練習は毎日すること!#ザ・ベース道 ~於:練習
2019/08/25
スランプの時も一定水準以上の演奏をするために
ベース上達の一番の近道は、あたり前だが、毎日練習すること。
これに尽きる。
短い時間でも良い。
時間の無い人は4分38秒でも、2分56秒でも良いから、とにかく少しの時間でも、練習する習慣をつけてしまう。
入浴にしたって、寝る前の歯磨きにしたって、1日3度の飯だって、いちいち「よし!やるぞ!」とは思わないでしょ?
これは、毎日毎日飽きもせずに同じことを繰り返してきて身についてしまった習慣のタマモノなのだ。
これと同じレベルで、まずは習慣を作ってしまおう。
1週間から10日の間、毎日同じことを繰り返せば、イヤでも習慣はつくものだ。
学生時代はたくさん楽器を弾く時間があったのに、社会人になった途端、楽器を触る頻度が極端に減る、といったことはよくある話だ。
「楽器を触ってない、以前より練習しなくなった」という思い込みは、プレイの足を引っ張る要因になりやすい。
だから、どんなに疲れていても、やる気がない日があっても、「毎日触る」という習慣をつけてしまうのが手っ取り早い。
旅行・出張・朝帰り・病気などといった特別なことが無い限り、触らない日は作らないようにする。
誰しも、好不調の波はあると思う。だが、一番いけないのは、不調の時に何もしないことだ。「やったり、やらなかったり」ということが一番良くない。
村上春樹やピカソも行っている(た)方法のようだが、彼らは1日の中で、必ず机(キャンバス)の前に座る時間を決めている(た)のだそうだ。
3時間だったら3時間、1時間だったら1時間と時間を決めて、必ず机(キャンバス)の前に座るようにする。
スランプで一行も文章が書けないときも(一本の線も描けないときも)、決めた時間の間は、じーっと机(キャンバス)の前に座る。そのかわり、閃いたときには思いっきり創作活動に没頭する。
このスタイルは、ベースの練習にも適応出来るはずだ。
時間を決め、たとえやる気が無くても、取りあえずベースに触る。触れば、取りあえずは何かは弾くだろう。
音楽、そして全ての芸術にも言えることだが、即興や、その場の思いつきで面白い表現が生まれることも多いし、個人的には、そちらの表現の方が面白かったりもするのだが、それを裏付ける表現の力強さやバックボーンとなるものは、日ごろの研鑚と修養と努力の累積以外の何物でもない。
いつでも、良い表現が生まれるわけではないし、突発的な閃きだけを期待するのはギャンブルと同じようなものだ。
好不調の波が激しく、良いプレイをする時もあれば、最悪のプレイをするという、当たりハズレの激しい、いわゆる破滅型なミュージシャンもいるにはいる。
だが、こういうのって、一部の天才のみに許された特権だ。
我々凡人が最初からこのような「結果」だけを目指すのは本末転倒。
天才と呼ばれる(た)どんなミュージシャンとて、下積み時代は人並み以上に練習をしていたはずなのだから。
ヴォーカル、サックス、ギター、トランペット。
このような「ウワモノ」楽器が体調や精神的なものでコンディションが左右されるのはいたし方のないことなのかもしれない。
しかし、「シタモノ」であるベースのプレイが安定してる時もあれば、していない時もある、というのはかなり問題なのではないのだろうか。
スランプの時でも、一定水準の演奏をキープ出来るように常にコンディションの統一に心砕く。
特にこれはベーシストに求められるべき大切な課題だ。
とかく「楽器を触ってない」「以前より練習しなくなった」という思い込みは、自分のプレイの足を引っ張る要因になりやすい。
しかし、少しでもいいから毎日楽器に触れていれば、どんなにスランプな時も、またライブ前に気持ちが昂まっている時も、オレは毎日練習したんだからと、気持を落ち着ける寄りどころになる。
ベーシストにとって大事なことは、最高のプレイをするにこしたことはないが、それよりも大事なことは、どの曲もアベレージ以上のクオリティで満遍なく弾けるということだ。
サウンドのボトムを支えるベーシストたるもの、自分にとっての最低レベルを出来るだけ底上げすることに腐心することが、バンドや共演相手に対しての礼儀だと知るべし。
そして、これらを裏付けるものは、「毎日やった」という自信にほかならない。
記:2001/06/21(from ベース馬鹿見参!)