セロニアス・モンクについて『ジャズ批評No.94』の記事に反論
2018/09/15
「歴史」と「理論」
物事を表現するにあたって、そしてその対象を習得・学習する過程において、避けては通れない事柄がある。
一つは歴史。そして理論だ。
歴史。
先人の軌跡を学習し、現在の自分の表現の座標軸を確認、あるいは先人の表現や思想を拡大発展させるための布石として学ぶ。
理論。
先人の表現内容を採集・分析して一定の法則を見い出したものが理論。法則といっても良いのかもしれないが、これは絶対的なものではない。あくまで統計学的な集積結果による最大公約数的結果論。
「~の場合は、~したほうが良い」。といった指標にすぎない。
「~したほうが良い」は必ずしも「~しなくてはいけない」ではない。
しかし、これを絶対視するアホもいることもまた事実(後述)。
上記2つは全く無視して通っても、受け手に評価されさえすれば、必ず吸収しなければいけないものではない。
しかし、送り手側のコンプレックスやハクつけといった心理的な要素もあるのだろう、出来れば身に付けておいたに超したことがない、といったような強迫観念が常につきまとうこともまた事実だ。
守破離
前提として、ここで表現をする上でよく使われる言葉の確認をしておこう。
「守破離」。
「しゅ・は・り」と読む。
知らない人のために、ちょっと説明を。
守:師承の教えやお手本を一生懸命に吸収する時期。
破:「師承色に染まった私」、「お手本のコピーな私」の殻から脱却する時期。
離:あらゆるモノから離れ、表現者として独自の境地に至る時期。
前提として、もう一つキーワードを。
「定型を熟知し、崩しを知る」。
ちょっと歪んでいたり、イビツなカタチをした陶芸品を思い浮かべて欲しい。
これらのものを作った人間は「左右対称」の作品を作れないわけではない。何年もの修行を重ねてきた彼らのこと、左右対称で整った「だけ」の作品を作ることなど朝飯前のことだ。この当たり前な「基本事項」をクリアした上で、始めて「遊び」と「冒険」の世界に踏み出せるわけだ。
「守破離」を歩んだモンク
さて、セロニアス・モンクという人は、言うまでもなく「離」の境地に至っているピアニストだ。
あのようなスタイルだが、彼も「守破離」の道程を忠実に歩んでいる。
10代の時分の演奏を聴いたメリー・ルー・ウイリアムスをして、「ジェームス・P・ジョンソンばりの目も眩むほどのテクニックを駆使したピアノを弾いていた」と言わしめたほどのモンクのピアノだ。先人のスタイルを吸収消化し、後にあのようなスタイル(離)に至ったのは想像に難くない。
「離」の境地に至った人間の表現には独得な風格と味がある。
モンクのピアノのスタイルがまさにそうだ。
含蓄のある表現、風格のある表現、酸いも甘いも嗅ぎ分けてきた人間や修羅場をくぐり抜けて来た人間の発する表現に対して「理論的に正しくない」とか「左右対照じゃないからダメだ」というのは、意味がない。
というよりも、そういうことって、とってもとってもとってもとっても野暮なこと、少なくとも「粋」な行為ではないと思う。
ところが、そういう野暮がまだいたんですね。
ちょっと古いけれど『ジャズ批評 No.94』(1997年12月発刊)に。
理論通りだと気持ち良い?
この号のメイン特集は「セロニアス・モンク大全集」。
掲載されている「マイルス&モンク1954」(P126~129)を読んで欲しい。笑っちゃうから。
或部 諧という方の文章なんだけど、どうやらこの人は「理論に合っていれば気持ちよく、理論にのっとっていなければ理解できない」というスクエアな感覚の持ち主で、それ以外のモノには拒否反応を示すらしい。
論より証拠。ちょっと引用してみようか。
マイルスもテンションを利かしてプレイする。
けれど、マイルスのノートは、コードを意識したテンションなのだ。美しい。シビレル。体で理解できる。
かたや、モンクのプレイは一般人的ボクの理解力の範囲外だ。
(中略)
ただ、あるかもしれないモンクの和音理論を理解できないことは、ちょっと悔しくもあるので、「モンクはダメだ」とは言えないのである。
だ、そうです。
理論に乗っとったマイルスの表現は、カラダで理解できて素晴らしいそうです。
つまり音楽を聴くたびに、生理的な良い・悪いを判断をする以前に、いちいち「理論に合っている・合っていない」を頭で判定して、しかるべき後に「良い・悪い」という結論を下すという七面倒臭いプロセスを踏みながら鑑賞しているわけですね。
モンクの和音を理解できないから「ダメ」という判断を留保しているという点。
つまり自分自身が「理論で」理解できない音楽はすべて判断しかねる、といったことなんでしょうかね?
だったらソンだと思うなぁ。世の中には、あなたの「感性」を上回る素晴しい音楽がゴマンとあるんですよ。
あれ?言い過ぎかな、悔しがり屋なようなので4千ぐらいに負けときますね。
この4千もある素晴しい音楽が、あなたの感性で理解不能だからという理由で判断を下すのはあまりにも偏狭な行為だと思いませんか?
それも「胸を打つ」「心を揺さぶる」といったレベル以前に「(自分が理解できている範囲での)理論にのっとっていないから」といったレベルで。
「理論」という言葉を「日本語」と「英語」に置き換えてみましょう。
「マイルスは日本語で喋っているから理解できる。ところがモンクは英語だ。ボクの知らない英単語を使って話しているのはちょっと悔しくもあるので、モンクはダメだとは言い切れないのだ」
なーんだ、そうか。勉強不足なワケね(笑)。
この論法でいくと、理論を知っていないと音楽が楽しめないということになりはしないか?
だって、理論にのっとっている、のっとっていないが判断基準なわけだから。だとしたら、理論なぞ知らずに、ジャズを聴いている一般リスナーは一体どうなるのだろう?
理論を知らずにただ漠然と「何やよーわからんけど、モンクはえーなぁ」と聴いている大半のリスナーは一体どうなるのだろう?
「理論」とは?
私はモンクのピアノは理論から外れているとは思わないが、仮に100歩譲って理論に当てはまっていないとしても、モンクのピアノが素晴しいことには変わりがないし、先述した通り、理論というのは過去の統計の集積の一般化だ。
新しい表現が生まれれば、それはそれで新たに分析が施されて新たな理論の1ページが飾られることだろう。
過去から未来永劫にかけて不変なものが理論ではない。
また、モンクのピアノは「守破離」でいえば、完全に「離」の境地であることは言うまでもない。
カタチがイビツな茶わんに向かって、「定型外の規格なので認めません」と発言をしているようなものだ。
独自の境地に至った表現に対して規格外、規格内というのもなんだか虚しい突っ込みだ。
理論を用いた切り口でモンクとマイルスを比較するのであれば、もうちょっと理論を勉強してからの上で批評して欲しかったですね。
だって、「俺の理解の範疇外だから」といった理由で評論されてもねぇ。
俺的には範疇内なんですけど(笑)。
ガーランドのピアノ
或部氏は、たとえばレッド・ガーランドのピアノはどう思っているのだろう?
モンクよりは綺麗で流暢なピアノとお思いなのかもしれないが、彼十八番の「ブロック・コード」、一般的には綺麗という評価だが、「理論様(笑)」に当てはめてみると、意外とハズレが多い(たとえば、Miles Davis『Cooki'n』2曲目の『Blues By Five』冒頭のブロック・コード)。
しかし、理論から外れても気持ちいいものは気持ちいいのだ。
そしてその気持ちよさは、理論を知っている者のみが持つ特権ではない。
ガーランドのようなピアノに比べるとモンクの場合はそれが露骨だから、理論云々という物言いになってしまったような気がしてならない。
だったら「理論」などと大上段に構えずとも「異物感」とか「引っ掛かり」のような言葉で表現した方が、楽器をやっていない読者に対しても親切だったような気がする。
なまじっか楽器をかじったジャズ好きの書いた、理論を知らない読者に対する目くらまし文章の見本のような感じですね。
「クリスマスセッション」の誤解
と、ちょっと穿った意地悪な突っ込みを入れてみたが、どうやらこの人は文字が読めない人らしいので、あまり追求を厳しくしても無意味なのかな、とも思ってきた。
或部氏は同じ記事中でマイルスとモンクのクリスマスセッションに関しては、こう触れている。
マイルスが「オレのバックでピアノを弾くな!」とセロニアスを恫喝したとか、こぶしが宙をきったとか。真実はどこにあるのかわからない。けど、マイルスが自伝でも述べているように、諍いは事実であったらしい。
さて、或部氏が言うところのマイルスの自伝を引用してみよう。
オレが吹き終わって少し経ってから演奏に入ってきてくれと、最初に言ったとおりに、モンクはやっただけだ。なんの口論もなかったし、なぜオレとモンクがケンカしたという話になったのか、まったくわからないな。
どこをどう読めばイサカイがあったと判断出来るのだろう?
「なんの口論もなかった」ことを「諍い」というのだろうか?(笑)
事実の曲解?
本当は自伝を読んでいないだけ?
それとも理解力不足?
実際のところ、レコーディングをめぐっての諍いはあったのか、なかったのかは当事者のみの知るところなのだろう(私はなかったと思っている)が、或部氏は「マイルス自伝によると」諍いはあったと断じている。
これは明らかに引用の曲解だ。
「俺が知らないことをやっているから認め難い。」とモンクの音楽を評し(それって評論?)、引用した原典に書かれていることと正反対の内容が記されている「ジャズ批評 No94」内の或部 諧氏の記事。
こういう評論が載った雑誌をお金を出して買い、何も知らずに鵜呑みにしてしまった善男善女たちに対してはどうフォローするのだろう?
記:1999/12/22
追記
これは自分自身も戒めるつもりで書いているのだが、下手に楽器をかじった人間の音楽鑑賞のうえでの弊害というのは、あると思う。
あるアマチュアピアニストと、名古屋でセッションをした後でこういう会話になったことがある。
「ポール・ブレイって知ってます?」
「知らないけど、その人ってユビウゴク?」
「晩年のパウエルもいいですよね。」
「初期は指ウゴクけど、晩年もユビウゴク?」
「モンク最高っすよね」
「あまりユビウゴカないじゃん」
この人の関心は「ユビウゴク」つまり、速弾き出来るか出来ないかにしか関心が無いのだ。
会話をしていてちょっと幻滅した記憶がある。
技術はあった方が良いに決まっているし、アマチュアはみな尊敬するジャズマンのようにプレイ出来たらな、という憧れは誰しも持っている。
人前で難しい高速フレーズをプレイして、聴衆やライバルから憧れと賞賛の目で見られたいな、という願望は誰しもあると思う。これは別に悪いことではないし、むしろ練習の大きな動機づけにもなるに違いない。
しかし、音楽をトータルで捉えようとする以前に技巧的な面のみに関心が傾きがちになることもまた確かだ。よって鑑賞態度も多少変わってくる。
つまり、木を見て森を見ない。
音楽の正しい鑑賞の仕方というものはあるのかどうかは疑問だし、人それぞれなのだろうけども、瑣末なことにとらわれ、もっと大きなところを逃してまうのは少々勿体無いことだと思う。
つまり鑑賞のポイントが「ウマイ・ヘタ」に重点を置きすぎてしまうということ。
また、なまじっか理論をかじってしまうと、上記或部氏のように「理論に合っているから良い」「合ってないからダメ」というような評価を下しがちだ。
そういう人間を私は大学のジャズ研時代から何人も知っている。そして、概して彼らの発するサウンドは「つまらない」。
美術専門学校崩れにもいるよね。
絵の良し悪しをデッサンが正しい正しくないかの判断しかし出来ない輩が。
技術向上のために好きなミュージシャンのプレイに対して技術的な関心を払うことは確かに必要だ。
また、ジャズをやる上で、理論の勉強もしないよりは、した方が良いとは思う。
しかし、とかくミュージシャンの「フレーズ」や「技巧」的な面にのみ関心が傾いてしまうと、音楽そのものが持つエモーションや表現者の技巧を越えたパワーのようなものに対して不感症になってしまうのではないのだろうか?
記:1999/12/22