打ち込みジャイアント・ステップス
「何を」ではなく「誰が」
『桐島部活やめるってよ』という私が好きな映画があるのですが、その中で印象的なセリフがあります。
べつだん努力をしないでもスポーツや勉強がそこそこ出来てしまい、なんとはなしに彼女もいるという、いわゆる「スクール・カースト」の頂点に位置する高校生の役を演じる東出昌大が、放課後、暇つぶしに友達とバスケをしながら言うセリフです。
「できるやつは何をやってもできる、できないやつは何をやってもできないんだよ」。
これ、本当にその通りだと思います。
ある意味「できないやつ」にとっては、かなり残酷な言葉ですよね。
この言葉とは少し違うのですが、私はいつもこう思っています。
「何をやるか、ではなく、誰がやるか」。
あるいは、「何を言うか、ではなく、誰が言うか」。
まあ結局は、「出来るやつがやれば、なんでも良い」ということですし、「出来るやつが言えば、好意的に受け止められる」ということにも繋がるので、根っこの部分は一緒なのかもしれませんが。
これに近い内容は、こちらにも書いているのでご覧ください。
>>子どもに学ぶナンパのテクニック
つまり、たとえば、ナンパや口説き文句、それに営業のセールストーク、あるいは面接試験での応え方なんかがまさにそうだと思うんですけれども、「これを言えば絶対OK」という魔法の言葉なんていうものは存在しませんよね?
たとえば、私と同年代の福山雅治が顔をしかめて「さっぱりわからない(from『ガリレオ』)」と言えば、日本中の何十万人の女性が「キャー!」と黄色い歓声を上げるでしょうが、私が彼を真似して「さっぱりわからない」といったところで、多くの人々は「やっぱりコイツはバカだった」と深く頷くだけです。
言ってる言葉は同じです。
しかし、福山氏が言うか、それとも私が言うかで、受け手の評価はまったく違ってくる。
それはルックスや知名度も絡んでくるし、タイミングもあるでしょうし、そのセリフに至るまでの文脈や声の高低、抑揚など、様々な変数が絡んでくることは確かですが、それでも、一番大きく感想や評価を左右するのは、「誰」が言ったか、になるわけです。
ほんの数パーセントのヴァーバル(言語)コミュニケーションよりも、90パーセント以上はノン・ヴァーバル(非言語)コミュニケーションで人は好き嫌いなどの感情が左右されるとは、よく言われていますが、まさにその通りですね。
実際、周囲から評価されている人、あるいはイケメン、または、その「場」の鍵を握っている人物、そのコミュニティの頂点に位置する人などなど、暗黙に高い評価を得ている人物であれば、何を言っても周囲は少なくとも表面上では聞く耳を持ってくれるだろうし、納得もしてくれる可能性が高いのです。
反対に、「この人誰?」的な位置づけの人が、どんなに滅茶苦茶ありがたくてタメになる言葉を言ったとしても、「だから何?」となってしまう確率が非常に高い。
信頼関係が築き上げられていない人、一定の評価を得ていない人、コミュニティ内においての力関係では弱者に位置づけられている人というのは、残酷なことに周囲からは聞く耳すらもたれていないことが多いのです。
どんなに言っている内容が素晴らしくても。
いや、素晴らしいがゆえに、「あいつ生意気だ」と反感を買う可能性だってあるかもしれません。
だから、占い師は仰々しい格好をする人が多いし、昔だと予備校の先生にヤッちゃん先生というニックネームの佐藤忠志氏がいましたけど(あ、今は金ピカ先生でしたっけ?)、氏のような、いわゆるカリスマ講師は、あえて胡散臭いというか奇抜なルックスを身にまとい、己をアイコン化することによって、「怪しい、胡散臭い、しかしタダモノではなさそうだ」という評価を一瞬で築きあげるのですね。
もちろん、ルックスが怪しくなれば怪しくなるほど、賛否両論というか、嫌悪感をもよおす人が出てくるのでしょうが、もともと人間の好き嫌いなんてそんなもので、万人から好かれる人など存在しません。
むしろ、奇抜だったり派手な出で立ちは、嫌いな人を最初から切り捨てるためのフィルターとしての機能も果たすわけで、最初の段階からフルイにかけてしまえば、残りの人たちは、熱烈な信者になる可能性が高いわけです。
そして、熱烈な信者は聴く耳、というか心がオープンになっているので、自分が話す言葉のいちいちが砂に染みわたる水のように染みてくる。
だから、占い師も、教師も、コンサルタントも、セミナー講師も、金儲け講師にしても、新興宗教の教祖も、信じない者を早期の段階で切り捨て、残りの者たちを絶大な信者に育て上げれば「信ずる者は救われる効果」で成功率や的中率が飛躍的に高まるわけです。
平凡なルックスの占い師から「あなた、今年は天中殺ですね」と言われるよりも、インパクトのあるルックスをした占い師に「あんた、今年は大殺界よ!」と言われたほうが、ギョギョギョッ!と思わず魚クンのようなリアクションをとってしまいがちなのです。
内容は同じでも、それを発する人が異なれば、受け取り手が抱く感想は随分と異なるものになるのです。
「曲」ではなく「演奏家」
このことは、ジャズにおいてもお馴染みの現象だとは思うのですが。
つまり、原曲が暗いからって、必ずしも演奏が暗くなるとは限らない。
ジャズマンによってはエネルギッシュな演奏になるかもしれないし、あるいは原曲からは感じ得なかったほどの深い悲しみを誘うかもしれない。
《枯葉》や《オール・ザ・シングズ・ユー・アー》など、多くのジャズマンが今でも好んで演奏するスタンダード・ナンバーなどがまさにそうですよね。
原曲の意味やニュアンスを汲み取って演奏しようという姿勢のジャズマンもいるでしょうけど、多くのジャズマンは、自分の技量はセンスをアピールする素材として演奏することが多いので、「どの曲を演奏する」ということよりも、「どう演奏するか」のほうが大事になってくるわけです。
だから聴き手も「あのジャズマンだったら、どう演奏するのだろうか」という興味を持って演奏を鑑賞する。
もちろん、《奇妙な果実》や《レフト・アローン》のように、誰がどう演奏(歌唱)しても、同じような印象にならざるを得ないナンバーもあるにはありますが、多くのスタンダードナンバーは、曲も大事かもしれませんが、むしろ誰がどう演奏するかのほうがジャズ好きにとっては興味の対象なのです。
まさに、「何を(曲)」ではなく「誰が(演奏家)」です。
ジョン・コルトレーンという人
ジョン・コルトレーンって、おそらく多くの人々にとっては共通したイメージが持たれているジャズの巨人だと思うんですよ。
「努力家」であったり、「凄まじいテクニック」だったり、アドリブの音符の数が異様に多い「シーツ・オブ・サウンズ」だったり、と。
そして、コルトレーンのアルバムのジャケット写真の多くが、笑顔のポートレイトはほとんどなく、苦しそうな表情を浮かべてサックスを吹いていたり、何やら思索にふけっている哲学者のような写真が多いので、そのビジュアルから来るイメージも手伝い、マジメな人、何かを深く探求している人、音楽哲学者というイメージが音楽とともに相乗効果として、「コルトレーンって凄い人」というイメージが大きくなっていくのでしょう。
『ブルー・トレイン』のジャケットのように、ミントキャンディをレコーディングの合間に舐めている写真ですら、トリミングとデザイン次第では「何か意味ありげな」オーラを放つので、それはそれで大したものです。
もちろん、ジョン・コルトレーンは凄い人であり、真剣に音楽を探求しまくった人です。
ものすごい勢いと熱量で演奏スタイルを深化させ、後進に与えた影響ははかりしれないことは誰もが認めるところです。
しかし、だからといって、コルトレーンが演奏するすべての曲のすべての「曲」が、辛気臭くて壮大で、ご立派だとは限りません。
メリハリあってむしろ明るい《ジャイアント・ステップス》
たとえば《ジャイアント・ステップス》。
これ、コルトレーンがアトランティックに吹き込んだ演奏を聴くと、もう開いた口がふさがらないほどの音符の数と気合いです。
譜面にビジュアル化された、画像をご覧になれば、それは一目瞭然でしょう。
もう、それはそれは、目で追いかけるのも大変なほどのスピードと音符の数、そして楽理に詳しい方なら、きっと、その適切なノート(音)を選択するセンスに目を見張ることでしょう。
おそらく、そのアドリブのほとんどがストックフレーズなのでしょうけれども、それにしたって、ピアノのように指を動かすだけで音が出る楽器ではないテナーサックスに、猛然と息を吹き込みながらのフィンガリング(指使い)なわけですから、ものすごい体力と集中力とテクニックが必要になってくることは、楽器やジャズに詳しくない人でも、上記映像を見ながら聴くだけでも、「大変なことが起きている」ことはお分かりいただけるのではないかと思います。
でもね。
「大変なことが起きている」演奏だというのは、あのコルトレーンが演奏しているからということも大きいんですよ。
《ジャイアント・ステップス》という曲自体は、非常に数学的というか、とても理論的にも整然としたコードチェンジで、発表当時は斬新な「コルトレーン・チェンジ」であったことは確かなのですが、とても理路整然とした楽曲構造となっているんですよ。
少なくとも、後年コルトレーンが突入していく「モードジャズ」のように、曖昧な不純物的な要素が混入される余地のない、カッチリとした構造を持った曲なんですね。
しかし、さすが完璧主義者のコルトレーン、このようにコード進行がキッチリと作りこみ、それを早いテンポで演奏すると、めまぐるしく、コードの響きが具体的な景色や色が移り変わるようにクルクルと回転し、それこそ、ピアノやギターなどのコード楽器でコードの流れを追いかけると、かなり鮮やかでカラフルな世界にすら感じてしまうんですね。
理路整然としているということは、「起承転結」のメリハリがものすごくハッキリしているということで、しかも1コーラスが短い16小節という短い尺の中に「起承転結」の要素が盛り込まれている上に、さらにそれを速いテンポで演奏するので、「起承転結」ではなく、「起!承!転!結!」とメリハリがものすごく際立ち、もう「起!承!転!結!」どころか、「白!黒!白!黒!白!黒!」と、曲のハーモニーの輪郭の明暗が強烈なほどに音としてパキッ!と浮彫りになっているのです。
それは、他のジャズマンたちが演奏した《ジャイアント・ステップス》を聴いてもらえればお分かりになると思うのだけれども、むしろ「明るい」。
テテ・モントリューの《ジャイアント・ステップス》にいたっては、スピード感とともに爽快ですらある。
しかし、コルトレーンが演奏すると、どこかパワフルで重たく、モノトーンなイメージがついて回るのは、これぞコルトレーンだけが持つ特有の雰囲気なのでしょう。
つまり、「何」を演奏するか、ではなく、「誰」が演奏するか。
スティープル・チェイスの『ダブル・ベース』で、ギターのフィリップ・カテリーンが奏でる《ジャイアント・ステップス》のギターソロは爽やかだが、コルトレーンの《ジャイアント・ステップス》は決して爽やかではなく、それなりの重量感というか精神的な重さやパワーまでをも感じさせてしまう。
これぞ、「コルトレーン効果」の何ものでもないでしょう。
それだけ、コルトレーンはサウンドに込める重さのようなものやシリアスなものが音の佇まいとして滲み出てしまう。
同じ複雑なフレーズでも、マイケル・ブレッカーがテナーで吹けば、同じ内容でも、随分と違うニュアンスになるはずです。
だから。
マイケル・ブレッカーはコルトレーン派とされていますけれども、そのように分類される理由は、コルトレーンが用いたメカニカルなフレーズをそっくりそのまま継承しているからなのですね。
音の表面、つまりフレーズ(音の並び)のコピーから出発しているから似ていると感じる人が多いのです。
しかし、その一方で、ブレッカーはコルトレーン派ではないと主張するジャズマンもいて、それは、スピリチュアルジャズ系の黒人テナーサックス奏者、そう、アーチー・シェップだったと思うけれども、彼いわく、表層的な音はコルトレーンそっくりだけれども、「音から伝わる精神性のようなものはまったく異質なものである」とインタビューでは応えています。
どちらの考え方も正しいのですが、捉えるポイントが異なると、解釈もまったく違ったものになってくる。
つまり、同じ営業トークでも、営業マンが違えば、相手に与えるニュアンスはまったく違い、売る人は売るけど、売れない人はまったく売れないという現象と同じなのでしょう。
本当、音楽もトークも、「何を」よりも「誰が」のほうが大事だということは共通していますね。
だからこそ、私が感じた《ジャイアント・ステップス》に感じた整然とした小気味良さを自分なりに表現するとどうなるのか?という試みで作ってみたのが、こちらの《打ち込みジャイアント・ステップス》なのです。
同じだけど違うのだ
同じコルトレーンの曲でありながらも、コルトレーンの演奏から漂うニュアンスとは対極のニュアンスを出したかった。
というか、ノーテンキな私が作れば、そうならざるを得ないんだけれどもね(笑)。
でも、一応、実験ということもあるので、音色もイヤになるほど爽やかでブライトなのばかりを選んでみました。
使用機材は、ほぼヤマハのV50だけだったような。
エフェクターやデジタルパーカッションも同期させて使ったような記憶もあるのですが、なにしろ、細かいことを考えずに、かなり短い時間でチャチャッと作ってしまったので、録音当時のことはあまり覚えていないのですよ。
これをカセットテープ式のMTRに録音したのですが、最近そのカセットテープが見つかったので、思わずYouTubeにアップしてみたのです。
録音したのは、たしか1995年頃ですから、今から20年以上も前のことなのですね。
ただ、時間が経っても、私がコルトレーンの《ジャイアント・ステップス》を聴いて感じた印象は、それほど変わっていません。
重厚長大なコルトレーンが演奏すると、あのような《ジャイアント・ステップス》になり、軽薄短小な私が《ジャイアント・ステップス》を打ち込むと、こんなに「アホ~」な感じになっちゃう。
まさに、「曲」じゃなくて「人」なんですね。
そういう「当たり前なこと」を改めて認識することが出来た貴重な体験でした。
記:2016/03/23