シナン/夢枕獏
2018/06/17
ミマール・シナン
シナンジュ、ではなくてシナン。
スィナンと表記される場合もあるが、要するにオスマン帝国全盛期のミマール・シナン(建築家シナン)にまつわる物語だ。
耐震設計技術を用いた最初の建築家ともいわれている。
一度は行ってみたいと考えている聖(アヤ)ソフィアへの興味から紐解いた小説ではあるが、読み進むうちに、オスマントルコの歴史や文化など、いわゆる「世界史」的な興味よりも、小説そのものがもつ筆致とムードの虜になってしまった。
イスラム文化圏を扱った小説ということから、勝手にギトギトかつ濃厚なテイストをイメージしていた私。
しかし、内容は先入観と間逆だった。
あっさり薄味、淡白で、逆にそのクドさのないところが良い。
いや、実際はどうだったかは分からないし、スレイマン大帝や、主人公・シナンの友人として設定された架空の人物ハサンを取り巻く人間関係は権謀、殺戮とかなりドロドロではあるのだが、そのあたりのギトギトした成分は丁寧にアク抜きされており、まるで帝国ホテルのオニオングラタンスープのように、口当たりは上品なほどにあっさりしているけれどもコクがたっぷりな小説に仕上がっている。
このように口当たりがライトにもかかわらず、臓腑に染みわたるスープだったら何杯でもおかわりしてしまいたくなるのと同様、文庫では上巻と下巻に分かれるボリュームであるにもかかわらず、一気に読み進むことが出来た。
これは、まさに夢枕獏氏の筆力の賜物だろう。
水彩画
ヴェネチアをはじめとして当時のヨーロッパの各地にまで勢力を広げていたスレイマン大帝時代のイメージは、絵画にたとえるならば、まずは油絵が思い浮かぶに違いない。
しかし、夢枕氏がつむぎだすシナンの物語は、どう考えても水彩画なのだ。
細部まで緻密に書き込まず、むしろ色の濃淡と適度なボカしで全体の輪郭を見せてくれている。
世界史には疎く、高校時代は世界史の授業といえば、いつも寝ていたため、いつも赤点ギリギリだった私。
そんな予備知識が乏しい私ですら、あっさりと淡い濃淡の色彩が描き出す世界に引き込んでしまうのだから、これはもう、その当時、最盛期だったオスマン帝国の歴史的魅力や、シナンの業績の素晴らしさ以上に、文体とストーリーテリングの賜物というべきだろう。
トランペットでいえば、マイルス・デイヴィスのアドリブフレーズに近いのかもしれない。
つまりは「抜き」の美学とでもいうべきか。
肝心要な箇所を書き込みすぎない。
いや、むしろ、物語のターニングポイントとなるところほど文字数を費やさずに、読者が想像力を働かせるための余白を設けている。
シナンは、わずかな日数で橋を架け、巨大な船を20日で建造したりすることで、次第に頭角をあらわし、かつスレイマンやその臣下であるイブラヒムから次第に重用されるようになってゆくが、「仕事をしているシナン」の描写が拍子抜けするほど、あっさりとしているのだ。
しかし、読み進めるうちに、だからこそ、その書きこみすぎないことによって生じた余白の隙間風が心地よかったりするから面白い。
世界史やオスマントルコの文化にはまったく興味が無いという人も安心して読める小説だ。
また、シナンは、キリスト教からイスラム教に改宗しており、作中にも「神」についての独自の見解が建築とともに語られるシーンも少なくないが、特に無宗教でキリストやマホメットにはまったく関心が無くても、宗教独特の説教くささは感じることなく読めるし、むしろ本書で登場する「神」とは、宗教というよりも主人公・シナン独自の「哲学」であり、さらには建築家としての「建築にまつわる美学」と置き換えても良いだろう。
だから、いっさい宗教モノ特有のクドさがないのだ。
これを読むことによって世界史に興味を持つきっかけになる人もでてくるかもしれない。
しかし、私のように結果として「お勉強」としての読書にはならず、文体と語り口の心地よさを味わうための、いち文学作品として位置づけられるものの、その先への興味へはあまり繋がらない人もいるだろう。
しかし、グラデーションの美しい水彩画を心地よく味わうような豊穣な時間を手にしたいという方には、是非とも世界史やイスラム文化圏に対しての関心の有無など関係なしに手にとってほしい作品だ。
記:2018/06/16