お絵かきラッパ~マイルス・デイヴィス
2017/05/19
Miles Davis: The Collected Artwork
マイルス・デイビスのトランペットを一言で言ってしまえば、「お絵かきラッパ」だ。
彼はラッパで様々な絵を描く。演奏に豊かな表情をつける。
このスタイルだけは、終生一貫して変わらなかった。
バックのリズム隊のアプローチは時代とともにめまぐるしく変わったが、マイルスにとって、それは画家がキャンパスの素材を変えるようなものだ。
プレスティッジ時代のマイルスしか聴かない、『ビッチェス・ブリュー』以降のマイルスは認めないとのたまう方々も多い。
しかし、私は彼のデビュー時から死ぬ間際までの演奏すべてが好きだ。
節操がないのか?
あるいは、彼を深く理解していないのか?
最初は自分のマイルスに対する接し方があまりに不真面目なのではないかとも思った。何となく「~時代以降はダメだよ」的な評価を下した方が接し方にポリシーがあるように見えたからだ。
しかし、よくよく考えてみると私は、マイルスをジャズとして聴いていないということに気がついた。別に本人が「俺の音楽をジャズと呼ぶな」と言ったからではない。
「マイルスとして聴いている」。
この当たり前な事実に気がつくまでには、少々時間を要した。
彼は時代の節目節目の一番おいしいスタイルを貪欲に吸収して、マイルス流の料理を施してきたにすぎない。もちろん料理の方法は異なるが、一つ変わっていないことがある。
いつも彼の発するラッパのトーンは重く深かった。
デビュー当時のマイルスの音色ですら、すでにその片鱗がうかがえる。
ハイトーンや高速パッセージが最初から「売り」ではなかった彼のスタイル。どの時代のレコーディングを聴いても、重く鈍い艶消しの色彩が濃厚にマイルス臭が漂ってくる。
フレーズ云々を論ずる以前の、絶対的な「音色」による存在感。
これが彼を「帝王」たらしめた最大の武器だったのだろう。
マイルス自身も音色には相当心を砕いていたに違いない。彼作曲の有名曲「マイルストーンズ」。
タイトルからにして「トーン(音色)」だ。
この言葉がよほど気に入っていると見えて、彼はデビューしたての頃にチャーリー・パーカーと共演しているトラックにも「マイルストーンズ」という同名異曲がある。つまりトランペット奏者としてのキャリアの最初から彼は音色には強いこだわりを持っていたのでは?と勘ぐるに充分なタイトリングだ。
彼のラッパはまるでペインティングの筆だ。
あるときはデリケートな水彩画のように(『カインド・オブ・ブルー』)、そしてあるときは濃厚に幾重も色彩を重ねる油絵の筆(『ゲット・アップ・ウィズ・イット』)。
彼率いる優秀で忠実なシモベたちの作り上げた精巧かつ緻密なデッサンにマイルス画伯が最後の一筆をおろす。
「画龍天晴を欠く」というが、マイルスのラッパはサイドメンの描いた精巧な「龍」の目におろす最後の一点なのだ。
彼の一筆で世界がガラっと変わる。
本当に一筆だけの演奏もある。
それどころかまったく演奏に参加しなくても、ただ「そこにいる」という存在感だけでもサイドメンの演奏が驚くほど緊張感に満ちたものになる。だから私は、いつもマイルスを聴くたびに老練で神がかった画家をいつも連想してしまう。
マイルスは晩年はペインティングに熱中していたが、納得のいく話ではある。
音楽にも絵にもトーンの美学と配列の美学がある。
トーンの美学とは絵画では色彩、音楽では音色。
配列の美学とは流れる時間の中でのタイミング。
セロニアス・モンクは時間の位相をズラすタイミングの魔術師だったが、マイルスは別の意味でのタイミングの達人。
モンクはどこまでも理性的、そしてマイルスの場合は多分に感覚的。
細分化された時間を深く追求する姿勢は、コンマ秒以下のタイム競うストイックな陸上競技者を彷彿させる。研ぎすまされた鋭敏な感覚と肉体から、これ以外はあり得ないというタイミングで鋭く重い一音が放たれる。
私は心の奥を鋭く突き刺すマイルスのミュートも好きだが、どちらかというとオープンミュートから発せられる重く深い音色が好きだ。静かで深く暗い森を匂わすトーンは絶望の世界と夜の深淵の一歩手前。
ああ、なんて深いんだ。
マイルスの素晴しさは音色にある。
マイルスのアルバムを持っている人は、どれでも良い、スタイル以前にとにかくもう一度彼の音色に耳を傾けてみよう。
記:1999/11/21