ボンクラどもよ、矢野真紀の《うず》を聴け!

      2021/02/10

相反する想い

歯クソの匂いの漂う女は勘弁だ。

いや、べつに歯クソの匂いは実際どんなもんなのかを直接意識をして嗅いだことはないので、あくまでイメージなのだが。

要するに生活感漂い、なんだかやけに自己主張が強い女。

こういう女とは付き合いたくもないし、ましてや一緒に住みたくもない。

しかし、こういうタイプの人とバンドを組んだり、何かクリエイティブな作業を共同で立ち上げると、うまくいかないこともあるけれど、こっちがノケぞるほどうまくいくこともある。

で、結局「不快と快のせめぎ合い」の中で生み出された創作って、その結果もさることながら、そこにいたるまでの創作過程がスリリングで楽しかったりもするのは職業病のなせるわざ?

そんなことを矢野真紀の《うず》を聴くたびに思いうかべる。

リアルな生々しさ

特に、この曲の歌詞。

これがまさに私のイメージの中では歯クソの匂い漂う女の独白だ。

貧乏くさくて、小さなことに拘泥しすぎて、それでいて生活感が漂い過ぎる。

しかし、リアルだ。

ドブネズミのことを美しいと感じる人も世の中にはいるようだが、べつに私はドブネズミが美しいと思ったことはない。
しかし、ドブネズミという表現にリアリティや生臭さすら漂う生々しさを感じることも事実。

このような歌詞を書ける女とは絶対に生活を共にしたくはないが、人間の汚い部分や本音、それも汚い部分も潔く出すことも辞さない本音をズバリと吐ける潔さと、ちょっとした気取りで1パーセントくらいドブネズミチックなどうしようもなさカバーできるセンスは、根っからの表現者でしかなしえないことだということもわかる。

だから、こういう歌を書き、歌う女とは絶対につきあいたくはないが、一緒に表現活動はしたい。
いや、猛烈にしたい。

強烈な個性を放っていることは確かなのだから。

PSY'Sのメンバー

そういえば、PSY'Sというバンド(ユニット?)が80年代の半ば、ほんの一瞬輝いていた時代がある。
このPSY'Sのメンバーは、キーボードの松浦雅也とヴォーカルのチャカの2人。

あとは、バンドのレギュラーメンバー以外のミュージシャンが、それぞれの楽曲に応じて参加する形になる。

この2人のコンビは、面白いことに仕事以外のプライベートでは、一切交流がなかったようだ。
唯一、昼間の喫茶店でお茶をしただけ。
それも本当に一度だけなんだという。

あとは、スタジオやライヴでだけの顔合わせ。
プライベートではほとんど、というよりも、一切交流のなかった2人。

こういう関係も私はアリだと思っている。
むしろ相手のプライベートを知れば知るほど、音楽的なモチベーションが低下する可能性があるからだ。

こういう松浦雅也とチャカのような付き合い方であれば、矢野真紀の《うず》のような歌詞をかける女性とバンドを組んで音楽を表現したいと思う。

そう思わせるだけの、よく分からないが有無を言わさぬ強烈な強さが歌詞に宿っている。

音楽的クラクラ

さらに、歌詞以上に、この歯クソ臭ただよう歌詞をたたみかけるようなリズムとメロディ。

レゲエチックのメロディは、軽やかで心地よい余白があるようでいて、その実、引きずるように重くて、けっこう畳み掛けてくる切迫感がある。

これはかなりクラクラする。

極論だが、私は人をクラクラさせるだけの力を持つ人だけがミュージシャンであれば良いと思っている。

そういった意味では、《うず》を書いた矢野真紀はホンモノのシンガーソングライターであるし、歯クソ漂う歌詞の内容と、歌声、歌い方が見事に一致している。

つまり、見て聞いてきたようなリアリティの伴わない歌詞のための歌詞」ではなく、《うず》の歌詞は矢野真紀の細胞一部が生々しく評支出された言葉であり、メロディなのだ。

だから、こういう歌詞を書いて歌う女は最悪だと思いつつも、結局は魅了されてしまうのだろう。

《うず》は、矢野真紀のアルバム『そばのかす』のなかでもひときわ異彩を放つワン&オンリーの秀逸曲なのだ。

他にも良い曲はあるけれども(たとえばキャッチーな《大きな翼》など)、やはりアルバムの楽曲の中でひときわ強烈なマインドのウネリを体感できるのは《うず》をおいて他にないだろう。

こんな歌詞と、歌詞と不可分なメロディとコード進行を紡ぐ才能は凡百のキレイゴトを、まるで自己啓発セミナーの講師のように並べたてる音楽家の何百倍もの恩沢的パワーを有していると思う。

世界百万人のボンクラたちよ、
矢野真紀の《うず》を聴け!

記:2001/06/18

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