買い集めながら、店の人から、おいしい汁の作り方などを教えてもらう。

ポイントは、彼は2食分ではなく、3食分のうどんの材料を買ったこと。

女が仕事から帰ってくるまでには、時間はたっぷりある。なにせ、彼ヒモなのだから。

だから男は、一人分の材料で、うどんを作る練習をするのだ。

店の人から教わったとおりに、丹念に時間をかけて、彼はおいしいうどんを作る練習をする。

そして、彼女が戻ってきたら、改めて鍋焼きうどんを二食分作り、彼女と二人でうどんを食べる。

たしか停電になってしまって、月を見ながら二人はうどんを食べるのだが、このシーンが良いなと思った。

全然ロマンティックでも、色気も無い出来事だが、私はこの男と女の関係はとても素敵だと思う。

上記二つのエピソード、「男は少しでも女の喜ぶ顔を見たいと思った」というような書き方はされていない。

心理描写は無く、ただただ、淡々と男の行動の一つ一つを追いかけているだけだ。

それなのに、男の女を思う気持ちや優しさが、やわらかく伝わってくるのだ。

真剣な表情で女の足の指にビー球を挟む男。

「よし、これで大丈夫だ」と真顔で女に言う男。

お湯を沸かし、野菜を切り、ミリンを入れてうどんの汁を真剣に作る男の姿。

男の行動の一つ一つが、下手な心理描写を用いずとも、雄弁に人物を描いている。

男の優しさ

ビー球のエピソードにしろ、うどんのエピソードにしろ、言葉ではなく、男のちょっとしたささやかな行動の一つ一つが、多少ぶっきらぼうかもしれないが、限りない優しさに溢れている。

ビー球といい、うどんといい、男が女を喜ばそうとするシーンの題材は、とてもささやかだ。

本当にささやか過ぎて、涙が出るぐらいだ。

しかし、ささやかだが、とても暖かい。

そして、あくまで文章はクール。淡々と男の行動を描写しているだけだ。

素っ気ないぐらいの語り口が、逆に読み手の想像力に温もりを与えているのだ。

優しさだけではない。

この『人生は野菜スープ』には、どことなく、物語全体に一抹の淋しさと刹那的な空気が流れていることも見逃せない。

限りない優しさと淋しさ

優しさと刹那さ。

なんだかB級歌謡曲の歌詞みたいだが、まさにその通り。

彼と彼女の関係は、はっきり言ってB級ラブロマンスだ。

そんなに恰好の良いものではない。

しかし、限りない優しさと淋しさに満ち溢れた、ありふれた男女の風景は、恋に恋をしている段階の人には、味気のない人間模様と映ってしまうかもしれないが、いくつかの不器用な恋を重ねてきた人間にとっては、彼らの織り成す恋模様に深く共感できるに違いない。

コドモの頃は、まったく意味不明だった『人生は野菜スープ』だが、今の私は、読み返すたびに、目頭が少しだけ熱くなってしまうのだ。

記:2001/12/17

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