パロマ・レシオ/トニー・マラビー
高度なアンサンブル
ピアノをスーツケースに喩えるとすると、ギターは手提げバッグだ。
これは楽器の物理的な大きさ、重さ、そしてそれからくる運搬、移動の煩わしさの喩えでもあると同時に、演奏の中における機動力の違いでもある。
いうまでもなくピアノは、重い。
反対に、ギターはアンプやエフェクターなど“電気”の力を借りれば、いくらでもヘヴィに音量・音色を増幅することは可能ではあるが、基本的にはピアノとは正反対のキャラクター。
すなわち軽い楽器であるがゆえ、演奏中における局面のチェンジや、雰囲気の変化をほどこす機動力と身軽さはピアノの比ではない。
たとえば、フリージャズでも普通の4ビートでもいい。
ピアノが参加している演奏と、参加しない演奏を聴き比べると、ピアノという楽器は、音楽という情報空間内における支配のパーセンテージが極めて高いということに改めて気が付く。
“管楽器+ベース+ドラムス”という、いわゆるピアノレスのトリオの演奏にピアノが加わると、演奏の雰囲気はまるで地に足をつけたかのような安定感を増す。
反対に、ピアノが伴奏を放棄した瞬間、増装を落とした戦闘機が一瞬ふわりと軽くなり加速がかかるかのごとく身軽さとスピード感が加わる。
ピアノレストリオが演奏するバラードは、キリリと引き締まった緊張感のある演奏が多いが(というより、そうならざるを得ないのだが)、それにピアノが参加すると、良くも悪くもムーディになり、演奏というよりも音楽を聴いている安心感に浸れる。
ベース、ドラムがリズムセクションを担うトリオ編成でも、ピアノが主役な場合と、ギターが主役な時とでは、安定感から演奏の腰の据わり方まで、えらくサウンドの雰囲気が変わる。
リズムチェンジ、転調、変拍子など、異なる局面に展開する際、ピアノ入りの演奏の場合は、その局面変化は良くも悪くもドラマティカルな“著しさ”を聴き手に与えがちだ。
一方ギターの場合は、もちろんエフェクター等の操作で音色を変化させることにより、場合によってはピアノ以上のドラマティックな演出も可能だが、逆にピアノ以下のさりげなさも生み出すことも可能だ。
たとえば、引越しに喩えてみる。
数軒先に引っ越す場合ですら、ピアノの場合は、専門の運搬業者を巻き込んだ大移動となる。道具と人を動員させた一大作業が必要だ。
それに反して、身一つで気軽に移動できるのがギター。つまり、ピアノよりも数段身軽な楽器だといえる。
さらには、物理的運搬のみならず、音楽的な局面変化においてもギターは身軽だ。 このギターの特性を面白い具合に活用しているのが、トニー・マラビーの『パロマ・レシオ』の1曲目、《Obambo》だろう。
このアンサンブルは面白い。
シンプルなギターの単音のリフから演奏開始。マラビーのテナーがかぶさると、旋律との対比効果で、このリフはより一層トリッキーな趣きが増すが、マラビーのテナーに意識を移動させると、気づけばいつのまにかギターの伴奏パターンが変わっている。
本当に、いつのまに変わったの?と思うほどの身軽な伴奏パターンの変化。
このスムースさはピアノでは無理だろう。
“重い楽器=ピアノ”の場合は、どうしても「さあ、これから変わりますよ」という音の主張と存在感が強く前に出てしまう。
聴き手のほうも、「あ、変わるんだな」と無意識に身構えてしまう。
このチェンジのわかりやすさは、音楽の流れ、ストーリーテリングを際立たせたい場合は、ピアノの存在は非常に効果的だ。
しかし、少なくともこの演奏においては、このようなベタで劇的な変化は野暮とでも言わんばかりの人を喰ったかのような身軽さ。
テンションを変えずに、気づけばいつのまにか変わっていましたという鮮やかな展開をマラビーが狙っていたとしたら、それは功を奏している。
シングルトーンの粒立ちのはっきりとしたリフから、へヴィーな歪のかかった音色まで、ベン・モンダーのギターは面白いほどにクルクルと音色と表情を、いつのまにか変化させている。
淡々と、素っ気無いぐらいの局面変化。気付けばいつしか集団即興的な演奏になっており、よくよく考えてみると、演奏の局面は忙しくクルクルとチェンジしている。
それなのに、劇的に変化したのだという物語性をリスナーには感じさせず、それどころか、演奏の局面が変化しても、この曲の底流に流れるトーンは地続きなんだという安定感を感じさせる。
トニー・マラビーの豪放だが、しなやかなテナーサックスは元より、ギターのベン・モンダー、そして、ドラムのナシート・ウェイツの音楽的反射神経はズバ抜けている。
彼らのコンビネーションも特筆ものだ。
テンションの高い演奏にもかかわらず、決して汗をかいていない冷静さ、素っ気なさも現代風といわれれば、そうなのかもしれない。
激しさよりも、その激しさを知的にコントロールする“意思”のほうが、演奏全体に漂う演奏の連続体、これがトニー・マラビーの傑作『Paloma Recio』なのだ。
スマートな音のパワー。高度なアンサンブル。
これは、演奏者の音が有機的に絡み合い、互いの音を聴きながら反応をしあった結果、一つの確固とした落とし所を共有するハードバップ的な一体感とは一線を画したチーム・プレイだ。
この手の演奏で大事なのは、互いの距離や密集感、一体感ではなく、ビジョンの共有。
テンポ、モード、モチーフ。これらの要素をメンバー同士が共有し、常に演奏中に頭の片隅に置きながら、互いに細かなところまでは寄り添わず、反応し過ぎずに、己の思い描いたビジョンを即興する。
そして、即興とはいえども、共有しているモチーフから外れすぎなければ、結果的に「合っている」し「思いもよらぬ面白い内容」になることもある。
あとは練り上げるだけ。即興といえども、個々の局面では毎回違うアプローチはするにせよ、音のストーリーの段取りは、マラビーのバンドの場合は、相当に練習し、練り上げている形跡が随所に認められる。
かなり入念なリハーサルが施されたに違いない。
コレクティヴインプロヴィゼーション(集団即興演奏)は、最初の段階はハプニングの連続かもしれないが、プレイバックを繰り返しているうちに、どこまで離れて、どこまで寄り添っていいのかという距離感と、己の役ドコロ、そして演奏の方向性が次第に見えてくる。
このプロセスを繰り返し、互いの距離感と音像のバランス感覚がつかめれば、あとは回数を重ねるごとに「練れた」内容になってくるし、楽器同士の距離感もよりエリアが広がってくるものだ。
つまり、一聴、トリッキーにすら聴こえかねないマラビーらのアンサンブルは、机上で練り上げられたアレンジではなく、演奏を通じて「演りながら練り込んでいった」現場感の強いアンサンブルなのではないかと感じる。
この手の演奏手法はトニー・ウィリアムスが在籍していたときのマイルス・クインテットがさんざん試みていた手法に近い。
トニーやハンコック在籍時代のマイルスのライブ盤を追いかけてゆけば気付かれるとおり、彼らはステージの上で日夜、《ソー・ホワット》や《星影のステラ》などの定番レパートリーを題材として、サウンドの距離感の実験をしていたようにも聴こえる。
演奏の一体感は簡単に出せる実力者たち。しかし、一体感だけでは物足りない。同じレパートリーを日夜繰り広げなければならない彼らの次なる興味は、音の離合集散だったに違いない。
どこまで離れられるか。どこまで合わせなくとも曲のトーナリティと全体の整合性、アンサンブルのバランスを保てるのか。
きっとギリギリの綱渡りの状態の中、彼らは各自の立ち位置を計測し、手垢のついたレパートリーにも新しい光を当てる試みを繰り返していたのだろう。
その結果、“重たい楽器=ピアノ”を担当していたハンコックが、あまりピアノを弾かないスタイルに行き着くというのも、興味深い結果ではある。
やはりピアノという楽器は、良くも悪くも、局面変化をドラマチックに演出し過ぎる「音の場」の支配力の強い楽器なのかもしれない(そして、マイルスの関心は次第にエレクトリックピアノやギターに向いてゆく)。
マイルス・クインテットとマラビー・カルテットとでは、楽器の編成や出てくる音の肌触りは、まったく異なるにせよ、ジャズ的な刺激を強く感じるのは、きっと純粋な4ビートではなくとも、即興とアンサンブルへの目線がジャズそのものだからなのだろう。
楽器編成だけはジャズなんだけど、演奏内容がまったくジャズしていないアコースティック・インストゥルメンタルな癒しサウンドが跋扈している昨今、トニー・マラビーのこのアルバムは、まさに「なんちゃってジャズ」の間逆をいく「ほんまもんジャズ」と私は感じる。
アンサンブルの話ばかりに終始してしまったが、肝心なトニー・マラビーのテナーも、もちろん、いいっすよ(笑)。
ゆらゆらと空間をさまよっているようでいて、そのじつドッシリと地に足をつけた安定感。
そこがグー。ポイント高し。
記:2009/10/20
album data
PALOMA RECIO (New World Records)
- Tony Malaby
1.Obambo
2.Lucedes
3.Alechinsky
4.Hidden
5.Boludos
6.Puppets
7.Sonoita
8.Loud Dove
9.Third Mystery
10.Musica Callada
Tony Malaby (ts)
Ben Monder(el-g)
Eivind Opsvik(b)
Nasheet Waits (ds)
2008/06/22-23