比較バカ〜勢古浩爾『まれに見るバカ』を読んで
2019/07/19
「バカ」にはいろいろあるけれど……
勢古浩爾の『まれに見るバカ』(洋泉社)は快著だ。
世に溢れる様々なバカの生態を分析し、さらには、佐高信、田嶋陽子、田中康夫、田原総一郎、舛添要一、宮代真司、渡部昇一、渡部淳一などといった各界の有名人を快刀乱麻のごとく一刀両断、バッサリと“バカ”と斬り捨てている。
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他にも、
・子供に源氏名をつけるバカ親
・「だって誰も教えてくれなかったんだもん」な知的欲求皆無なバカ女
・ブランド崇拝貧乏バカ
・イッキ飲みバカ
・女の荷物やバッグを持つ“付き人”バカ男
・「そんなこと、聞いてません」を連発する臨機不応変バカ
・頭に「一流」という文字のつく団体(大学・企業・官庁)に所属している(た)ことを自分の偉さと錯覚してのぼせあがっているバカ
・自分のことを「ふまじめだ」と吹聴することによって、自分はチンケで真面目な人間じゃないということを周囲に認めてもらいたくてしょうがない、ケチくさい根性のバカ
・「人生楽しまなきゃ損だ」などと、一見気の利いた風の言葉の裏には、人生を損得勘定に置き換えているという、とことん卑しい根性のバカ
・「自分を生かせる仕事をしたい」とのたまい、職を転々とし、結局は「フリーター」とかになる、自分という存在が、他人にとっては一文の値打ちも無いかもしれないことが分からず、自分という個性はそのまま他人が認めるべきだという傲慢な思い違いをしている、身の程知らずで、世間知らずなバカ
・たかが素人みたいな歌唄いが 「アーティスト」と名乗る恥ずかしさを自覚できぬバカ
・自分の子供が他人に注意されたというだけで、無条件に反撃するバカ親
などなど、これでもか、これでもかと、バカのオンパレードが続き、普通はこれだけ唾棄すべきバカの種類を畳み掛けられると、ウンザリしてこようものだが、 なぜだか爽やかな読後感すら覚えるのは、 毒の中にもユーモア感覚が見え隠れする筆者の筆致のなせるワザなのだろう。
もっとも、この本を作った編集者は、知的さとヤクザさが良いバランスで兼ね備わった、私が尊敬する人物だ。
彼はブスな女性を「ブスッ!!」と容赦なくハッキリと一刀両断に斬り捨てる人物なので、そこらへんの歯に衣を着せなさっぷりは、この本の著者と共通するものがある。
そんな編集者なわけだから、著者との打ち合わせはさぞかし盛りあがったことは容易に想像が出来るし、単なる不快なバカのオンパレードの本に終わらせずに、一気に読ませてしまう作りは、彼の編集力のなせるワザもあると思うし、実際彼の編集した本にはハズレがないほど、素晴らしい仕事の実績を残してきた人物なのだ。
だから、単純につまらないハズはない。
この本のミソは、読者は自分だってバカに違いないにもかかわらず(もちろん俺もだ:ベース馬鹿)、自分は違うのだということを前提に、著者との井戸端会議に参加しているかのごとくの錯覚を思い起こさせるところなのかもしれない。
その痛快っぷりと、さんざん悪口の言いたい放題の勢いには、バカにウンザリしている読者の溜飲が下がるし、「そうだよそうだよ」と激しく頷いているうちに、いつのまにか読み終えているという寸法。
バカを斬るために、細かいところまで実にバカのことをよく観察しているし、突っ込みを入れるためとはいえ、著者にとってのバカが書いた本を一生懸命我慢して読んでいるところなんかは敬服に値する。
特に、私が激しく同感したところは、「バカには話しが通じない」というクダリ。
曰く、
バカは自分が正しいと思っている。
だから、なにをいっても話にならない。
自分の非をつかれることを極端に恐れている。
この種のバカは、天然ではなく、自分バカである。
なるほど、なるほど。
私の周囲にも、この手のバカには時折出現することがあるので、思わずニヤリとしてしまった。
一人でまくしたて、己にとって都合がよく、理解可能な範囲の言葉だけを受け入れ、心地の悪い内容や都合の悪い言葉には過剰なまでに反応し一人でキレるという、なんだか一人でクルクルと忙しい人間が結構、世の中にはウヨウヨといるものなのだ。
それは、さておき、『まれに見るバカ』は、私にとっては頷ける内容が多く、楽しく読むことの出来た本だった。
しかし、当然出てくるだろうと期待して読んでいたのだが、残念なことに、この本には、「比較バカ」という分類はなかった。
私はバカのサンプルの中に「比較バカ」を加えることを提案したいと思う。
比較バカは、数こそ少ないかもしれぬが、確実に我々の周囲に潜んでいる。
もっとも、基本的には自分の生命を脅かすほどタチの悪い種類のバカではないので、実害を被ることは少ないだろう。
強いて言えば、「鬱陶しい」「こいつバカじゃない?」「だからなんなのよ」と思う程度のことだ。
実例を挙げる。
「ボクはキミよりも10倍ビートルズが好きだからね」
「私は楽しい。誰々はきっと私の半分しか楽しんでいない」
「俺は少なくともヤツの2倍は自信がある」
「日本で一番幸せだ」
はぁ?
でしょ?
まず、10倍とか半分とか2倍という数字がどこから出てきたのかが、よく分からない。どういう計算で、また、どのような根拠でそのような数字がはじき出されたのだろう?謎だ。
なーんて、疑問に思うフリをしているが、本当は謎でもなんでもない。単にボキャブラリーや表現力の貧困さゆえの、彼らなりの誇大表現のつもりなのだろう。"very"とか"much"程度のニュアンスなのでしょう、きっと。
ビートルズが好きなんですね。良かったですね。え?やっぱり誰かより好きじゃないとダメなの?満足出来ないの?
楽しいんですか。それはそれはご馳走様。けれども、それだけでは完結せずに、誰かを引き合いに出すってことは、“楽しみ度競争”でもしているんですか?
自信がある。ほほう、それは結構なことじゃないですか。自信があれば人と比較する必要もないのでは?
日本で一番ですか。よっ!ニッポンイチ!(拍手)
「比較バカ」の表現の中には、なぜか必ず比較の対象が出てくる。
「私は○○です」ではなく、「私は誰々よりも○○です」なのだ。
それだけならば、まだカワイイものだが、ご丁寧にも、そして余計なお世話なことに、同情や干渉までしてくれやがるのだ。
「ビートルズが好きだ」
→「ビートルズに感動出来ない人は心が狭い」
「私は楽しんでいる」
→「こういう楽しみを味わえないあの人は可哀想ね」
「俺は自信がある」
→「すべての人に自信を持て!といいたい。やれば出来る!」
「尊敬出来る人がいる」
→「尊敬出来る人がいない人は不幸だ」
ああ鬱陶しい。
そして、
余計なお世話だ。
でしょ?
これって、自分がイイと思ったものは他人にもイイと勘違いして、強引に勧めるお節介焼きとなんら変わるところがない。迷惑だ。
新興宗教や、自己啓発セミナーにハマッた人間がそうだよね。
自分になんらかのメリットや、利益や、目からウロコな体験があれば、他の人にも強引に勧めなければ気がすまない。自分がイイから、人にもイイに違いないという判断を下す短絡的なアタマの構造。
自分はダメだから、人もダメだと違いないと信じ込む単純な自分中心主義の傲慢さ。
短絡的、傲慢。つまりバカということだ。
ゆえに「比較バカ」。
以下、「比較バカ」に接してきた私なりの考察。
「比較バカ」は常に不安を抱えている。
「比較バカ」は素直ではない。
ゆえに、「楽しい」「好き」という己の感情も素直に認めることにも躊躇する。
だから裏付けとしての引き合いに出来る対象を求める。
相手と自分の比較の上で、自分の優位を確認することで安堵する。
このような七面倒くさい作業を日夜繰り返している(アホらし)
しかも、「比較バカ」は、自分に自信がない。
しかし、そんな自分を認めたくもない。
そのくせ、自己評価には異常なほどに敏感だ。
自分に関してのちょっとした評価にも過敏に反応する。
そして、「比較バカ」は嫉妬深い。
なぜなら、嫉妬とは「比較」の上ではじめて生まれる感情だからだ。
比較する対象がなければ、そもそも嫉妬などという感情は生まれない。
誰かと自分を比較して、自分の優位を確認して、ようやく安堵するという精神構造。
だから、無意識に、自分と他人との比較勘定に長けている。
自分の方が勝っていると思えば、鬱陶しいお節介を焼いたり、空疎で無内容な“ご高説”を垂れる。
自分の方が劣っていると思えば、必死に言い訳を考える。
自分は清く正しいけど、力の無い子羊。相手は強力な悪者という図式を構築したりする(アホらし)。
こうしたがる背景には、正攻法では太刀打ち出来ないということに無意識に気が付いているからにほかならない。
しかし、以上の考察、実はあまり自信がなかったりもする。
なぜなら、少なくとも私は「比較バカ」ではないから、本当のところの彼らの思考や嗜好が分からないところもあるからだ。もっとも、分かろうとも思わないが。
私が何故、彼らの思考パターンを理解出来ないかというと、私の場合は、良い仕事をして、キチンと実績を残して、うまいもの食って、うまい酒飲んで、いい音楽聴いて、ベースを弾いて、波長の合う人物と楽しい一時を過ごせる機会をコンスタントに持てて、常に心の平穏が保てれば、べつにそれ以上は何もいらないからだ。
私はそれで幸せだし、このような毎日が過ごせれば、お天道様に感謝な気分、この満足感は完全に自分の内面で完結しているので、ことさら「誰々より~」なんて比較の対象を持ち出す必要がないのだ。
べつに、こういう生活をしていない人は可哀想ね、なんてことは毛頭思わないし、私は誰々の3倍幸福なんだとも思わない。
というよりも、そもそも私の中にはそういう思考回路がない(なくてよかったと思う)。
むしろ、多くの人から見れば、なんて地味で慎ましやかなレベルで満足しているんでしょう、な部類だと思う。
反対に、もし、そんな私に嫉妬する人物がいるとしたら、せいぜい私の2倍働き、私の3倍うまい飯を喰って、私の4倍酒を飲んで、私の5倍音楽を聴いて、私の6倍楽器を弾いたりライブをやったりして、私の7倍楽しい一時を過ごして、私の8倍幸せな人生を歩んでくださいよ。
まぁ、狭量な「比較バカ」には無理だと思うけど。
私は「比較バカ」のことは可哀想だとも思わないし、同情もしないし、親切心を出してバカ治療をしてやろうとも思わない(昔から「バカにつける薬はない」というではありませんか)。ましてや、自分は「比較バカ」と“比較”して、“2倍”バカじゃないといったくだらない数字遊びをする気も毛頭ない。
ただ、これを読まれた方の多くも、一度ならず「比較バカ」にツマラナい思いをさせられた経験の持ち主もいらっしゃることと思う。
もし、「比較バカ」に出会ったら。
「相手にしない」、「真面目に受け取らずに、軽く“流す”」。
結局は、このようなシンプルな対処がベストなようです。
君子、バカに近付かず。
と、いいたいところだが、こちらが近寄らなくても、しばしば向こうから近寄ってくることもあるから、厄介といえば厄介だ。
『まれに見るバカ』の著者の主張と重なるが、せめて我々は、今まで以上にバカが増産されるだろう二十一世紀の世の中の「バカ・スパイラル」に巻き込まれないようにしたいものだ。
記:2002/02/10