ケータイいぢる人たち
2015/08/06
昨日、電車に乗りました。
座席が空いたので座りました。
読みかけの文庫本を取り出して、隣に座る人の様子をチラリと伺うと、私の両脇に座っている女性OLは2人とも携帯電話(以下、ケータイ)をカチャカチャと操作していました。
私の向かい側のシートの3人もケータイをカチャカチャと熱心に操作していました。
つまり、私の周囲は、全員携帯を操作している人たちばかりの状態だったのです。本を読んでいるのは私だけ。
つまり、こんな感じ。
携 携 携
携 私 携
なんだか妙な違和感を感じました。
べつに私はケータイ否定論者でも、携帯電車でやるな論者でもありません。
しかし、なんだろう、妙な違和感を感じたのですね。
皆、必死にカタカタと携帯のボタンを押しているのです。
メールを書いているのか、ゲームをやっているのかよく分からないけれども。
気にしても仕方がないので、私は本を読み進めました。
しばらくすると、私の向かい側の人が降り、年配のサラリーマン風の人が空いた席に座りました。
彼はカバンから文庫本を取り出し、読み始めました。
携 本 携
携 私 携
という状態ですね。
向かい側のサラリーマンの方が読んでいる文庫本を見ると、私と同じ皮製の文庫カバーをしていました。
おお、この人も皮製のカバーをつけて読んでいるのかと思うと少し嬉しくなりました。
紙にインクで文字が印刷されたメディア、本。
これに比べると、通話機能のみならず、メール、電卓、ゲーム、メール、音楽再生までも出来る携帯電話は、はるかに進んだハイテクの権化ともいうべき“進んだ”道具です。
しかし、ローテクの本を読む人よりも、“進化”した機械をカチャカチャと夢中になって操る人のほうが“退化”した人に見えてしまうのは何故でしょう?
機械を“持たされた”サル?
う、…それは言いすぎか。
でも、なんだか持っているというよりも持たされている感じがするのですよ。
自発的に携帯を操作しているというよりも、
“持っているから使っている”、
“することないから、取りあえずいじっている”
という受動的な感じがする。
その点、本の場合は自らページをめくっていかないと先が進まない。
先を知りたい、先を読みたいという好奇心がないとページはめくらないわけで、ページをめくるという作業は、かなり“能動的”な作業なんじゃないかと電車の中でふと考えていました。
そういえば、さっき私は携帯否定論者じゃないと書きましたが、それは半分ウソです。
つまり、飲み会や食事中に携帯をいじるバカ女が最近増えてきているような気がするのですが(私はそういうアホとは飲まないので、あくまで周囲を見てそう感じただけですが)、このようなアホ女に関しては“そんな時ぐらい携帯いじるなよ”論者です。
女を退屈させる男にも問題があるのかもしれませんが、女もTPOわきまえろよ、です。
仕事中や、大事な連絡を待っているのならば仕方がない。けれども、そういうときは、「ちょっとゴメン、急ぎの用があって」ぐらいの一言フォローがあると無いとでは大違いだと思います。
ケータイという便利な道具を作り出した人間は凄い動物です。
しかし、この便利な道具に振り回されている人間は、同時に愚かな動物なのかもしれません。
記:2006/06/17