アセンション/ジョン・コルトレーン

      2021/11/28

決して「突然変異」というわけではない

録音日は、『トランジション』から18日後の録音となっている。

タイトルの語尾が似ているからか、録音時期が近いからなのか、『アセンション』は、なにかと『トランジション』と比較されやすい。

ジャズ関係のサイトをいくつかめぐり、これらのアルバムに関してのレビューに目を通すと、世間的な一般認識は、大雑把にまとめると下記のごとくになる。

コルトレーンは、『トランジション』までは、調性の世界で音楽していたが、この作品を最後に、無調への領域、すなわちフリージャズに乗り出した。その試みが『アセンション』なのだ

なるほど、もっともらしい説ではある。

より過激な音と、めまぐるしく変貌と遂げてゆくコルトレーンのサウンドを「調性」と「無調性」といった具体的な音楽的方法論に関連付けて語っているので、なんとなく説得力がある。

さらに、多くの人は以下の感想も、オチとして最後に付け加えている。

『トランジション』まではなんとかついていけるが、『アセンション』以降のコルトレーンにはついていけない。

なるほど。

多くの人は、ボブ・ディランがアコースティックからエレキに持ち替えたぐらい、コルトレーンのサウンドは『トランジョン』と『アセンション』を境に大きな変貌を遂げたと感じ、上記2作品には大きな断絶があると認識しているわけだ。

サウンドの触感と、「フリージャズ」なる恐ろしい(?)キーワードが聴き手に大なり小なり抵抗感を与えているのだろうということは、容易に想像がつく。

もし「フリージャズだから」という理由で『アセンション』を敬遠している人がいるとしたら、私がその抵抗感を取り除いてあげましょう。

ズバリ!『アセンション』はフリージャズではありません。

もちろん、フリージャズという言葉の定義にもよるんだけれども。

仮に、「無調」と「小節をとっぱらった自由なリズム」ということがフリージャズを定義づけるものだとすると、残念ながら(?)『アセンション』はフリージャズではありません。

だって、有調です。無調じゃないんですから。

ベースやピアノをよく聴いてごらん。

『トランジション』以前のコルトレーンの作品と比較すればたしかに、調性感をつかむのは少し難しいかもしれないが、それでも、マッコイ・タイナーのピアノも、ギャリソンやアート・デイヴィスのベースも、執拗に、一つのトーナル(調性)を送り出してますよね?

この調性感を元に多くのホーン陣は自由にソロを取っているわけです。

ベースとピアノが作り出すハーモニーが、この曲の骨格であり、太い一本線なのだ。

この絶えず発散される響きに対して、管楽器奏者が各人ソロを取っているわけ。

ソロ奏者にとってはある種のガイドラインでもあり、演奏においては、調性の破綻を食い止める最後の壁でもあるのだ。

もちろん、ファラオ・サンダースのように、明らかに調性から逸脱した音を選択する管楽器奏者も中にはいるが、「フリージャズな人」が演奏に参加しているからといって、即、その音楽がフリージャズになるというわけでもないでしょう。

演奏の構造そのものは、従来のコルトレーンミュージックと何ら変わることがなく、堅実なのだから。

たしかに聴こえ方の印象は違うけれども、手法的には『オレ』や『トランジション』の方法論と同じなんだよね。

つまり、コルトレーン流モード奏法。

これが骨格。

あとは、うじゃうじゃと大勢の管楽器奏者がこれにぶら下がっただけの構造に過ぎない。構成は、わりかしシンプルなんです。

管楽器が増えたぶん、一斉に鳴らす箇所が、随所に設けられる。

そして、その一斉に鳴らす箇所の自由度が高いがために、サウンドの肌触りが、フリージャズに近く感じることは分からないでもない。

たしかに騒々しいからね。

しかし、騒々しいからといって、それが即フリージャズにはつながらないことは言うまでも無い。

次に、コルトレーンのサックス・ソロもよく聴いてみよう。

ソロの構成、内容は、驚くほど『トランジション』に似てませんか?

音の激しさやフラジオによるロングトーンはさらに増しているかもしれないが、音の「タッチ」は違えど、音の「内容」はそれほど変わっているわけではない。

もし、このコルトレーンのサックスが「無調」で「フリー」なのだとしたら、『トランジション』もフリージャズといわなければならない。

リズムも比較的オーソドックスな4ビート。

エルヴィンのドラムもポリリズミックながらも、きちんと拍も小節も抑えております。

もちろん、管楽器がブロウしまくる壮大なイントロは、ステディなリズムを刻んではいないけれども、4分目を過ぎたあたりから、つまり、コルトレーンがソロに突入したあたりからは、前作『トランジション』や『至上の愛』に近いコルトレーン流4ビートが炸裂するのだ。

もしかして、『アセンション』をフリージャズだから云々と言っている人は、この演奏を最後まで真剣に聴かずに、壮大なイントロの箇所を聴いただけで、早々と「フリージャズだ!」と判断を下してしまっているのでは?

最後まで聴けば分かるけれども、出だしの「管楽器の鳴らし放題大会」はテーマのようなもので、これが終われば、いつものコルトレーンカルテット流の4ビートにサウンドが少しずつ収斂してゆくのだ。

だから、明らかに『アセンション』は、従来のコルトレーンミュージックの延長線上にあるサウンドで、突然変異をおこしたわけじゃない。

言ってみれば、管楽器奏者の人数を増やして武装強化した『トランジション』とでも言うべき内容で、きちんと前作からの流れや骨格を受け継ぎつつ、発展させようとしているに過ぎないのだ。

だいたい、たったの18日の間に、音楽性までもが、そう簡単にガラリと変わるわけないじゃないですか。

核となるメンバーも同じなわけだし。

冒頭のアンサンブルが無茶苦茶っぽく聞こえるからフリージャズと分類してしまう気持ちは分からぬでもないが、それっていわゆる印象批評。

きっと、世評の受け売りか、1、2回聴いただけで、「あー、騒々しい、こりゃダメだ、フリージャズだわ」と判断して、あとはめったに聞かなくなっているだけなんじゃないでしょうかね。

そういう人には、子供だましかもしれないけれども、まずは、『アセンション』はフリージャズじゃない、加筆増補改訂版の『トランジション』なのだということを、まず「言葉」として認識したうえで、もう一回『アセンション』を聴き直してみることをオススメしたい。

意外と言葉による呪縛というものは怖いもので、「幽霊じゃないんだよ、柳なんだよ」の一言で、夜道の認識が変わったりもするのだ。

「フリージャズ」という言葉に、「なんだか騒々しいワケわからない難解なサウンド」というイメージを持っている人は、「フリージャズ」という言葉の憑き物落としをしてしまいましょう。

だって、実際、フリージャズじゃないんだから。

「フリージャズ的」という形容なら分かるけど。

コルトレーンは、生涯に渡ってフリージャズをやらなかった人なんだよ。

ただ、自己の方法論や表現方法を突き詰めてゆく過程で、“結果的に”出てくる音が、フリーの連中と似てしまっただけなんだから。

この認識を持って『アセンション』に再度対峙すれば、もう少し身近に聴こえてくるのではないだろうか。

私個人は、『アセンション』、結構好きです。

少なくとも『バラード』よりは、全然良い(笑)。

単純に、サウンドがエグくてカッコいいなぁと思いながら、時々だけど聴き返しています。

最近では、フレディ・ハバードとマリオン・ブラウンの演奏に注目している。

ハバードに関しては、言い方悪いけれど、「無理しちゃって」と思う。

周囲の連中に負けじとばかりに、ハイノートを連発しまくっている。

ただ、吹いている内容自体は、構成も起承転結もへったくれもなく、単に高音を吹きまくることに終始している感が否めない。

ただ、その気迫には凄いものがあるが。

それに比べれば、マリオンブラウンのソロは、意外とメロディアスなことに気がつく。

最初は、管楽器が一斉に「パラララ~、パラララ~」とくるので、そっちの方ばかりに耳が行ってしまうかもしれないが、慣れてくると、テーマ終了後の各人のソロにも興味が向くようになってくるはず。

そうなれば、シメタもの。

『アセンション』がグッと身近に近づいてくるはずだ。

記:2005/04/25

album data

ASCENSION (EDITIONⅠ) (Impulse)
- John Coltrane

1.Ascension(EditionⅠ)PartⅠ
2.Ascension(EditionⅠ)PartⅡ

John Coltrane (ts)
Freddie Hubbard (tp)
Dewey Johnson (tp)
John Tchicai (as)
Marion Brown (as)
Pharoah Sanders (ts)
Archie Shepp (ts)
McCoy Tyner (p)
Jimmy Garrison (b)
Art Davis (b)
Elvin Jones (ds)

1965/06/28

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追記

昔読んだ小川隆夫氏・著の『ジャズマンはこう聴いた!珠玉のJAZZ名盤100』をパラパラとめくっていたら、アーチー・シェップのインタビューが掲載されていた。

シェップは、『アセンション』に参加したジャズマンの一人なので、彼が語る当時のレコーディングの模様に関しての証言は非常に興味深い。

要約すると、以下のようになる。

『アセンション』のレコーディングにスタジオに行ったら、ジョンは譜面を用意していた。譜面には音符とコードがしっかり書き込まれていた。
⇒やっぱり!

したがって、自由に吹いてはいるが、きちんとした制約の中での自由である。
⇒やっぱり!

フリージャズではないし、自分には整然とした音に聴こえる。
⇒やっぱり!

私が「《アセンション》って、どう考えてもフリージャズじゃないよな~」と長年感じていたことをシェップの証言が裏付けてくれた気分だ。

シェップは、「とはいえ、ジョンの意図を理解はしたが、頭で理解してはいても、自分のプレイが追いついていなかった」ということも述懐している。

演奏が混沌として聴こえるのは、おそらくシェップをはじめとした管楽器プレイヤーの戸惑いが音となって出ているからなのかもしれない。

というのも、譜面を渡され、簡単な説明を受けたあと、すぐにレコーディングに入ったようだから。

そして、ジョンの意図をもっとも理解していたのはマッコイだったと語っているのも頷ける。

「無調」どころか、暑苦しいほど「調整感」が漂いまくるマッコイのピアノこそが、多くの管楽器奏者が道を踏み外さないための「音の道しるべ」となっていたのだろう。

管楽器がドロドロと咆哮している⇒何がなんだかわからない⇒フリージャズだ!

このような安直な(?)決め付けは、何か不可解なことがあると、すぐに「これは妖怪のしわざに違いない!」と、なんでもかんでも妖怪に結びつける『妖怪ウォッチ』の主人公のようではある。もっとも『妖怪ウォッチ』の場合は、本当に妖怪がいるのだけど。

「わけがわからないもの=妖怪」というような文脈で使われてしまっているフリージャズという用語が少し可愛そうではある。

記:2015/09/08

 - ジャズ