武田和命~その叙情と潤いのバラード

   

sanpomichi

text:高良俊礼(Sounds Pal)

実に「秋」なアルバム

気が付けばシルバーウィーク、気が付けば9月後半、気が付けば秋である。

「秋といえばジャズの季節!」と、年がら年中ジャズを聴き狂っている人間がこう言うのはあまり説得力がないかも知れないが、毎年のように巡ってくる、この物悲しい季節にやっぱり特別と思えるジャズがある。

武田和命というテナーサックス奏者を知っている人はどれくらいいるか分からないが、もし、この記事を読んで「知らない、聴いたことない」という人がいたら、この人の『ジェントル・ノヴェンバー』というアルバムは、ぜひ聴いてほしい。

これはいわゆる「知る人ぞ知る和ジャズの名盤」「テナー・サックス・バラード・アルバムの至高の逸品」として、これまで多くを聴き込んで来たジャズファンから大絶賛されているアルバムなのだが、これが実に「秋」なのだ。

美しく歌うテナー

いや、本当にテナー・サックスという楽器で、これほどまでに繊細で、どこか切ない情感や人生の深みとともに、奏でられる「うた」の美しさを表現した作品があっただろうか。

そう思わせるほど、最初から最後の一音がやるせない余韻を残して消えてゆくまで、どの瞬間もうっとりするような深い陰影が呼吸をしているかのような、完全に別次元の音楽がここにある。

武田和命という人は、日本のモダン・ジャズ黎明期の1960年代後半から活動を始めているテナー・サックス奏者。

ジョン・コルトレーンに多大な影響を受けた、その繊細かるリリカルな感情表現に重きを置いた深いプレイは、デビュー当時からコアなジャズファンやミュージシャン達から高い評価を受けていたものの、多くの不運に見舞われて、ジャズから離れていた時期も長かったようだ。

70年代後半になってようやく、山下洋輔を中心に、彼の本当の実力を知る仲間達によって表舞台に呼び寄せられ、それからライヴを中心に精力的な活動を行っていたが、1989年、病によって49歳という短い生涯を閉じた。

根底から漂う潤い

「優れた才能と、聴き手を本当の意味で感動させるフィーリングを持ちながら、残された音源は本当に少ない」という言葉に惹かれて、私は武田和命の「最初で最後のリーダー作」である『ジェントル・ノヴェンバー』を買った。

バックを務めているのが山下洋輔トリオだったので、これはきっとフリー・ジャズのコテコテのアルバムだと思っていたが、ところがところが、出てきた音は本当に繊細で、純粋に美しく、そしてどの楽曲のどのフレーズも、音そのものが芳醇な香気をまとって天に昇ってゆくかのような、美しいバラード・アルバムだったことに、違う意味での衝撃を受けた。

最初に聴いて強烈に”似てる!”と思ったのは、ジョン・コルトレーンの名作『バラード』だ。

ライナノーツにも書いてある通り、仲間内で「武田コルトレーン」と言われていた武田のテナーの、中~高音域を軸に、丁寧に吹かれるフレーズには、確かにコルトレーンのバラード・プレイに通じるものがある。「コルトレーンのバラードみたいな名盤」の一言で説明しても、多分おおかたの人は納得して愛聴してくれるだろう。

だが、このアルバムを聴いて1年、2年と長く付き合っていくうちに、コルトレーンとは似てるけど根底にある強烈なオリジナリティが奥底から顔を出してくる。

例えばどんなにしっとりとしたバラードを吹いても、アメリカ人がやると(黒人白人関係なく)根っこのところでどこか乾いた感じの”唄”を感じさせるのに対し、武田和命のプレイはどこまでも叙情的で、音色も良い意味で湿っていて「あぁ、これが日本的な叙情というやつかも知れないね・・・」と、ひりひりとした痛みを伴う心地よい感動と共に思い至らせてくれるのだ。こんなアルバムはそうはない。

奇をてらったとか、何かを狙って演奏したとか、本当にそういったことは微塵もない、ただただ美しく潤う「唄」。

日本のジャズもいいもんだと、つくづく思い知らされる一枚だ。

記:2016/09/19

text by

●高良俊礼(奄美のCD屋サウンズパル

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