ロン・カーター ブルーノート東京 ライヴレポート
2023/02/09
「ブルーノート東京」で行われた、ロン・カーター・ウィズ・ラッセル・マローン&ジャッキー・テラソン“ザ・ゴールデン・ストライカー・トリオ”のライブに行ってきました。
う~む、感想を一言で言いますと、枯れた感じでした(笑)。
もちろん、演奏が悪いというわけではありません。
独自の音世界が作りだされていました。
ストイックでした。
静かでした。
特に《マイ・ファニー・バレンタイン》の張りつめた静けさは、食器にナイフやフォークがあたるカチンという音どころか、座る向きを変えるときのススッと布が擦れる音さえも響き渡るぐらいだったので、一生懸命押し殺しながら咳をしているお客さんもいたほどでした。
ツバをゴックンする音すらも聞こえるんじゃないかというぐらいの静寂空間。「固唾を呑んで~」という言葉の意味を生まれて始めて体感しました(笑)。
もちろん、演奏が悪いというわけではありません。
むしろ、これだけ客席をシーンと張りつめさせるだけの音空間を構築し、維持出来るのだから、並々ならぬ力量なのでしょう(ピアノ+ギター+ベースという楽器編成もあるのでしょうが)。
いやぁ~、でも、やっぱり、ちょっと肩が凝ったなぁ。
「お~いぇ~!」とは対極の世界だったもんなあ。
もちろん、そういうライヴも嫌いではないのですが。
しかし、あまりにも「枯れ~」な味わいのステージだったので、カレーを食べたくなってしまったのですが(もちろん激辛)、あいにく、青山周辺の辛いカレー屋を知らなかったので、コンビニで「LEE 20倍」を買って帰り、さっき食べ終わったところです。
ま、たまには、こういうのもいいのかなぁ?
このロン・カーターの「ゴールデン・ストライカー・トリオ」のライブ、彼らが繰り出す「枯れた」サウンドの根幹は、すでに1972年に完成されていたと感じます。
そう、ロン・カーターとジム・ホールのデュオ『アローン・トゥゲザー』ですね。
※ライブ見れなかった人は、これ聴くといいかも
音数少ないギターとベースが繰り出す、この枯淡の境地、かつ地味渋(じみしぶ)なサウンドを核に、では、ピアノがどう加わり、色づけしてゆくのか。
これが、トリオ編成となった「ザ・ゴールデン・ストライカー・トリオ」における、ピアニストに課せられた任務だったと思います。
昨日のブルーノートでのライブのピアニストは、ジャッキー・テラソン。
テラソンのアプローチは、基本は、ギターのラッセル・マローンと、ベースのロン・カーターが築き上げる幽玄な世界を壊さず、必要最小限の音で、彼ら二人の中に溶け込もうとしているかのようでした。
とにかく、ピアノの音数が少ない。
ほとんど左手は使わず、シンプルなシングルトーンのアプローチが中心です。
しかも、そのシングルトーンも複雑、難解なフレーズはほとんど出さず、間を重視した、一音一音のニュアンスに精魂を込めたような奏法。
《マイ・ファニー・ヴァレンタイン》のAメロにいたっては、ギターもベースも伴奏なしの中、テラソンは、右手だけで、“あのメロディ”をほとんどフェイクさせずに、訥々と弾いていました。
そのときの会場の緊張感たるや並大抵のものではありませんでした。
ロン・カーターとマローンがソロを取っているときに和音で伴奏をつけるときも、消え入るような小音量。
とにかく、ロン・カーターとジム・ホールが、既に30年以上前に確立しているベース&ギターデュオのサウンド世界を壊さぬよう、控えめに控えめに、細心の注意を払いながら色付けをしているかのような演奏姿勢が印象的でした。
本当はもっと弾きたいんだけど、それはこのトリオのコンセプトじゃないから、10音のニュアンスを1音に注入して弾かねば!
そう思いながらテラソンは弾いていたのかどうかまでは分かりませんが、とにかく、たった1つの音を弾くのにも苦悶の表情(恍惚の表情?)を浮かべ、身をよじりながら、指を鍵盤の上に落としている姿が印象的でした。
ベースとコード楽器のギター。そこに、さらにもうひとつのコード楽器(=ピアノ)が加わった中、ピアニストとしての立ち位置とアプローチが、アンサンブルの中にどう溶け込み、どう立つのか。
ロンのベースよりも、ジャッキー・テラソンのピアノに釘付けにされてしまったライブでした。
ちなにみ、私が好きなテラソン参加のアルバムは、以下の2枚。
今回のライブで、上記2枚の演奏とは、まるで別人のようなテラソンを見れたことが、収穫といえば収穫だったのかもしれません。
記:2010/05/08