キャノンボール・アダレイの好演盤/イン・シカゴ

   

in chicago

text:高良俊礼(Sounds Pal)

ジュリアン

キャノンボール・アダレイという人を「ファンキーで泥臭い、っつうよりも脂臭いアルトしか吹けない不器用なミュージシャン」だと長年誤解していた。

何しろあの「ぬぼ~」とした風貌である。着物でも着せれば往年の高砂部屋所属の巨漢力士かと見まごうような恰幅の良い体格である。

どう贔屓目に見ても器用に何でもこなせたり、艶やかな音色で流麗なフレーズを響かせるような人には見えない。

本や雑誌を見れば「ファンキー・アルト」や「ファンキーの云々」で、彼のイメージはほぼ固定。ダメ押しで個人的なことを言わせてもらえば、最初に買った彼のアルバムが『マーシー・マーシー・マーシー』、次に買ったのが『イン・サンフランシスコ』という、豪快直球勝負盤。

これで完全に、私の中での“キャノンボール・アダレイ像”が固定した。

ワルノリついでで「Jullian Cannonball Adderley」という表記を見付けては「おぉい、その芸風で“ジュリアン”はねーだろー」とツッコんだ私。

ところがこのキャノンボール・アダレイという人、私が思っていたよりも遙かに器用でしかも繊細な人だった。

キャノンボール センチメンタル

ファンキーでイケイケな吹きまくり作を何枚も出す一方で、マイルスの『カインド・オブ・ブルー』では何とも物憂げで煌びやかなソロを吹き、セルジオ・メンデスと共演したブラジリアン・アルバムでは爽やかでよく伸びるキャラクターへと変貌し、ビル・エヴァンスとの共演盤ではナイーヴでセンチメンタルな好演を繰り広げる。

これらを聴いて私は大いに反省した。

「アンタ、やっぱり“ジュリアン”だわ」

キャノンボール・アダレイ・クインテット・イン・シカゴ

で、極めつけは本作である。

『キャノンボール・アダレイ・クインテット・イン・シカゴ』。

コルトレーンとの共演盤、というよりも「親分抜きでコッソリ行った、マイルス・バンドの息抜きセッション」と言った方がしっくりくる。

熱く燃え上がりながらもリラックスしたプレイを、キャノンボール、コルトレーンの両者は元より、バンド全員が繰り広げている。マイルスバンドでの、あのピーンと張り詰めた緊張感はどこへやら、至極楽しく爽やかな作品だ。

アラバマに星落ちて

ここでのキャノンボールは、まぁよくぞここまで“唄”が出てくるものだなぁと感心して呆れるほど流暢に、そして軽やかに吹きまくっている。

コルトレーンと火花を散らすアップ・テンポの曲の調子の良さは言わずもがなだが、聴き込んでくるとジョニー・ホッジスばりのメロディアス・アルトをワン・ホーンでじっくり聴かせるバラードの《アラバマに星落ちて》に病みつきになる。

巧みな演奏テクニック、展開の先を読んで的確に繰り出されるアドリブ、ここまでなら「ただの巧いアルト吹き」だが、“もちっ”とした人なつっこい音色がサウンドに人情味をプラスする。この音色がきっと、共演者を和ませる不思議な力を持ってるんだなぁ。

『カインド・オブ・ブルー』でも、ひたすらダークで張り詰めた音を出すマイルスとコルトレーンの間で、一人バップの根っこを感じさせるスルスルと湧き出るようなフレーズで見事にアルバム全体のバランスが「陰一色」にならないようコントロールしていたキャノンボール。もしもあのアルバムに彼がいなかったら、その内容の濃さ、芸術性の高さは認めつつも、そんなに頻繁に聴くアルバムにはなってなかっただろう。

コルトレーン バラード

『キャノンボール・アダレイ・クインテット・イン・シカゴ』のもうひとつの聴きどころはやはりコルトレーン。

目一杯リラックスして伸び伸びと吹きまくるアダレイ同様、彼も気持ち良~く吹いている。

リラックスできないのがコルトレーン最大の長所であり欠点でもある訳だが、ここでは怖い怖~い親分がおらず、タメ口でしゃべれる気の合う仲間ばかりのセッションであるからか、“あの”コルトレーンのプレイから、いつもの神懸かりな“陰”の勢いの凄まじさとはちょっと違う、陽気な調子の良さが感じられるのだ。

コルトレーンのワン・ホーン曲《ユー・アー・ア・ウィーヴァー・オブ・ドリームス》も、いつもの訥々とした感じより、ちょっと心オープンにしたような自信あり気なバラード演奏に思わずニヤッとしてしまう。

全編を通してゴキゲンなバッキングで華やかさを提供しつつ、締めるところはキッチリ締めているウィントン・ケリーのピアノも素晴らしいので、フロントをなめるように聴きまくった後は、ぜひピアノにも耳を傾けていただきたい。

記:2014/10/04

text by

●高良俊礼(奄美のCD屋サウンズパル

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