汎音楽論集/高柳昌行
凡百の音楽評100冊分の威力
高柳昌行の『汎音楽論集』をようやっと読み始めた。
いやぁ、面白い、面白い。
いや、面白いじゃ片づけられない。厳しい。これは批評家にとっても、演奏者にとっても耳に痛い、しかし、「そのとおりだよ!」と言うしかない、至極マットウな思想と意見に溢れている。
最初は気軽に読んでいたのだが、だんだんと姿勢がシャンとなり、襟を正す思いで、深く深く頷きながら読んでいる自分がいた。
「すいません」
「いやはや、ごもっとも」
「そのとおりであります」
「反省してます」
電車の中で読んでいたのだが、思わず、ボソボソと上記のごとくな言葉を呟いていた私。真っ黒な本を片手に、なにやら、ぶつぶつとひたすら本に向かってお辞儀をしている私。電車の乗客は、そんな私を変人変態怪獣だと思ったに違いない。
まだ読み始めたばかりで、ゆっくりと文章を味わいながら読んでいるので、読み終わるのはまだ先になることと思うが、なるほど!その通りだよ、と思った一節を引用。
当夜演奏会者の中には音符の読めない者が数人いたそうだが当夜に限らず音符が読めずに演奏したところで、これは趣味道楽の範囲であって、プロではない。素人は批判の対象にならぬ。譜面の読めない音楽家は、文字も読めない、まだまだ、ほんの幼い子供と同じなのである。ただひとつ異なることは、幼児は邪気がなく何に依っても学ぼうとする知識欲が盛んなのに反して、彼らのそれは全く認められないことだ。その上、(これもほとんどの演奏家に通じることだが)なお悪いことには、ロクでもない潜在意識で他人を非難することだけは知っているのだから、ただただあきれるばかりである。
ハイ、スイマセン(笑)。
理屈だけは立派だが、何とも空しい無意味なソロを得意になって、延延と聴かせる演奏者くずれ、一体何を考え、何をやっているのか神経を疑いたくなる。
ハイ、スイマセン(笑)。
引用した2つの文は、いずれも同業者に向けての批判だが、レコード評もなかなか鋭いものがある。
ダラー・ブランドもジョニ・ミッチェルもスバッと勢いよく斬られてますな。
でも、その理由はたしかに一理あるところもあり、なーるほどー、と私は頷くしかない。
…引用してみると、あ、やめておこう。
読んでのお楽しみ、と言いたいわけじゃなくて、ただ単に書き写すのが面倒になってきたんですわ。
しかし、ほんと、菊地成孔もそうだが、演奏家の書く音楽評は鋭くマトを得ているものが多いね。プロじゃないけれども、楽器をやっているという加藤聡夫の本も面白かった記憶があるし(最近はとんとこの人のレビュー見かけませんね)。
値段はちょっと高いけれども、この本は高柳好き、フリージャズ好き、トリスターノ好きは必読でしょう。
特に、奄美大島唯一のクール派な「サウンズパル」の高良さん! これは、あなたのためにあるような本ですぞ。
私に高柳のCDを3~4枚薦めて買わせたほどの高柳好きなんだから、読まなアカン!
ヌルい批評読むならこれを読め
それから数日後。
『汎音楽論集』、あまりに面白く興味深く、読み終わるのが勿体無いので、ゆっくりと読んでいる。
言葉が頭から零れ落ちるのが勿体ないので、ゆっくり読んでいる。
自分に厳しく、ストイックな姿勢で、常に音に対峙している彼のこと、だからこそ、演奏者としてのみならず、彼は一流の音楽批評家たりうるのだろう。
ジャズギタリストの分析、「ジャズギターは今のところジム・ホールで終わっている」などの記述などは、読んで、なるほど、と説得力がある。
ここらへんの箇所は、自分ひとりで読むのは勿体無いので、大門にある食堂のマスターのところまでこの本を持ってゆき、読ませ、感想を聞いてみたりもした。
そう、このマスター、昔、高柳昌行のギター教室に通っていたことがある人なのだ。
立ち上がったばかりのアン・ミュージック・スクールに通いつつ、それでも、探究心のやまない彼は、高柳ギター教室で、ギターのネックを握る以前の基礎の基礎の基礎を徹底的にミッチリと仕込まれたらしい。
あまりに、ストイックで、基礎基礎しているので、即効性を求める生徒はすぐに止めていったそうだ。
最初は20人ぐらいいた教室も、一人抜け、二人抜け、気付けば、自分をふくめ5~6人になっていたという。
そういうマスターもあまりのストイックさと、基礎練の厳しさゆえに音をあげ、脱落者の一人となった。
「しかし、今思えば、あのときにミッチリと先生の言っていることをやっておけば、全然違っていたと思いますよ。あれに耐えられた人だけが、ホンモノで、ジャズ・ギターをやる資格があったんでしょうね」
同時代に、高柳昌行と同じ空気を吸っていた体験者だけに、マスターの一言は説得力がある。
「ある固有の対象を研究する場合、必ずその前後の様相を調べつくす作業が根本的に大切であり、習慣化してしまうこと、すると対象はくっきりと浮かび上がってくる。」
~「Charlie Christianはモダン・ジャズの原点であった……」より
演奏者としてのこの態度は非常に重要だ。
それ以前に、ろくな研究や分析もせずに、単に自分の好き嫌いだけの論評で本を書き、印税を受け取っている“似非評論家”には、彼の爪の垢でも煎じて飲ませたいほど。
好き嫌いで聴くことは悪いことだとは思わないが、それはあくまで趣味のレベルであろう。
そして、その甘い言辞は、素人の耳をくすぐる砂糖や麻薬のようなもの。
その口当たりの良さゆえ、大量に摂取した結果、骨が溶け、骨抜きな腑抜け耳になっていることに気付いたときはもう遅いのだ。
記:2007/04/12