コルトレーンのバラード~スタンダードは音痴、モード曲で本領発揮!

      2021/02/10

コルトレーンは「音痴」である

私はジョン・コルトレーンのことは嫌いではない。

留保付きで好きだ。
なぜ「留保付き」なのかというと、好きな演奏も多いが、嫌いな演奏も多いからだ。

嫌いな演奏の大部分を占めるのが「バラード系」。

もちろん好きなバラードもいくつかあるが、初期から中期にかけてのコルトレーンのバラードは個人的には聴けたものではないと思っている。もちろん例外もあるが。

とにかくコルトレーンは「音痴」だと思う。

同じテナーのソニー・ロリンズやコールマン・ホーキンスの雄弁さと比較をするのが可哀想になってしまうぐらいだ。

スローでムーディなテンポな曲になればなるほど、イカツい大男が縮こまっているサマが音に現れてるような感じがするので聴いていて辛くなる。

逆に彼のバラードが好きな人はそこが良いと感じるのだと思うが。

世間ではなぜか評価の高いコルトレーンの『バラード』というアルバム。

私はこのアルバムが大嫌いだ。

バラードBallads

ノッペリとした「棒吹き」のオンパレード。

ピアノでムーディなバッキングを添えるマッコイ・タイナーの好サポートもあってか、アルバム全体が一応なんとか聴けないこともない仕上がりにはなっているものの(かなり「タルい」が)、1枚を通して聴けるだけの気力も体力も私にはない。

この『バラード』というアルバム、よく行くショット・バーでも頻繁にかかっているし、愛知県は甚目寺というところにある飲み屋や、岩手県は盛岡市内にあるコーヒーショップでもかかっていたぐらいだから、飲食店の格好なBGMとして重宝されているのだろう。

しかし私には、とてもBGMとしては聴き流せない。

聴いていて引っかかるところが多すぎるからだ。

高音域の不安定さ

先述した、私がコルトレーンのことを「音痴」だと思う根拠の一つが、高音の不安定さだ。

太く逞しく、演奏によってはエグい音色が持ち味のコルトレーンも、高音を出せば出すほど頼りない音色になってくる。ふにゃ~とした情けない音色に私は感じてしまう。

録音年代によって差もあるが(後期になればなるほど安定してくる)、高音の音程も不安定でなんとも頼りない限りだ。あの力強い《ジャイアント・ステップス》のコルトレーンが?と思わずにはいられないほどの情けなさだ。

もっとも、他のジャズファンからはコルトレーンの高音部の貧弱さについての指摘など聞いたことがないので、ひょっとしたら気になって気になって仕方のないのは私だけなのかもしれない。

ヨレヨレ感

よって、いまいち実感としてピンとこない人のために一つ例を挙げてみよう。

たとえばマイルス・デイビスの名盤『リラクシン』(Prestige)の《イフ・アイ・ワー・ア・ベル》でマイルスのソロパートから引き継がれたコルトレーンの一発目のソロフレーズだ。CDで言えば、2分37秒目の箇所。

もう、この「ヨレヨレ」を聴いただけでも私の心は萎えてしまう。

もちろん、この高音のヨレヨレを補って有り余るほどの素晴らしいプレイを彼は繰り広げているし、ジャズの巨人と称えられる彼のことだ、このヨレヨレも彼が演奏上に持ち込んだ「効果」の一つなのかもしれないが……。

高音がフニャフニャなことに手伝って、スローテンポの曲の吹き方がなんとも不器用っぽいので聴いていてハラハラしてしまう。

《ルビー・マイ・ディア》というセロニアス・モンクの名曲がある。

この演奏、ほぼ同じ時期にコルトレーンと、同じくテナーの巨人コールマン・ホーキンスがほぼ同じリズム陣で録音しているが(ピアノ=モンク、ベース=ウィルバー・ウエア)、両演奏を比較するとよく分かる。

『モンクス・ミュージック』でのホーキンスの吹奏は実に堂々としている。

セロニアス・モンク作曲の複雑な構造と奇妙な美しさが絶妙なバランスで同居したこの不思議な曲をホーキンスは臆することなく浪々と、そして堂々と吹ききっている。酸いも甘いも噛み分けた頑固オヤジから人生や人情の機微を含蓄ある言葉で語られているような気分になる。ちょっと立派過ぎる感じがしないでもないが、とにもかくにも雄弁で堂々とした吹奏なことは確かだ。

一方、『セロニアス・モンク・ウイズ・ジョン・コルトレーン』の《ルビー・マイディア》に耳を傾けてみよう。

「これって練習?」

初めてこの演奏を聴いた私は思わず叫んでしまった。

ベターっとした棒吹きだ。おそるおそる吹いている。

「間違えちゃダメだ、間違えちゃダメだ、間違えちゃダメだ!」とまるで自分に言い聞かせているように、とにかく「聴かせる」ことよりも「何とか無事にこなす」ことの方に頭が一杯なのではないかと思うほどの吹奏。

ホーキンスが演奏したような崩しも、自分の出す音に対しての確信も感じられない。慎重に慎重に、偉大な先輩モンクの曲を前にもたつき、自分を表現しきれずに、ただとまどいながら佇んでいる彼を聴いていると、聴くにしのびない。

ロリンズとコルトレーン

もう一つ例を挙げようか。

世評高いソニー・ロリンズの名盤『サキソフォン・コロッサス』の2曲目の《ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラブ・イズ》。

これを吹くロリンズはハード・ボイルドだ。

ロリンズは泣いていない。音はあくまで男らしく太く逞しい。

涙を表に出さないからこそ、逆にグッとくる。乾いた叙情がある。

そう、彼は背中で泣いているのだ。心で泣いている。

感情表現を排した人物描写に徹しているハードボイルド小説は、行間から主人公の生き様や葛藤、そしてセンチメンタリズムが漂ってくる。

まさにロリンズの《ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラブ・イズ》は、ハードボイルドを絵に描いたような演奏だ。

一方、コルトレーンの『バラード』での《ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラブ・イズ》はどうだ。

もう大の男が最初から情けないくらいにメソメソしている。聴くに忍びない。イジケるなよ、メソメソするなよ、と言ってやりたくなるぐらいだ。

この、ありのままをさらけ出す姿に惚れる人もいるのかもしれないので、単に好みの問題と言ってしまえばそれまでの話なのだが、この《ルビー・マイ・ディア》や《ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラブ・イズ》などは、他のテナーの巨人と比較してしまうのもちょっとコルトレーンには可哀想な気もしないでもないが、それでも同じ曲素材でも素晴らしい演奏を聴かされてしまうと、コルトレーンのバラード表現を聴いて出てくるのは溜息ばかりだ。

もちろん好きなバラードもある

さてさて、私の嫌いなコルトレーンのバラード演奏はこれぐらいにして、好きなバラードも紹介しよう。

まずは、プレスティッジの初リーダー作の『コルトレーン』収録の「コートにすみれを」。これはいい。大好きな演奏だ。

何がいいのかというと、コルトレーンのソロが終わった後に入ってくるレッド・ガーランドのピアノがとても良い。泣けてくる。

あれ?肝心なコルトレーンの演奏は? と、いうと、よく聴くとテーマは例によって慎重な棒吹き。あまり創意工夫が感じられないが、ものすごく悪いとも言えない。

アドリブは平均点以上という感じで、特にこちらに迫ってくるものは無いし、特筆すべき演奏上のアイディアといったものも特に感じられない。

まぁこの大男の不器用な訥々とした語り口があるからこそ、彼に華を添えるレッド・ガーランドのピアノが光るのかもしれず、これは相乗効果だということにしたい。

先ほどから私は「棒吹き」という言葉をたくさん使っているが、決して棒吹きで悪い演奏ばかりだとは限らない。棒吹きが逆に心に染みる好例が《エブリタイム・ウイ・セイ・グッドバイ》だ。

このコール・ポーター作曲の大変美しい曲、素晴らしい曲ゆえに余計なオカズやら遊びを一切排して「棒吹き」に徹するコルトレーンが私は大好きだ。

アルバム・『マイ・フェバリット・スィングズ』でソプラノ・サックスを初めて持ち、慎重に慎重に、そしてメロディを慈しむかのように吹くコルトレーン。この曲を演奏しているヨーロッパツアーの映像を観たことがあるが、肩幅がデカくて身長もデッカい大男が、ちょっと背筋をかがめて、一音一音を丁寧に吹いている姿はなかなか感動的だった。彼の不器用で誠実な人柄がよく出ているなぁと、音からも映像からも感じた。

私はこのコルトレーンの《エブリタイム・ウイ・セイ・グッドバイ》は個人的なコルトレーンのバラード演奏のベストに挙げたい。

この《エブリ・タイム・ウイ・セイ・グッバイ》は、独特な作風を持つユダヤ系白人作曲家、コール・ポーターの極端に明るくも極端に暗くもない、微妙な陰影を曲に添えている作風もあって、「最初から」良い曲には違いない。

また、伴奏をつけるマッコイのピアノの響きもノスタルジックでもある。

曲の素材や伴奏が良いのだから、素晴らしく聴こえるのは当たり前だという意見もあるかもしれないが、コルトレーンのソプラノサックスが胸を打つことは間違いない。

ロリンズよりコルトレーンの解釈のほうが良い曲もある

では、ソニー・ロリンズはどうか? 『ザ・サウンド・オブ・ソニー』ではロリンズも《エブリタイム・ウイ・セイ・グッドバイ》を吹いているが、まぁ早めのテンポ設定ということも手伝ってか、この曲のテーマを陽気なノリで吹くロリンズは、剽軽というか素っ頓狂というか何にも考えていないというか、笑ってしまうぐらいのスットコドッコイな演奏で、コルトレーンの同曲とはとても同じには感じられないほどの演奏だ。まぁ笑えるから良いのだけど。

ロリンズは天性の抜群のリズム感があるから、アクセントをつけたり拍をずらすのがとてもウマい。だからこそ、というか「G」の音が10音近くも連発される《エブリ・タイム・ウイ・セイ・グッドバイ》の前半部の起伏の無い旋律に、彼流のメリハリをつけようとしたのだろう。そのアクセントの付け方が逆に裏目に出てしまったように感じてならない。リズミック過ぎて、この曲特有の「情緒」のようなものがあまり生かされていないように思う。

先ほど、《ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラブ・イズ》でロリンズとコルトレーンを比較した際は、断然ハード・ボイルドなロリンズの方に軍配を上げた私だが、《エブリ・タイム~》に関しては、これはコルトレーンの方に軍配を上げい。

もっともコルトレーンはテーマしか吹いていないけど。アドリブのパートはすべてピアノが担当している。だがしかし、それでもいいのだ。必要が無いと判断すれば、無理してアドリブを取る必要は無し。テーマだけをデリケートに吹く。それだけでも十分に効果的だ。

ハード・ボイルドといえば、マイルス・デイビスの『いつか王子さまが』の《テオ(別名・ネオ)》のコルトレーンがハード・ボイルドだ。スパニッシュ・タッチの曲想も手伝ってか、まるで荒野をさすらう孤独な勇者といった面もちでソロを繰り広げるコルトレーンはとても格好良い。

中山康樹氏が「コルトレーンがこんなにカッコよく見えるのは、この曲ぐらいだろう」と書いてているが(笑)、なるほど、うなずける。こんなに大人で哀愁感たっぷりのコルトレーンはあまりないかもしれない(笑)。

コルトレーンという人、根っからの超真面目人間なのか、いつも演奏に臨む姿勢は「真っ直ぐ」で、とても「一生懸命」だ。

この「真っ直ぐ」さは、裏を返せば「愚直」ということだし、「一生懸命」は「野暮ったさ」、あるいは「軽やかさ」の欠如とも取れる。実際、重っ苦しい演奏が多いし、それがプラスに作用する場合もあるが、マイナスになってしまう場合も多いのでは?

コルトレーンは、ロリンズのように原曲をサラッとセンスよくイジくるような能力には長けていないし、端からそのようなアプローチを避けている節も感じられる。

難しいことなど一切せずにサラッと「普通に」吹くだけで、独特の味を出せるスタンゲッツのような風格もない。

だから、スタンダードのように何人ものジャズマンが名演を残しているような演奏をすると、当然ながら他のジャズマンの名演と比較されてしまって、私のようなイジワルな輩からは「あの曲はコルトレーンよりも、あの人の演奏の方がいいよ」と言われてしまうのだろう。

コルトレーンのオリジナルナンバー

ところが、自作曲はどうか?

自分が演奏するために作った曲だけあって、当然のことながら人の作った曲よりも数段自作のバラードは良い。

《ネイマ》にしろ《アイシャ》にしろ、曲も演奏も良い。

ともに両曲のコード進行は、ジャズのスタンダードに多い「ツー・ファイブ」進行ではなく、分数コードが多用されたモーダルな曲の構造だ。コルトレーンが得意とする曲の構造は、先人達がやり尽くした「ツー・ファイブ」的な構造よりも、一歩進んだモーダルな構造なのだと思う。

このような構造の曲こそが彼が水を得たごとく自由に表現出来る土俵だったのかもしれない。

長距離ランナーが短距離走では必ずしも実力を発揮しきれないのと同様、私が異物感を感じていたコルトレーンのバラード表現は、本来なら長距離走者の資質を持った者が、無理矢理短距離走に出場して実力を発揮しきれずにモヤモヤしている状態だった演奏のものが多かったのかもしれない。

愚直に、誠実にバラードを吹く。遊び心など一切無しで、一音一音を慈しむように。それが良い結果につながった『マイ・フェイヴァリット・シングス』の《エブリ・タイム・ウイ・セイ・グッドバイ》。

マイ・フェイヴァリット・シングス(モノラル・ヴァージョン)My Favorite Things

そして新しい表現土壌に乗っかって作り上げた『ジャイアント・ステップス』の《ネイマ》に、『オレ』の《アイシャ》など、自作のバラード。

Giant StepsGiant Steps

オレ!Ole

これらのいくつかのバラードは私はとても好きだし、真面目で愚直な求道者コルトレーンならではの味わいを感じることが出来る。

記:2001/03/26

『カインド・オブ・ブルー』の《ブルー・イン・グリーン》

そういえば、小川隆夫(筆頭執筆者)の『ジャズ超名盤研究』を紐解いていたら、ブランフォード・マルサリスのインタビューが掲載されていた。

マイルスの『カインド・オブ・ブルー』についてのコメントだ。

その中にこのような内容がある。

とくに気に入っているのが《ブルー・イン・グリーン》のソロだ。彼(コルトレーン)は一分くらいしか吹いていないけれど、あの中にバラード・プレイのエッセンスが凝縮されている。
コルトレーンのバラードといえばインパルスの『バラード』が有名だ。でも、このソロはそれ以上だ。

まさにその通りだと思うし、しまった、《ブルー・イン・グリーン》を忘れていた!と気付かせてくれる指摘でもあった。

《ブルー・イン・グリーン》はモードナンバーではないが、アドリブをとる際の土台となるコードの流れ、そして響きは、さすがビル・エヴァンスの作曲なだけのことはあり、非常に陰影に富んだ複雑、しかし美しい響きになっている。

コルトレーンのバラードプレイが映えるのは、どうやら、曲の素材やコードの響きが単純ではなく、ひとひねり、ふたひねりが加えられたもののほうが美しく響くのかしれない。

私だけかもしれないが。

追記:2018/07/10

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