少々飽きてしまったザ・バッド・プラスの『ギヴ』について。
「轟音」ピアノトリオバンドのバッド・プラス。
彼らがシーンに登場したときは、面白い試みのバンドが現われたなと思ったが、今はそれほどでもない。
正直、飽きてしまった。
聴きすぎ、ということもたしかにあるのだが……。
長年にわたって聴き続けられるような音楽かというと、私の場合は「?」なのかもしれない。
バッドプラスは、一言で言ってしまえば、ジャズピアノとロック風8ビートのリズムが組み合わさったユニークなグループ。
昔からジャズロックなるものはあったが、彼らの8ビートのフィーリングは、ジャズロックとはまったく異にするテイストだ。
たとえばジャズロックの代表に挙げられるリー・モーガンの《サイドワインダー》でのビリー・ヒギンズのドラミングを聞けば分かるとおり、このビートは、あくまで4ビートの延長だ。
ロックの8ビートを取り入れたドラミングではなく、4ビートのアクセントや跳ね方をアレンジしてみたら、「8ビート風」なリズムになったに過ぎないと私は感じている。
リズムが本質的に、弧を描くように円形なのだ。
それに比べると、バッドプラスの8ビートはもっと硬質だ。
《サイドワインダー》のように4ビートの延長としての8ビートではなく、最初から8ビートの角ばったリズムを戦略的にピアノトリオというフォーマットに導入している。
ベースもピアノも、すごく良いプレヤーだと思うのだが、このような形態でジャズらなくてもいいのにと思うのは私だけか。
型に囚われない、新しい試みをする。
これって賞賛すべきことだ。
しかし、先進的な感性を気取ったジャズ批評者の多くがバッドプラスを賞賛するときは、「新しい」「珍しい」という言葉だけが独り歩きをしていまいか?
たしかに斬新なのはイイことかもしれないが、キーワードの斬新さと、内実ともなった斬新さとは違うと思う。
“試み”についてだけだったら、私も評価出来る。
しかし、その“試み”がもたらす“音楽的効果”について、彼らは本当に責任を持って良いと言えるのか。
斬新さのための斬新さは、飽きられるのも早い。
日本盤のオビのキャッチフレーズは、“こんなピアノ・トリオ聴いたことがない!”とある。
ええ、私も聴いたことありませんでした。
でも「聴いたことがない」音楽を耳にして、じゃあ、あなたは、経験の有無以前に、音楽そのものをどう捉えるのか?
そちらのほうが重要だよね。
「聴いたことがない」ことに価値を置くのもいいが、それは、単にキーワードを鑑賞しただけで、音楽そのものを鑑賞したことにはならない。
新しいことに価値を置くことは悪いことではない。
たしかにジャズは革新の連続で生きながらえてきた(いる)音楽でもあるからだ。
たとえば、パーカーやガレスピーのビ・バップ。
たとえば、オーネット・コールマンやアルバート・アイラーの“メロディ・ジャズ(私は彼らの音楽はフリージャズと呼ばない)”。
たとえば、マイルス・デイヴィスの電気楽器を導入した「ゴッタ煮音楽」。
しかし、オーネットの音楽は奇をてらうための奇ではなく、天然に吹いた結果がたまたま周囲にとっては「奇」に映っただけだし、マイルスにしても、周到に準備と試行錯誤を重ねた末の芯と骨格の強度を保った音楽ゆえ、いまだに聴かれ次がれているのだ。
「新しいことをやろう」という意欲は当然あったにしても、新しいことをやりながらも表現の強度を保てたのは、新しいことのための新しいことではなく、普段より自身で考え、実行してきたことの延長線上の表現が、たまたま「新らし」かったに過ぎないのだ。
では、バッドプラスには、果たして、このピアノにこのようなスタイルのドラムは必要なのか。
私が結論を出すべき問題ではないが、もっと違う選択肢があってもいいのではないかと思ってしまう。
試みの面白さだけでは、音楽は聴きつがれない。
流行歌と同じ運命を辿るだけなのだ。
バッドプラスのファンには申し訳ない。
保守的なジャズオタクのたわごとだと思って聞き流してくだされ。
しかし、前言を翻すようだが、2曲だけ、いまでも愛聴している曲がある。
1つは《ヴェローリア》。
8ビートのドラムが被さった瞬間、さらにこのビートにピッタリと寄り添い、イーブンな8分音符を奏でるピアノが最高にカッコいい。
もう一つは《アイアンマン》。
意表を突いたブラックサバスのカバーだ。
この2曲だったら、8ビートの導入もうなずけるし、この演奏にはまさにデヴィッド・キングの四角いドラムこそが最も適していると思う。
記:2005/09/23