カフェモンマルトル

text:高野雲

*

中山康樹さん 死去~中山さんの思い出/ボブ・ディランにノラ・ジョーンズ

      2017/04/18

中山さんの訃報

ちょっと動転していて、何をどう書いていいのか分からない状態なんだけど……。

本日(2015年2月6日)の夕方近くに、最近の中山さんの担当編集者(昔勤めていた会社の同期です)からメールが届き、中山康樹さんの死を知りました。

本当にビックリしました。

だって、まだ先日還暦を迎えられたばかりでしょ?

謹んでご冥福をお祈りいたします。



sponsored link



中山さんの思い出

『マイルスを聴け!』や『マイルス自伝』は私の愛読書ですし、中山さんは、ジャズ喫茶「いーぐる」の後藤雅洋マスターと共に、私が「ジャズ漬け人間」になるほど、私の人生に大きな影響を与えた人物の一人といっても過言ではありません。

ですので、中山さんに関しては、本当に、書きたいこといっぱいあります。

しかし、書き出したらキリがないですし、すでに中山さんの経歴や実績については、今後、多くの関係者やジャズファンの方がネットにアップされることでしょうから、私は、中山さんとお仕事をしたことについて書いてみます。

あれは確か2003年の末だったので、今からもう12年も前のことになります。

当時の私は「宝島社」という出版社に勤務していました。

入社して2年間は出版営業局という部署で、中央線沿線や池袋、渋谷、新潟、北海道などの書店を回り、出版業界の中で働く上での「基礎体力」のようなものをつけました。

それからは、宣伝部に移り、長らく新聞広告やビルボード、テレビCMや自社広告などの企画、進行、製作管理などの仕事をしていました。

最初は、社員の人数は、私と部長の2人っきりだったので、とにかく仕事の量がハンパなく多く、大変だったのですが、日々、様々な業界の人々と出会い、仕事をさせていただくことができたため、仕事そのものは滅茶苦茶楽しく、自分に向いているなぁ~なんて思っていました。

ところが、先述した2003年の秋に、突然、雑誌の編集部に異動することになったのですね。

しかも、私が中学生の頃から愛読していたサブカルの代名詞ともいえる『宝島』本誌の編集部にです。

もっとも、その時の『宝島』には、パンクも、ニューウェーヴも、YMOも、戸川純やRCサクセションなどの面影はなく、雑誌のコンセプトとしては、少し前のグラビアアイドル路線から脱却して、ビジネス路線の雑誌に移行中の過渡期ともいえる時期でした。

こちらに配属されて、およそ一ヵ月半後、またもや人事異動というか、組織改革がありました。

なんと、まだ編集部にやってきて日の浅い私が、副編集長をやれという辞令だったのです。

おそらく、社の意向としては、編集部内に残る旧来の体質を一新させることが目的だったのかもしれません。

SANYO DIGITAL CAMERA 私が編集部時代に携わった『宝島』本誌たち(ほんの一部)

だから、新しい『宝島』を目指して、自分が今できることは何なのだろうかと、日夜考えを巡らせ、多くの企画を考えました。

その企画の中のひとつが、CDレビューなどの音楽コーナーを復活させることでした。

以前は、音楽雑誌の側面もあった『宝島』ですが、いつのまにか、音楽、映画、ファッションに関する情報は、ほとんど取り扱うことがなくなっていたんですね。

音楽系、カルチャー系の読者は、『宝島』本誌から枝分かれしていった『BANDやろうぜ!』、『CUTiE』、『smart』、『Famous』などのほうに読者が移動してしまっていたこともあったのでしょう。

当時の『宝島』の誌面は、政治経済、ビジネス、投資など、比較的固め、というかビジネスマン向けの内容が中心だったため、その中に音楽系のような柔らかい情報が入り込む余地などありませんでしたし、そのような内容を取り扱えるような雰囲気でもありませんでした。

だから、「力」のあるライターさんに、まずは音楽系の記事を書いていただき、まずは実績を作っちゃおうと思ったんですね。

そこで、真っ先にひらめいた書き手が、中山康樹さんだったのです。

学生時代から、大ファンだった著者の一人でしたし、昔、アルバイトをしていた四谷のジャズ喫茶『いーぐる』のマスター・後藤雅洋氏を介して面識もあったので(あるいは紹介してくださったのは『マイルス自伝』の担当編集者の富永さん?かもしれない……ちょっと記憶が怪しいです)、原稿執筆のお願いをしてみることにしました。

当時の中山さんは、ボブ・ディランの本を出されており、また、ディランのリマスター盤が再発されていたというタイミングだったということも手伝い、最初は1/2ページのスペースで『ストリート・リーガル』に関しての記事を書いていただきました。

世の中には色々なタイプの編集者がいると思いますが、私の場合は、どちらかというと「作家に100パーセント丸投げ」をするタイプではないようです。

「打ち合わせが好き」という体質があるのかもしれませんが、私は、とにかく作家さんやライターさんと長話しをすることが大好きなんですね。

そして、必ず、自分の中には「オチ」のようなものが予め頭の中には出来ていて、その「落としドコロ」に向かって、ライターさんや作家さんが、どう筆を振るってくれるのかを楽しみに待つタイプのようです。

こちらの意向や青写真を先方に理解していただければ、「原稿まるまる書き直し」や「ボツ」になるリスクも軽減できるというメリットもありますし。

もし「落としドコロ」が決まっていない場合は、書き手の方と、電話や喫茶店などで、とことん話し合います。

まず「どういう見出しの記事になるのか」と、ゴールを明確に決めた上で、時には、原稿に書かれる道筋、流れまでも打ち合わせの段階で固めてしまうこともあります。

中山さんにボブ・ディランを依頼した時もそうでしたね。

たしか、私が読んで「ディラン本」には、繰り返し「ディランは(単純に)歌いたいから歌った」「(単純に)歌いたいから歌いつづけている」というフレーズが何度も登場し、この考察が目からウロコというか、とても印象に残っていたんですね。

私は、中山さんが唱える「歌いたいから歌った」というフレーズは、原稿の中に必ず入れて欲しいということと、その理由についてまで出来れば踏み込んで書いていただければ最高です、というような内容の依頼をしたことを覚えています。

もちろん、中山さんは快諾してくださいました。

元『スウィング・ジャーナル』の編集長だった中山さんは、編集者としては私の大大先輩でしたから、そのへんの私の考えを汲み取っていただけたのだと思います。

執筆の依頼は、たしか電話だったと思うのですが、それほど長話をせずとも、こちらの意図が「通じた!」という感触はありました。

そして、驚くべきことに、半日も経たないうちに原稿のメールが届いたんですね。

このスピードには驚きました。

中山ライツ・ノラ・ジョーンズ

同様のことは、その数ヵ月後に「ノラ・ジョーンズはなぜ売れているのか」というテーマの原稿を依頼した時もそうでした。

当時、中山さんを初めとした複数のジャズ評論家が参加したディスクガイドに、私も数記事ほど書かせていただいたことがあり、その本の巻末に、中山さんが「ノラ・ジョーンズは、現代の『カインド・オブ・ブルー』説」というようなことを書かれていたんですね。

これに興味を持ち、ちょうどグラミー賞も受賞した彼女の記事もいいかな?と思い、また、「日本一のマイルス者」の中山さんが、いったい、どうノラの記事を書いていただけるのかにも興味があったので、原稿を依頼したのですが、これも、たしか依頼してから24時間以内に原稿のメールが送られてきました。

長めの内容なので、誌面のスペースに合わせて適当に削ってくださいというような書き添えもあったように記憶しています。

あたかも、中山さんの脳内の引き出しには、すでに原稿のストックが何本もあり、単にそれをサッと取り出したかのような内容とスピードでした。

予想通り、原稿の文字量が大幅に誌面から溢れてしまいそうなので、どのあたりを削りましょうか?と電話で相談をしたら、「では、あそこからあそこの行までのクダリをカットすると内容的にも丁度良いと思いますよ」などと、指示も的確。

中山さんの脳の中には、PCのハードディスクとモニターがあるんじゃないかと思うほどの正確さと処理能力だなぁと舌を巻いた記憶があります。

このようなことを含め、以来、何度か中山さんと仕事の打ち合わせをしたり、仕事を依頼したりということが続きましたが、とにかく中山さんと仕事をした時のことを振り返ると、真っ先に思い浮かぶことは、仕事がとてつもなく速く、そして正確だったということです。

まだまだ「読者」として、そして「ファン」の目線で、中山さんについて書きたいことはたくさんあるのですが、今回は、いったんここまでにしておきます。

また機会があれば、中山さんについて書きたいと思います。

記:2015/02/06

●関連記事
>>中山康樹の隠れ名著『超ボブ・ディラン入門』を読め!

>>中山康樹は何と闘い続けてきたのか?〜中山康樹・最期の著書『ウィントン・マルサリスは本当にジャズを殺したのか?』

 - 雑想 雑記 , ,