本とパンゲアと、ノルウェーのイワシとナマズと、そしてマイルス
ベンのトランペット
先日、帰宅したら、ネットの通販で購入した本がドッサリと届けられていた。
私は書店の店頭をぶらつきながら、様々な本を長い時間をかけて物色することが好きだ。
書店によって、本の並べ方や、力の入れ具合が違っているので、全く気にも留めなかった本が、ディスプレイの仕方一つで、ひどく魅力的に見えることも多く、結果、衝動買いをしてしまうことも多い。
こういうハプニングが楽しいのかもしれないし、ディスプレイや、その時の気分で思いもよらぬ買い物をしてしまう楽しみは、ジャズのCD屋さんめぐりと同じ楽しさなのかもしれない。
特に、六本木の「青山ブックセンター」や、「高円寺の文庫センター」のように、深夜(あるいは早朝)まで営業している上に、人文書やマニアックな本の並べ方が魅力的な書店だと、何時間店にいても飽きることなどまったく無い。
私がよく「酔い醒まし」に立ち寄る六本木の青山ブックセンターのレジ前で展開している人文書のコーナーは、なかなか興味深い。
なにしろ、読んでも理解出来ないくせに、「よし、俺もいっちょ読んでやるか!」という気分を私に起こさせるのだから。
一冊一冊の本を魅力的に見せる並べ方の工夫がされているのだと思う。
「高円寺文庫センター」なんかは、さり気なく、他店では見たこともないような珍しい希少本も混ぜながら、こんな本もあったのか!と思わせる配置の仕方をしているので油断ならない。4万円もする『ゲゲゲの鬼太郎』のボックスセット全集を見たときは、思わずゴックンと唾を飲み込んでしまいましたですよ。結局高くて買ってないけど……(涙)。
このように、品揃えが独特な書店めぐりをすると、結局レジに持って行った本の合計金額が、所持金を上回ってしまい、カード払いにしてしまうこともしばしばだ。
しかし、このような買い物を私にさせてしまう書店こそが、最高の書店だと私は思っている。
だって、『ハリーポッター』や『ゴーマニズム宣言』や『細木数子の占い本』のようなベストセラーもののように、明らかにベスト入りすることが分かっているような、“売れの読める商品”ばかりを「どうだ!」と言わんばかりに山積みにしている書店をめぐっていても楽しいですか?
ドカンとワゴン展開したり山積みしたりするのはいいんだけど、その全部が売れるわけではなく、残った商品は出版社に返品しちゃうんですよ?
威勢はいいが、必ずしも、この並べた商品の全部を売り切ってやるという気持ちで並べているとは限らないんですね。
特にチェーン店系の店に多いのだが、要するに、売れ筋ものばかりがドカンと目立つように置かれて、細かい商品までの気配りが行き届かず、結局は品揃えがどこの支店に行っても均一で金太郎飴のような店は本当につまらない。
もっとも、出版社の在庫の動向を掴み、なおかつ自分の店で売れる本の数を予測しながら本を発注出来るほどの商品知識と経験を身につけた一人前の書店員が育つまでには、一説によると5年から7年もかかるそうなので、商品知識の乏しいパートやアルバイトで多くの人員が割かれているチェーン店に、品揃えのセンスの良さを望むこと自体ナンセンスなことなのかもしれないが……。
おっと、話がものすごく脱線してしまった。
えーと、何が言いたかったのかというと、私は書店(ただし、自分が好きな書店)をぶらぶらしながら、本を買うことが好きなんです、ということだった。
しかし、平日は仕事が忙しく、休日は遊びが忙しく、書店めぐりをしたくても、最近はなかなか出来ていないのが現状だ。
それでも読みたい本は山ほどあるし、買って手元に置いておきたい本もたくさんある。
だから、本意ではないけれども、欲しい本は確実に手に入れるために、最近では、積極的にネットの通販を利用するようになってきている。
欲しい本が溜まってきたので、先週末は一気に欲しい本をドカンとまとめて注文したばかりだったのだ。
そして、その発注した本が先日届いていたというわけだ。
ダンボールで梱包されて送られてきた本の中の1冊に混ざっていた絵本、それが『ベンのトランペット』だ。
この絵本、たしかカバーの上に帯が付いているはずだが、送られてきた商品にはカバーがついていなかった。この本と一緒に発送されてきた数冊の文庫本も、すべてカバーが外された状態で送られてきていた。
どうでもいいけど、アマゾンって、新刊ではなく発売してから時間の経った本を注文すると、帯を外された状態で送られてくるもんなんですかね?
私は、帯も装丁の一部だと思っているし、実際、帯だって表紙の一部としてデザインをしている装丁家のほうが多いはずだ。
加えて、出版社のほうも、書店から返品されたものを改装して出荷することを前提に、帯もカバーも、書籍の本体よりもかなり多い枚数を刷っている。
つまり、作り手側としては、帯も大事な商品の一部と考えて流通させているハズなのだが、一部書店によっては、平積みのときは帯をかけているけど、棚差しにする時には帯を捨ててしまっているところもある。
アマゾンもそのような考えなんだろうか?
商品の一部を欠損させたものでも、割り引いて販売してくれるのなら、それはそれで納得出来るかもしれないが、日本という国は、いまだ“再販委託制”なるシステムの国。
詳しくは割愛するが、結論から言うと、仕入れたものは返しても良いかわりに、値引きして商品を売ってはならない、ということ(岩波新書のように返品が出来ない“買いきり商品”も中にはあるが←だから最近の書店は岩波新書のコーナーの無いところが多い)。
商品の一部である帯を捨ててしまい、なおかつ値引きをしなくて、さらに売れなければ返品する。
なんか、書店にとってはオイシイ話だよね。
スーパーが、仕入れた牛肉や魚を「売れないから・賞味期限が過ぎたから」と返品するようなものだ。もちろん、スーパーの場合はそんなことは許されるハズもなく、賞味期限が迫ってくれば値引きをしたりして、少しでも在庫を減らすように努力をするはずだ。
しかし、書店は値引きが出来ない。だけど返品は出来る。
近所に、すべての新書の帯を破り捨ててディスプレイしている書店があったので、店長を呼びつけて、そんなことしていいものなのかと尋ねたら、取次(本の問屋さん)は、帯の無い新書でも返品を受け付けてくれるから良いのだと主張していた。
出版社に帯の無い本が返品されてきたら、このままでは商品としては売り物にはならないわけで、あらかじめ多めに作っておいた帯を取り付ける手間と労力は出版社側が費やさなければならない。
値引きの出来ないシステムが悪いのか、それとも、どうせ売れなければ返品すればいいんだからという考えが安易なのか、それとも、商品を破損させても返品が可能なんだから、邪魔な帯なんか取っちゃえと考える書店員が傲慢なのか。
さて、余談はさておき、この『ベンのトランペット』は、学生の頃に、原宿のクレヨンハウスという絵本の専門店で立ち読みをしたことのある絵本だったが、子供にも読んで聞かせてあげようと思い、購入に踏み切った本だ。
レイチェル・イザドラの独特の絵に、谷川俊太郎が翻訳の文章。
「ジグザグ・ジャズクラブ」で演奏している、イカしたトランペッターに憧れる貧しい黒人の少年と、トランペッターとの心温まる交流の話だ。
この本に対する唯一の不満は、ピアニストやサックス奏者やトロンボーニストやドラマーはカッコ良く出てくるのに、何故か、ベーシストが出てこないということ。
しかし、全員で演奏している風景のイラストを見ると「ジグザグ・ジャズクラブ」に出演しているバンドにはベーシストがいないようなので、まぁそれはいいとして、とにかくサラりと良い話なので、私は子供に『ベンのトランペット』を読んであげようとした。
せっかくだから、バックの音楽はトランペットの入ったジャズにしようと思った。
どのCDにしようかと考える間もなく、私はマイルス・デイヴィスの『ディグ』に手が伸びていた。
絵本の中のトランペッターは、どちらかというとハワード・マギーを彷彿とさせるルックスだったが、この絵本のイラストの雰囲気は、私にとっては『ディグ』なのだ。
スタジオ録音のアルバムだが、私が思い描く絵本の中のジャズクラブの熱気と、喧騒と、退廃的な雰囲気は、まさに「ディグ」がピッタリなんじゃないかと思ったのだ。
マイルスのトランペットも力強く自信に漲っているし、マクリーンのアルトも熱い。
もっとも、この絵本の中の世界は、ディグよりももっと昔の時代背景なのかもしれないが……。
とにかく、一曲目の《ディグ》をかけながら、私はゆっくりと子供に『ベンのトランペット』を読んであげた。
うーん、我ながら、ピッタリな選曲だなと悦に入りつつ。
朗読を終えた私は、隣にいた女房に、《ディグ》がピッタリの絵本だろ?と、ちょっと得意げに尋ねた。「うん、ピッタリだね」と言ってもらいたかったからだ。
ところが、うちのぶっ飛んだカミさんは、なんて言ったと思う?
「マイルスだったら、私は今『パンゲア』を聴きたい気分よ」
ぱ、ぱんげあ、っすか!?
べ、別にいいんだけど。
パンゲアが聴きたい
うちでは日常的にかけているアルバムだし、何より子供がお腹の中にいるときから“胎教音楽”として積極的にかけていたアルバムの一枚だったし。
子供と家にある楽器を手当たり次第に滅茶苦茶に鳴らして遊ぶ“フリージャズごっこ”をするときの音楽も『パンゲア』か、『セシル・テイラー・ユニット』だったりするので、子供も好きな音楽なんだけど……。
しかし、『ベンのトランペット』に『パンゲア』は、ちと合わないんじゃないか?
と思ったら、どうやらそうではなく、女房は『ディグ』を聴いていたら、もっとノリと音圧が強烈な音楽が聴きたくなってきたらしい。
だから、『パンゲア』という単語が口から出たようだ。
『パンゲア』の一曲目のほう、《ジンバブエ》をかけた。たしか3日前に聴いたばかりだよなー、と思いつつ。
冒頭から飛ばしまくるアル・フォスターの“ズッチャーン・ズズチャーン!”のドラムは、もう何百回聴いたことだろう。
でも、これの無い『パンゲア』は『パンゲア』じゃないし、何度聴いてもエキサイティングな出だしなことは確かだ。
ちなみに、この“ズッチャーン・ズズチャーン!”がさらに激しいのが『ダーク・メイガス』だ。
テンポはもっと速いし、音の密度も『パンゲア』よりもずっと濃い。なにや冒頭の一打目から雰囲気が殺気だっている。
だから、私の場合、音空間のヤバさ、演奏のエグさ、そして、息苦しいほどの密度の濃さは『ダーク・メイガス』のほうが『パンゲア』よりも勝っていると思っている。
しかし、同じタイプの演奏でも、『パンゲア』には『パンゲア』にしか無い良さが少なくとも2つはあると思う。
1つは、冒頭。
始まったばかりの“ズッチャーン・ズズチャーン!”のリズムが、いったん止まる箇所だ。このタイミングが、素晴らしい。
恐らくマイルスが手刀で空を切るような動作をしたのだろう。この時期のライブ映像を見ると、マイルスがメンバーにリズムの停止や、再開の合図を出すときは、まるで仮面ライダーアマゾンが必殺技・大切断を繰り出すように、手の平を上から下に振り下ろしている(怖い…)。
この、ほんの一瞬のリズムの停止が、とても効いている。
ほんの少しの静寂と、音の空白地帯。
そして、再び洪水のようなリズムが始まるが、この空白は非常に効果的に演奏のムードを高めている上に、演奏をピリッと引き締めている。
この場所にして、このタイミング。そしてこの時間の空白。
あまりにも絶妙だ。
『ダーク・メイガス』の場合は、“ズッチャーン・ズズチャーン!”が始まると、すぐにマイルスの“電気ラッパ”がリズムに斬り込んでくる。
いきなり最初からエンジン全開の演奏だが、『パンゲア』の場合は、なかなかマイルスのラッパが出てこない。
例の“余白”の後、しばらくしてから漸くマイルスがトランペットを吹き始める。
この瞬間までの“マイルス不在”の空白が、嫌が応にも期待感が高め、その期待感をさらに増長しているのが、例の“空白”なのだ。
マイルスは、そこまで考えて“リズム停止”の指示を出したのかどうかは分からないが、たとえそれが偶然だったり気まぐれだったとしても、マイルスはタイミングの魔術師だと言わざるを得ない。
この空白の有無が『パンゲア』ならではの魅力、その1。
その2は、あまり語られることの無い2番目の演奏《ゴンドワーナ》だ。
最初の演奏「ジンバブエ」に圧倒されて、聴くのを止めてしまうリスナーも多いと思うが、こちらの演奏もなかなか良い。
《ジンバブエ》だけじゃ、『パンゲア』の魅力の半分しか味わえないし、攻撃力の高い演奏だけが、当時の“マイルス軍団”の持ち味ではない。
楽園チックと、暗黒チックの入り混じった《ゴンドワーナ》は、間違ってもストレートな爽やかさではないし、かといってドロドロとした暗黒でもない。
冒頭のソニー・フォーチュンのフルートは、一聴、たしかに楽園的で、爽やかな印象を与えるかもしれない。しかし背後に忍び寄るマイルスのオルガンなのだろうか、モワーとした曖昧な輪郭の低音による不吉なリフは、爽やかさに到達する一歩手前で、暗黒の淵に引き戻すような力が働いている。
このバランス感覚がたまらない。そして、このセンスは、マイルスならではのものだ。このマイルス独特の明と暗の配合の美学を味わえる曲こそ《ゴンドワーナ》で、これが『パンゲア』ならではの魅力、その2。
言い方悪いが、マイルスという人は、ヘソ曲がりなところがあると思う。
もちろん、彼の人間性を云々したいわけではない。
自分なりの音楽表現を考えに考えた末、結果的に辿り着いた方法が、ヘソ曲がりと受け取られても仕方がないところがあるということだ。
一言で言ってしまうと、単純さや、分かりやすさを潔しとしないところ。
当時のマイルスは、スライやジミヘンのサウンドから多大な影響を受けている。これは彼の自伝を読めば分かる通り、自らも認めていることだ。
そんなマイルスのことだから、その気になれば、ストレートでノリノリなサウンドや、あからさまにロックな音楽を作ろうと思えばいくらでも作れたはずだ。
しかし、マイルスは、そのようなストレートな路線を歩まなかった。
あえて、不純物を混ぜたり、混沌や葛藤を作り出すことによって、サウンドの幅を広げようとしていた気がしてならない。
たとえば『オン・ザ・コーナー』においては、ノリの基本はファンクなのだが、シタールなどの、およそファンクとは無縁なインドの楽器を混ぜている。
また、この時期のマイルスはオルガンも弾くが、このオルガンの使い方がエグく、演奏の流れをせき止めるようなグシャッとした和音を、まるで音楽に汚しをかけるように弾いている。
彼の押さえる和音の響きは、なんとも形容しがたい独特な味があるが、曲のキーやコードがどうといった理論的なことからは離れて、雰囲気一発、それも不気味で禍々しい暗黒な雰囲気を強調するために使用していることが多い。
さらに、彼のメンバー対する要求も、常人には及びもつかない発想だ。
マイケル・ヘンダーソンのように、持ち味を活かす使い方をすることもあるが、持ち味とは逆の使い方をすることもある。
たとえば、一番良い例がアル・フォスターだ。
彼の持ち味は、繊細なシンバル・ワークだ。
リズムの乗り方に関しては、人によって、好き嫌いのハッキリと分かれるドラマーだが、少なくとも彼が4ビートを叩いたときの、淀みの無いシンバルレガートに関しては、誰もが認めるところだろうと思う。
しかし、そんなシンバル・ワークの美しい人に、乱暴なシンバルを叩かせるマイルス。
例の“ズッチャーン・ズズチャーン!”だ。
また、このアルバムには参加していないが、ギターのジョン・マクラフリン。
彼はイギリス人で、当然白人だが、驚異的なテクニックは誇るものの、どうしても黒いノリやフィーリングは出せない。
しかし、マイルスは『ビッチェズ・ブリュー』や、『オン・ザ・コーナー』など、黒くて重たいウネリのサウンドのレコーディングに彼を参加させている。
一見、相容れないタイプのミュージシャンを“異物混入”することによって、演奏を重層的に、そしてより活性化させるためのカンフル剤とさせているのだ。
緊張感で死なない
ノルウェーの漁師の話。
ノルウェーには、“イワシ漁”に出る際は、必ず船の生簀にナマズを入れて出航していた漁師がいたという。
なぜかというと、イワシの鮮度を保ったまま、帰港するためだ。
なぜ、イワシンの鮮度を保つ必要があるのかというと、たいていのイワシは、デリケートな魚ゆえ、捕獲されると船が港に帰る前に死んでしまうからだとか。
死んだイワシは、高く売れない。
そこで、登場するのが、ナマズだ。
捕ったイワシを、ナマズのいる生簀に入れる。お互いビックリ。
見たことも無い魚同士がご対面。
おまけに、ナマズは淡水魚なのに、海水の中に入れられて、なにやらヘンな気分。一方イワシのほうだって、見たことも無い不気味な魚が、同じ生簀の中で「塩水は苦しいよ~!」と暴れている。
互いに睨みあいの状態が続き、緊張感に包まれているうちに、船は港に到着。
生きたまま、鮮度の高いイワシがめでたくセリに出されるというわけ。
緊張感が結果的にイワシの生命力を高めるというわけだが、マイルスの狙いも、それに近いものがあるんじゃないだろうか?
たしかに、同じ傾向のプレイをするミュージシャン同士をくっつければ、安定した演奏が期待出来るかもしれない。
しかし、その反面、ハプニング性は薄れる。
逆に、明らかに自分の守備範囲外のプレイをするミュージシャンを配すれば、お互いの緊張感が高まり、それゆえ、彼らの実力以上のプレイを引き出せる可能性もある。もちろん、失敗すればヒドい結果になるのだろうけど。
この時期のマイルスは大きなサングラスをかけて、まるでメンバーを威嚇するかのようにステージの隅から隅を睨み付けていたが、それに加えて異なるタイプのプレイヤーを強引に配して、前任未踏の巨大なサウンドを創造しようとしていたのだから、メンバーは常に神経をピリピリとさせながら、必死にプレイをしていたに違いない。
さもないと、サングラスを外した親分から、オッカナイ目でギョロリと睨まれるか(このシーンをビデオで見たことがあるが、ホント、オッカナイです)、あっさりとクビを切られてしまうのだから。
マイルスは、プレイヤーが必死にプレイをせざるを得ない環境づくりもうまかったのだろう。ヘソ曲がり以上に、極悪人だったんだろうな。
というのは半分冗談だが、こと音楽に関しては一切の妥協をせず、少しでも良いサウンドを作り上げようという姿勢を貫いた結果、このような『パンゲア』における最高の布陣を最終的に築き上げたのだと思う。
マイルスは、タイミングの魔術師であると同時に、人と音をコーディネイトする魔術師でもあったのだ。
ところで、せっかくの『パンゲア』だ。サウンドの迫力と同時に、先述したメンバー各人の高密度な集中力も味わいたいものだ。
「ジンバブエ」を聴いて、最初は凄い演奏だけれども、だんだんメンバーが疲れてきて、演奏がダレてくると評している人もいるが、それはトンデモない誤解だ。
テンポがスローになり、サウンドの肌触りが変化しただけに過ぎず、むしろ「ジンバブエ」においては、後半になればなるほど、メンバー各人の気合いと集中力が濃密になってきていることに是非、気がついて欲しい。
むしろ、《ジンバブエ》の前半は、“お約束の出だし”に乗っかっているがゆえ、勢いのある演奏になることは当然なのだ。
後半になると、何が起こるか分からない予断の許されぬ緊迫した雰囲気に耳を澄ませ、神経を研ぎ澄ませる異常なメンバーの緊張感が、濃密な靄のように、我々の耳に重くのしかかってくるのだ。
重い。
それに、体調が良くないときは、疲れるを感じるかもしれない。
エネルギーもテンションも最高潮に達した『パンゲア』(と『アガルタ』)の大阪公演。
さすがのマイルスも、このテンションのまま、音楽創作活動を続けることは難しかったのだろうか、このライブを最後に、80年代になるまでの約6年もの間、第一線からは退くことになる。
記:2002/10/18