オーネットの淋しい女

   

text:高良俊礼(Sounds Pal)

ジャズ来るべきもの

20年近く前に、何かの本「このアルバムは凄いんだ」「過激なんだ」、というようなことを、何だかとてもオドロオドロしく書かれているのを目にして、存在を知った作品だ。

当時「音楽の過激派」を目指して修行中の身であった私にとって、その文章と、意味ありげなタイトルと、ジャケットに映されたオーネット・コールマンという怪しいオジサンの何とも言えない不適な表情は、天啓にも思えた。

存在を気に留めて、「カネの入った時にでも・・・」と思って過ごしていたら、何だかあちこちでオーネット・コールマンについて書かれている書物に出会う機会がグッと増えた。

「あぁこれはもう、ご飯を我慢してでも買いなさいということだな」と思って、急ぎレジに走った。はやる気持ちを抑えながら、1曲目から8曲目まで気持ちの中で大いに「格闘」しながら一気に聴いた。

にも関わらず出てきた心の声は「何じゃこりゃ!?」であった。それ以外は何もない。

淋しい女

とにかく冒頭の《淋しい女》からおかしい。

チンチキチンチキと激しく打ち鳴らされるシンバルと、不規則な間隔で「ボーン、ボーン」と弾かれるベース。

どっちが軸になるビートなのか分からず、呆然とする間も与えずに、サックスとトランペットが、ひどく間延びした沈うつなメロディーを「ダラ~・・・・」と奏でる。

もうどの音を聴けばいいのか?

こういうバラバラなのがカッコイイのか?

そもそもこのオッサンらは何がやりたいのか?

まるっきり訳が分からない。

それから私はずっと聴いてるが、相変わらず訳が分からないし「何じゃこりゃあ」も変わらない。

ところが、この「訳の分からない音楽」、脳を通り越して心の奥底に直接働きかける作用というのがどうやらあるみたいで、《淋しい女》の、あのダウナーなメインテーマを、「すごく聴きたい!」と、ポツポツ思うようになった。

そのうち「これはとても哀しい音楽だ」と思えるようになってきて、何年後かには優しさを感じるようになり、今では「哀しさも優しさもひっくるめて“過激”」とすら思える。

オーネット 音楽 表現

ところが、やっぱりこの曲やこのアルバムや、オーネットという人の音楽が何を表現していて、或いは何を表現したいのかが分からない。分かったつもりでいても、次の瞬間には何だか煙に巻かれたような妙チキリンなモヤモヤが出てくる。つまり「分からないこと」そのものが魅力になってしまっている。

面白いのは、オーネットの捉えどころのない不思議な音楽がクセになってから、ポップスや歌謡曲といった「ちゃんと成り立ってる音楽」の意外な深さに気づく事が多くなった。

「何で?」と言われれば説明できないもどかしさがあるが、“形なきもの”は”形あるもの”を、感性という鏡に照らし出し、より顕かにするのだろう。

ただ何となく、ぼんやりそう思うのでありますが・・・。

text by

●高良俊礼(奄美のCD屋サウンズパル

※『奄美新聞』2009年10月25日「音庫知新かわら版」掲載記事“-The Shape Of Jazz To Come-邦題が「ジャズ来るべきもの」。”を改題加筆修正

記:2014/08/24

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