生のパーカーをとらえた貴重なドキュメントフィルム/セレブレイティング・バード
2018/09/08
変人ぶりが強調され過ぎ
そもそも私が、『バード』(監督:クリント・イーストウッド)という映画をあまり好きでないのは、「え?これがパーカー?」という猛烈な本能的に感じる違和感ゆえ。
たしかに、パーカーという人物は奇人変人だった、らしい。
しかし、だからといってパーカーの変人な部分ばかりをクローズアップして、「悲運の天才ジャズマン」ってな目線で映画を作るのはいかがなものか、と思うのだ。
もちろん私はチャーリー・パーカーに会ったことはないし、あくまで推測でしかものは言えないのだけれども、『バード』で描かれているチャーリー・パーカーは間違いなくチャーリー・パーカーではないことだけは断言できる。
『ラウンド・ミッドナイト』の場合は、天才ピアニストのバド・パウエルのエピソードをモデルにしつつも、デイル・ターナーなる人物を架空の天才ジャズマンに設定したことによって映画として成功していると思う。
ところが、『バード』の場合は、たしかにチャーリー・パーカーにまつわるエピソードがふんだんに映画の中に盛り込まれているものの、彼の奇人っぷりを強調するようなエピソードばかりで塗り固められ、かえってパーカーというジャズマンの実像を分かりにくくしているきらいがある。
単純ではない人間像
片岡義男が翻訳した『チャーリー・パーカーの伝説』という読みごたえのある本がある。
実際に彼と接した人たちへのインタビューをまとめた本なのだが、これを読むとチャーリー・パーカーという人間像は読めば読むほど分からなくなる。
我々は映画の悪影響で、ジャンキーだけども人の良いお馬鹿で破滅型の天才ジャズマンというイメージが植えつけられているかもしれないが、様々な人が語るパーカーの人間像は、それほど単純なものではない。
もちろん人によっては「やつはジャンキーでとんでもないヤツだった」という証言もあるにはあるが、人によっては「非常に知的で聡明な人物」という評価も少なくない。
断片的なエピソードばかりゆえ、それらのどれもがパーカーの一面なのだろうけれども、少なくとも、映画で描かれているような単純な人間ではないことだけは確かだ。
もし、チャーリー・パーカーというジャズマンに興味を持てば、『バード』などという中途半端な映画など観ずに、彼のドキュメント映像の『セレブレイティング・バード』を見ることをオススメする。
Celebrating Bird: Triumph of Charlie Parker
このドキュメントは、比較的正確かつ客観的に彼の実像に迫ろうとしていることと同時に、ドキュメントながらもヘタな映画よりもドラマ性があって観る者を飽きさせない。
目を閉じずにサックスを吹く
映画『バード』でパーカーを演じる役者と、本物のパーカーとの最大の違いは、目だ。
『バード』の役者は、目をつぶり、必死な顔をしてサックスを吹く(吹いているフリをする)。
ところが、実際のパーカーは目などつぶらない。
カッと目を見開き堂々とサックスを吹く。
しかも、映画の役者のように必死なそぶりは微塵も見せずに、少ない動きで物凄いフレーズを繰り出している。
わずかな違いなのかもしれないが、この違いは大きい。
もちろんマバタキはするが、中空の一点を見つめるかのようにサックスを吹くパーカーの姿は、なるほど、天才とはこういうことなのだと思わせる説得力がある。
それに比べれば、猫背で目をつぶって吹く映画のパーカーは凡人そのもの。
汗をかいてジャズを頑張る映画の主人公と、いとも軽々と凄まじいフレーズを繰り出す本物のパーカーの姿の違いは、すなわちパーカーという人物の理解の根本的な違いを感じさせる証拠の一つだ。
フィクション映画としてみれば悪くないのだが……
『バード』はもちろん、物語としてはよく出来ているのかもしれない。しかし、やっぱりパーカーというジャズマンへの愛が感じられないことは確か。
パーカーとコンビを組み、よき相棒、かつよきライバルだったディジー・ガレスピーも『バード』は駄作だと憤っていたそうだが、たしかにパーカーとともにビバップを生み出した当事者からしてみれば、「なんだよ、この映画は?」となるものなのだろう。
観るなとはいわない。しかし、ここまで読んでいただいた方で、これから『バード』を見ようとしている人にはこれがチャーリー・パーカーだ!などとは努々思わぬように。
パーカーによく似た一人のジャズマンの生涯を描いた「フィクション」として観れば、まぁそれほど悪くない映画なのかもしれないが。
パーカーに興味を持った方には、やはり『セレブレイティング・バード』のほうをおススメしたいですね。
記:2006/06/20